
鎌倉で「やぐら」の写真をたくさん撮って、「鎌倉時代のお墓です」と書いたことがありますが、ただでさえ狭い鎌倉に供養のためのお堂などをどんどん建てられると困るので、それが禁止されてからのことです。
鎌倉時代初期の身分の高い人は「法華堂」というのを建てていました。
名前が残っているところでは、源頼朝、北条政子、源実朝、北条義時は法華堂を建てていて、場所がわかっていたり発掘されたりも少なくとも文書に法華堂のことが書かれていたりします。
「鎌倉幕府跡を歩く…」の記事で、碑の中に頼朝の法華堂について記載がありましたが、その所在地は大蔵幕府のあった北側の山の中腹です。
清泉小学校から近いので、3月11日に大蔵幕府跡付近を散策した後に行ってみました。
いまはただ、「頼朝の墓」があるだけ、と聞いていましたが、なにやらしっかりした参道があり、階段の上には鳥居が見えます。
階段の下左側に、「白旗神社」というのがありました。

さあて、頭の中がこんがらがってきたのはこのときです。
階段上の「頼朝の墓」があるところが「法華堂跡」であると聞いていたのに、白旗神社前の説明書きには、神社のあるところそのものが「法華堂跡」であると書いてあります。
どちらが正しいのでしょうか? そもそも「白旗神社」というのは何なのでしょうか?

じつは鶴ヶ丘八幡宮の中にも「白旗神社」というのが存在することを、ぼくは知っています。Wikipedia によると、「関東地方・東北地方・中部地方に分布する神社である。白幡神社・白籏神社とも表記される」とあります。
よくよく読み込んで、ようやく納得がいきました。「祭神が源頼朝」なのです。源頼朝は神様になっていたのでした。
写真の「白旗大明神」とは、つまり「源頼朝」なのでした。
「白旗」という名称も、いわゆる「源氏の白旗」にちなんだもののようです。

どこがほんとうの法華堂跡なのかどうもすっきりしないまま、ともかくも階段を登ります。
頼朝は神様なのですから、墓へ登る階段へ行くのに鳥居をくぐって当然なのでしょう。
階段を上がり、鳥居をくぐり、登りきった正面に源頼朝の墓があります。
亡くなったのは1199年です。

亡くなった頼朝は自身の持仏堂であった法華堂に葬られ、頼朝の墓所として厚く信仰されたとのこと。
この供養塔は、後に島津藩主 島津重豪 が整備したものそだそうです。

墓石(供養塔)を横から眺めると、苔むした様子がわかります。

頼朝の墓の左右には広いスペースがあり、丘の上の鎌倉市の説明書きには、ここが法華堂の跡である、と書かれています。
困って事後にいろいろと調べました。
あるサイトによると、「昭和2年に山稜中腹部の塚と石塔を源頼朝墓、山裾部の廟所跡(現在の白旗神社境内)を法華堂跡として史跡指定した」ということがあったそうです。しかし、その後研究が進み、源頼朝墓のある中腹の平場が法華堂跡であることが明らかにされ、平成12年に法華堂跡(源頼朝墓)に統合・名称変更された、とのこと。
ようやくすっきりしました。

上から下を見下ろすと、先ほどの白旗神社の屋根が見えます。

階段の上からの長めは上の写真のような感じでした。
先日からの鎌倉の記事は、とても地味で、退屈される方もいらっしゃるかも知れません。
とくに有名ではないけれども、歴史上は興味深いところを歩き回り、細部にこだわり、日本文化の流れのようなものを肌で感じたい、と思って歩いております。
京都に住んでいれば京都で、奈良に住んでいれば奈良でやっていたでしょうけれど、住居地に近いところにたまたま鎌倉がありました。
こういう散策も、じっくりと取り組んでみると、なかなかおもしろいのです。