紅梅とヒヨドリ

2014.01.31(18:54)

紅梅とヒヨドリ2140130

 1月30日撮影。梅は「八重寒紅」だったと記憶しています。


ヒヨドリと紅梅140130


紅梅とヒヨドリ3140130


【日常の記録】

 1月30日、慶應病院腎臓内分泌内科検診。体重の増加と血糖値にやや注意、という程度。
       昨年もこの時期は同様のことを言われていますが、2月以降外出が増えると同時に減少に向かっています。
       待ち時間に再読していた『もっと行きたい鎌倉散歩』を読了。
       今回は大判の地図で確認しつつ、ときに他の文献も参照しながら読みました。

根岸森林公園の梅(1月30日)

2014.01.30(20:43)

【一歳】

一歳CANON140130

 野梅系早咲き種の「一歳」はとくに花が小さく、少し高いところにあると、小さくしか撮れず、ファインダーで雄蕊にフォーカスをあてるのもたいへんです。300mm の望遠レンズを持ちだしても、レンズの重さで手が安定せず、なかなか上手に撮れません。
 少し日が経って、やや低いところにも咲き出したので、今回は Olympus のカメラも持ちだして試して見ました。
 Olympus はセンサーが小さいので、100mm でも花が大きく写るのですが、試して見ると CANON のカメラよりファインダーが見えにくい。
 それではと、CANON のカメラの手を伸ばして、ファインダーの窓からかろうじてフォーカスポイントが見える状態でシャッターを切ってみたり、あまり使いたくない ライヴ・ヴュー撮影を試みたり、かなり苦労しております。


一歳Olympus140130

 すぐ上の写真は Olympus E5 + 50mmMacro + Teleconverter


一歳縦130130


【八重唐梅】

八重唐梅Olympus140130

 「八重唐梅」と「八重寒紅」はよく似ていて、区別を付けにくいのですが、感覚的には八重唐梅は八重寒紅のように花弁がくしゃくしゃにならず、写真映りがよい。ギラギラ感があまりない、と理解しています。
 「八重唐梅」の札が掛かってはいますが、数年前からめちゃくちゃで、間違いが多いのがわかっていますから、必ずしも信用できません。「八重寒紅」ではない、と思います。
 上の写真も Olympus E5 + 50mmMacro + Teleconverter で撮影しました。ホワイトバランスが不確実だとか、白飛びしやすいとか、難がありますが、うまくヒットすればきれいな写真が撮れます。


【日常の記録】

 1月30日、午前中は根岸森林公園の梅林で梅の花の撮影。
       午後は読書ほか。

庭の八重の水仙(1月27日)

2014.01.29(19:06)

庭の八重の水仙逆光140127

 この水仙は植えられている場所が撮りにくく、逆光がとくに難しい、と以前書きました。
 あえて、挑戦してみました。


庭の八重の水仙逆光アップ140127


庭の八重の水仙立ち姿アップ140127

 こちらは順光の部分が増えていますが、陰になったところの色が沈むので、レタッチで少し明るめに直しています。


庭の八重の水仙140127

 最後はほぼ順光で撮れました。


【日常の記録】

 1月29日、午前中は家事を片付けてから少し読書。
       午後はスポーツジムへストレッチと筋力維持のためのマシン・トレーニングに出かけました。
       夕刻は歯医者へ。

根岸森林公園の梅(1月27日)

2014.01.28(18:30)

【長谷川絞り】

田子の浦枝振り140127

 根岸森林公園では、野梅系の早咲き種の梅が次々と開花しています。
 「長谷川絞り」については、よくわかりません。一応名札がそうなっているので。


【田子の浦】

田子の浦アップ140127

 「田子の浦」は一重咲き。
 同じ白梅でも、花の大きさ(直径)と一重咲きか八重咲きかによって、ずいぶんと印象が変わります。


【叡山白】

叡山白140127

 「叡山白」は野梅系の梅ではなく「豊後系」(アンズに近い)の梅だそうですが、名札は必ずしも信頼できないので、合っているのかどうか…。八重咲きです。


【一重野梅】

一重野梅140127

 「一重野梅」と「八重野梅」があります。トップの「田子の浦」も「一重野梅」も「八重野梅」も、最後の「八重寒紅」も、梅の原種に近い野梅系の梅に分類されています。早く咲く梅は野梅系の梅が多く、花数の多い元気にものが多いようです。


