
「シロバナジンチョウゲ」の記事を更新したばかりですが、今朝 本牧山頂公園で撮影してきた桜の写真を掲載します。
白いサクラはソメイヨシノ、ピンク色のサクラは横浜緋桜(ヨコハマヒザクラ)です。遠くの白いサクラにはオオシマザクラも混じっていたと思います。
毎年サクラの満開が近づくと、ぼくは遠出をしなくなります。
家のすぐ近くでこれほどの楽しみがあるのに、桜の名所と言われるところまでわざわざ遠出する必要を感じないのです。
根岸森林公園も明後日にはソメイヨシノが満開になるでしょう。
【日常の記録】
3月31日朝、本牧山頂公園のヨコハマヒザクラを確認のため、自動車で家を出ました。
ところが、根岸森林公園の駐車場付近、聖光学院の周辺、本牧の通りなど、どこもソメイヨシノが満開に近いのです。
本牧山頂公園で2時間弱を過ごして大急ぎで帰宅。そのあと、根岸森林公園の様子を確認に出かけました。
オオシマザクラは木によって一分咲きから九分咲きまであります。「ハンブルク桜の女王来日記念樹」は満開。人が集まる東南向き斜面は六分咲き程度でした。遠目からこんもりしたソメイヨシノの森を楽しめるのは、明日か明後日になりそうです。
〈注〉この記事の前に「シロバナジンチョウゲ」の記事があります。

今年はわが家ののジンチョウゲの葉がすっかり痛んでいて、どうにも絵になりませんので、根岸森林公園・馬の博物館のシロバナジンチョウゲを撮りに行きました。



ここまで見てきて、どうもなんだか背景が落ち着かない、と思われている方もいらっしゃるでしょう。
下が「種明かし」です。

〈注〉この記事の前に「鎌倉幕府跡を歩く…」という記事があります。
【小学生が描いた鎌倉幕府跡の地図】

いきなり地味な図面を出しましたが、これは清泉小学校の児童が「鎌倉幕府」(大蔵御所)の場所を示すために描いた地図です。
いろいろな観光案内や歴史案内書を調べましたが、小学生が書いたこの地図が、鎌倉幕府の所在を正確に示していて、一番わかりやすい、と思いました。
網掛けになっている部分が源頼朝の御所(鎌倉幕府)の敷地です。長方形の敷地の右上(北東部分)が、現在の清泉小学校の敷地です。
【周辺の観光案内地図】

そうはいっても、付近の地図もないとわかりにくい、という方のために、下記の案内板の写真を添付します。
小学生の絵地図の下側を横に(東西に)走っている道路には「六浦道」と書かれていますが、カラーの案内板は右が北ですから、「六浦道」は現在の「金沢街道」として、案内板ではまん中少し左寄りのところを縦に通っています。
【清泉小学校】

写真が「清泉小学校」の校舎です。聖心侍女修道会を設立母体とする清泉女子大学(品川区)のグループで、私立の学校です。ぼくは以前「旧島津侯爵邸」を見学するため清泉女子大学にも行ったことがあります。
この清泉小学校は、鎌倉幕府(大蔵御所)の敷地の北東部分(約4分の1)の角部分に建てられているので、小学校の歴史好きの子どもたちが、トップに示した図面と研究成果を、学校の周辺の立て看板に展示してくれています。
【鎌倉幕府跡を示す碑】
〈1〉大蔵幕府跡の碑

鎌倉幕府跡を示す碑は全部で3個所。幕府跡の中心部、清泉小学校の南西角の路上にひとつ、東側に「東後門跡」の碑、西側の通りに「西御門跡」の碑があります。
それぞれの碑の写真を掲載します。
上の写真は手前に見えているのが「大蔵幕府跡」の碑。ここが源頼朝の御所の敷地の中心部で、先ほどとは逆の方角から清泉小学校の校舎が見えています。その手前に碑があって、背後のスペースに小学生たちの研究成果が展示されています。

「大蔵」という呼び名は、鎌倉時代にはこの地域全体を「大蔵郷」と読んでいたことから来ています。
源頼朝が「大蔵御所」に武家政権の実権者「鎌倉殿」として居を定めてから、征夷大将軍に任じられるまで12年ほど掛かっています。形式主義から1192年を鎌倉幕府を開いた年とするのはおかしい、言われるようになり、もう少し幕府を開いた年を早く考えるのが現代の主流となってきているようです。
〈2〉西御門の碑

大蔵幕府の西御門は、小学生の地図の西大路に面していました。
この記事の2枚目の写真「観光案内地図」が、碑の左側に見えています。
〈3〉東御門

碑に書かれていますように、東御門と西御門の碑しかありませんが、御門は東西南北4個所にありました。
「法華堂」について言及がありますが、それはいずれまた記事にいたします。

