『京都名庭を歩く』 (宮元健次・著)光文社新書 を読んでいたら、豊臣秀吉は死期が近づくにつれ、吉野、高野山、醍醐、有馬と、何かに取り憑かれたように花見に狂ったそうです。
しかし、この気持ちは私にもわかります。50歳に近づいた頃からもう、「自分はあと何回花見をできるだろうか」と思うようになりました。
桜は年に一回、ごく短い期間しか咲きません。会社勤めをしていると、土日と桜の満開がうまく重なるチャンスはほんとうに年にたった一日か二日だけ。生きていて春に桜を眺められるということの貴重さを身に染みて感じるようになります。
吉川英治の『新・平家物語』を読んでいて、私の心を深くとらえたのは源義経でも平清盛でもなく、西行法師でした。西行の有名な歌に下記がありますが、
願はくは、花のもとにて 春死なむ
そのきさらぎの 望月のころ
この歌のこころも実感として伝わってきます。
春、桜の咲く頃は、木々は芽を吹き、花も咲き始め、虫も出てきて、世間は生命感に溢れてきます。そんなとき死に想いをはせると、この世が無性に愛おしくなる。死は穢れではあるけれど、どうせ死を迎えるなら、桜の咲き乱れる頃その花に埋もれるようにして死にたいものです。
花を愛でる美意識と、死すべき運命を受け入れるにせよ、やはりこの世は愛おしいという気持ちと、それらがひとつになって歌われていると私は感じます。