【八重野梅】

八重野梅140127

 八重野梅は早咲き種の中でも花が大きく、花数も多く、しかも八重咲きなので、八重野梅が満開になると梅林がとてもにぎやかな感じになります。まだ 咲き始めです。


【八重寒紅】

八重寒紅140127

 色がかなり濃くて、ぎらぎらした印象のある梅です。
 花びらがしわくちゃになりやすく、写真映りがあまりよくない花で、毎年悩まされています。
 じっと眺めるには白い梅のほうがいいなあ、と思いますが、それでも、八重寒紅が混じっていないと梅林がどこか寂しく感じます。


【日常の記録】

 1月27日、午前中は根岸森林公園の梅林を散策しました。その写真を今晩 披露しています。
       午後は読書。『ビブリア古書店の事件手帖5』(三上延)を読了。
 1月28日、午前中はスキップを連れて根岸森林公園を散歩。どこか足の具合が悪いのか、駆け足を避けているので、適度に歩かせて帰りました。
       午後は映画『エンダーのゲーム』を観てきました。原作を読んだのはハヤカワ文庫で初版が出た頃ですから、80年代半ばのはずです。コンピュータ・ゲームが急速に普及した頃に映画化されて当然の映画が今ごろになったのは、映像化が難しかったからでしょうか。読んだ当時、翻訳がこなれていなくて読みにくかった記憶がありますが、ブロットはインパクトがありました。無重力空間での子どもたちの戦闘ゲームをどう映像化したのか、そこに一番興味がありました。

鎌倉・永福寺跡

2014.01.27(19:00)

永福寺跡入り口140122

 2010年3月に退職したので、当時はまだ不安定な心臓の具合と相談しつつ、その頃からぽつりぽつりと鎌倉や三浦半島方面へ出かけるようになった。
 鎌倉や三浦半島の歴史については、日本史の授業で習った程度のことしか知らなかったが、2010年4月に『もっと行きたい鎌倉歴史散歩』という本に出会った。鎌倉時代の歴史について、事細かく記載があり、物語を読むようにおもしろい。
 この本の中で、頼朝が力を注いで建立した永福寺(ようふくじ)という寺院のことが出てくる。モデルとしたのが平泉の毛越寺(もうつうじ)だというから、相当な広さのある立派な寺だったはずだ。
 鎌倉には何回か足を運んだが、永福寺のことなど聞いたことがなかった。建立された場所についての記載もあったが、鎌倉へ行き始めたばかりで八幡宮付近のことしか知らないようでは、説明されてもどのあたりのことだか見当が付かない。それでずうっと気にしながら、そのままになっていた。
 それほど有名な寺だったのなら、なぜ何も残っていないのか。火災で焼けたとのことだが、だれも再建しようとはしなかったのか。
 もっとも、鎌倉というところには鎌倉時代の建物などはほとんど何も残っていない。「平家物語」や「太平記」など物語をよく読み、歴史を勉強し、想像力を働かさなければ、鎌倉を散策してもあまりおもしろくはないのである。世界遺産への登録がうまくいかないのは、そういうこともあろうか、とぼくは思っている。

永福寺跡上から140122

 年も明けて、ようやく出歩く気になってきたので、まずは鎌倉へ行こうかと、1月22日に長谷の光則寺へ行き、駅まで戻って、鎌倉宮(大塔宮)までバスに乗り、そこから歩いて瑞泉寺まで行った。
 水仙はまだほとんど咲いてなくて、下見してきた、という程度だが、途中で遺跡復元工事中の「永福寺跡」に気が付いたのが最大の収穫だった。(トップの写真が「永福寺跡の入り口となっていた)


永福寺跡説明板140122

 ネットには「CGにより復元された永福寺」というホームページがあり、左記のアンダーライン個所をクリックすると見られるが、ぼくが撮った永福寺跡の写真からも、その広大さを見てとることができると思う。鎌倉を楽しむには、先にも書いたように、想像力を働かせなければならない。