上の写真は東御門川。この川の右側が清泉小学校の敷地です。
ややこしいことに、ここの地名は西御門町になっているようです。現代では西側の「西御門町」の町名のみが残り、本来の東御門付近までを含めて「西御門町」になっている、とのことで、現代の行政はややこしいことをしてくれます。
前回の記事で「宇都宮辻子幕府跡を捜して」という記事を書きましたが、「宇都宮辻子幕府」の敷地も「若宮大路幕府」の敷地も、「大蔵幕府」(大蔵御所)の敷地に比較すればかなり小さいです。
現地に出かけて、これらの碑を捜して歩き回ってみるならば、鎌倉殿(源頼朝)の権威の大きさを実感することができます。
鎌倉がなぜ世界遺産にならないのか、という議論がありますが、日本で最初の武家政権などと騒いでみたところで、外国から来た観光客が見てまわることのできるのは、小学校の校舎や住宅街であり、そこに碑が三つ建てられているだけ。
以前にも書きましたが、鎌倉を楽しむには、平家物語などの文学やテレビドラマなどで歴史に親しんでいるという下地の上に、想像力を膨らませることが必要なのです。
外国から来訪した観光客にそれを望むのは、無理というものでしょう。
形があって、見せられるものが数多くはないのです。
《参考》清泉女子大学内の旧島津公爵邸(2011.7.23)

〈注〉この記事の前に「ホトケノザ」のマクロ写真の記事があります。

昨日の記事でも少し書きましたが、フラサバソウのように極端に小さな花は別にして、できれば Olympus E5 + 50mm Macro の世話にならず、ふだんから使用している CANON EOS 5D MarkⅢ + 100mm Macro だけで、大半のマクロ撮影をこなしたいと、意地でも腕を上げようと取り組んでいます。
三脚を使わないでも、思い切り対象に近づいて、長めのレンズが振れないよう、対象との距離が絶対に動かないよう、細心の注意を払って撮影すれば、撮れるはずなのです。

CANON の 100mm Macro は、上手に撮れたときは自分で驚くほど美しい表現力を持っているので、これを使わないのはもったいない。近づけば近づくほど被写界深度が浅くなり、ピント合わせはシビアになりますが、そこは「何が何でも撮るぞという自分への厳しさ」で失敗をなくそう、と努力しています。


〈注〉この記事の前に「根岸森林公園・馬の博物館のイトザクラ」があります。
今年初めての本格的な桜の記事です。
次回「鎌倉幕府跡を歩く」は本日の晩遅くに更新いたします。
【日常の記録】
3月29日はかみさんが花屋さんをやる日でした。朝9時〜11時頃が客足のピーク。ご近所の花好きのみなさんにかなり期待されているようでした。
ぼくは午前中スキップを根岸森林公園へ散歩に連れて行きました。あとはアイロン掛けなどの家事、片付け、Photoshop のビデオ学習などをしていました。

3月28日10時半過ぎの「馬の博物館」庭園です。
まずはイトザクラ(糸桜)の全景ですが、あんなところにエアコンの室外機をなぜ置いた!? と、毎年残念に思います。

上の写真で、イトザクラを撮影しているのは深くくぼんだ中庭を挟んだ反対側ですが、逆にイトザクラの下に入ると、壁が影で暗く落ちて、上のような写真が撮れます。

ネットなどで調べると、枝垂れ種のサクラはそのほとんどが「イトザクラ」という品種だそうです。
ソメイヨシノよりやや花が小さく、例年、ソメイヨシノより約一週間満開が早いです。

写真の順序は、当日撮影した順番の通りになっています。




エアコンの室外機があるので、上や下のような写真も撮影の方向が制限されてしまい、自由にはならないのが苦しいところです。


〈注〉この記事の前に「速報・オオシマザクラの開花」があります。

3月28日10時過ぎ、根岸森林公園ではオオシマザクラが開花していました。

ソメイヨシノも開花しましたが、ソメイヨシノはぱらぱらと咲いた程度では、あまりよい写真にならないので、もう数日してから記事にいたします。
「馬の博物館」では枝垂れ桜の「イトザクラ」が満開でした。
たくさん写真を撮ってあるので、本日12時頃に記事を公開いたします。
〈注〉この記事の前に「鎌倉・宇都宮辻子幕府跡を捜して…」があります。
【若宮大路東西の屋敷配置図】

和田塚の記事のときに一度掲載した図面の写真です。
3月11日の鎌倉散策の目的は、「大蔵幕府」「若宮大路幕府」「宇都宮辻子幕府」の位置を実地確認することでした。
図面まん中の若宮大路の右側に平行に南北に通っている道は、鎌倉時代も現在も「小町大路」(こまちおおじ)と呼ばれています。図面右下、東西に若宮大路と小町大路をつないでいる通りが「宇都宮辻子」(うつのみやつじ)です。(「辻子」は小道の意味)
【日蓮上人辻説法の地跡】

ぼくはとりあえず「小町大路」の「日蓮上人辻説法跡」へ行ってみました。
「日蓮上人辻説法跡」に向かって立ったとき、背中の辺り一帯が「宇都宮辻幕府」の敷地だったはずです。
しかし、ぼくはできればその敷地境界を確認したいのです。
「日蓮上人辻説法跡」から南へ歩いて、どこかの角で右へ曲がり、若宮大路へ抜ける道が「宇都宮辻子」のはずであり、その小道がどれなのか。
最初の通りはどうも間違いのようでした。
【宇都宮辻子の通りはこの道だったのか】

それでは、2番目の、上の写真の通りなのか?
歩いて見るしかありません。
しかし、若宮大路まで抜けてはいけないのです。なぜなら、「宇都宮辻子幕府」は若宮大路に面してはいなかったからです。
源実朝が亡くなり、京都から九条頼経を連れてきてもまだ2歳だから北条政子が職務代行して将軍は不在。やがて北条義時が亡くなり、泰時が第三代執権になるには、求心力強化のため頼経を元服させ征夷大将軍にしなければならなかった。心機一転のため、将軍の御所を大蔵幕府から宇都宮辻子に移したのが「宇都宮辻子幕府」です。
ところで、京都から連れてきたのがなぜ九条家の子どもなのか。
源氏・平氏の歴史において、細かいことは抜きにして大きく眺めて、平氏は上皇と仲良くし、源氏は摂関家と仲良くする戦略を採りました。
摂関政治は院政に負けて力を失ったので、源氏の立場が弱くなり平氏が強くなった、と憶えると、納得がいきます。
九条家(くじょうけ)は、藤原北家から別れた五摂家のひとつですから、源氏とはつながりが深かったのでしょう。九条頼経は源頼朝の同母妹の曾孫だそうですが、九条家なら頼みやすかったのではないか、とも思われます。
【この路地が宇都宮辻子幕府の西側境界線か…】

さて、写真の通りを歩いて行くと、あったあった! 細い小道が右の方へ続いています(上の写真)。
この北西側角(左側手前)は「日本基督教団鎌倉雪之下教会」のようです。
この路地が「宇都宮辻子幕府」の西側境界線だとすると、この路地の右側(東側)が「宇都宮辻子幕府」の敷地だった、ということになります。
この路地へ曲がらずに、歩いてきた通りを直進すると、二の鳥居駐車場のある交差点に出ます。一枚目の図面では宇都宮辻子は二の鳥居の北側ですが、二の鳥居のすぐ南側へ出ます。
さて、ともかくも角を右へ曲がって、上の写真の狭い路地を真っ直ぐ行って、右折し左折し、直進して左折し右折しまたまっすぐ進むと…、いやはやもう、わけがわからなくなりました。
【宇都宮稲荷大明神社】

「宇都宮稲荷神社」というのが見つかりました。あとで地図をよく確認すると、この辺りは妙隆寺の裏手付近と思われます。
この記事の最後に、「妙隆寺」の写真を載せておきます。
【宇都宮辻子幕府跡の碑と大明神社】

何はともあれ、宇都宮幕府跡の碑を確認できました。
少し北へ行ったところから、「小町大路」へ戻りましたが、「宇都宮辻子幕府」と「若宮大路幕府」の敷地境界はわかりませんでした。
いまだによくわからないのは、現在「日本基督教団鎌倉雪之下教会」がある角から西側には何があったのか。
「宇都宮辻子幕府」が若宮大路に面していなかったのは、そこに何か屋敷があったからです。
一枚目の図面を見ると、字が薄れていますが、「宇都宮幹なんとか」だかの屋敷があったのか。宇都宮氏というのは鎌倉幕府の御家人の家系のはずですから、たぶんそれなのではないか、と想像はできます。
【妙隆寺】(参考)

【日常の記録】
3月28日、根岸森林公園を一時間くらいでひとまわりするつもりで朝9時半頃に家を出ました。早く帰ってきて、もう一度スキップを散歩に連れ出さねばならない、と思ったからです。
それがまあ、オオシマザクラが開花しているし、「馬の博物館」では枝垂れ桜の「イトザクラ」が満開。ミツマタのオレンジ色の花がいい頃合いになっていたり、キランソウのマクロ撮影にうずくまったり、帰ってみれば12時でした。
それからスキップを散歩に連れていって、帰ってから昼食にしました。
春の花については、1日に2回くらい更新しないと、とても間に合わない感じですので、今後は不定期に1日2回程度、どんどん写真を掲載していくつもりでおります。