永福寺跡の中の島跡140122

 上の写真は、「中の島」の跡である。つまり、永福寺には浄土式庭園が付属していたのだ。「毛越寺をモデルにした」ということは、浄土式庭園を造ったということなのだ、と気が付いた。


永福寺復元工事中の礎石少し上から140122

 清盛が遷都しようとした(6ヶ月で終わった)福原の都跡を訪ねる記事を1月6日に書いたが、碑であるとか、そんなかすかな「跡」から当時の様子を想像する。それができれば、神戸の祇園神社からの眺めだとか、あるいはこの写真のような工事現場を見ていても、十分おもしろい。


永福寺復元工事中の礎石140122

 この記事を書こうとして、『もっと行きたい鎌倉歴史散歩』を少し読み返していると、ずいぶんとおもしろい。
 この本を読んでから二年、ぼくはずいぶんと鎌倉方面を歩いて、土地勘ができてきたからだろう。そろそろ『平家物語』ももう一度読み返すべきときかも知れない。

光則寺のソシンロウバイ

2014.01.26(19:52)

光則寺のソシンロウバイ140122

 鎌倉・光則寺のソシンロウバイにしようか、根岸森林公園の梅便りらしようか、と迷いましたが、どちらもまだ早いので、モデル数が限られ、それに咲いている高さ、撮影できた近さとか、陽当たりほかのシチュエーションの問題も重なるので、ほんとうによい「絵」は少ししかありません。
 もう少し暖かみを出して仕上げられないことはありませんが、極端なことをするとロウバイらしい色が変わってしまうので、それはやめにしました。


【日常の記録】

 1月25日、午後2時から横浜美術館で秋田美術館館長 河野元昭 さんの講演を聴講。主題は「酒井抱一と江戸琳派」でした。とてもおもしろく、よい内容の講演でした。
       講演終了後「下村観山展」を、後期展示の絵を中心に見てまわりました。会期途中に展示替えがあるので、何回も見ないとすべての展示を見られないのです。
       そのあとは、美術情報センターで読書。最新の美術雑誌を読むことができます。
 1月26日、午前中はスキップの散歩と読書。午後はスポーツジムでストレッチと筋力維持のためのマシン・トレーニングをしました。
       「ディックの本棚」に円山応挙の「雪松図」の感想を掲載しました。
       クリックしてください → 楽茶碗と新春の「雪松図」/三井記念美術館 ~ 2014.1.25(その1)

茶道文化に貢献した三井家 〜 表千家と楽茶碗 など

2014.01.25(22:00)

楽茶碗と新春の雪松図大140122

 1月22日、三井記念美術館へ『楽茶碗と新春の「雪松図」』という展示を観に行きました。
 この美術展の目玉は、第一は、円山応挙の描いた屏風が国宝となっており、その「雪松図」を所蔵しているのが三井記念美術館であるため、新春にそれを披露しようという企画であり、第二は、楽家の長次郎が焼いた黒楽茶碗の名作 銘俊寛 ほかの楽茶碗の名品を紹介しようという企画でした。
 また、この楽茶碗の展示の後半では、紀州徳川家の「お庭焼き」(江戸時代,藩主が城内や邸内に窯を設けて茶器などを焼かせたもの)にて焼かれた茶碗などが多数披露されています。

 上のように書いてしまうと、さらりと読み過ごしてしまいがちですが、なぜこのような企画が可能なのか、ということを考えてみたいと思います。


伊勢松阪三井家発祥の地120116

 上の写真は、2012年の1月に伊勢松阪の市内を散策したときに撮影しました。
 「三井家発祥の地」です。1622年三井高利がここに生まれ、幼少から刻苦勉励して当地の商人として成功し、1673年に江戸へ出て越後屋呉服店を開店しました。それが三井家のはじまりだそうです。
 その三井家は1947年に財閥解体に遭い、十一家に別れましたが、総領家を「三井北家」といい、現在までつづいています。

 ぼくは30代の頃、某金融機関のある支店に勤務していましたが、取引先に表千家の師範の先生がいらっしゃいました。入門者を紹介すると定期預金がもらえるというので取引先係の先輩から誘われまして、当時結婚前だったかみさんと一緒に、無理矢理入門させられました。
 表千家というのは、千利休を祖とする千家の家督を継いだ茶道の本家です。表千家の代々の家元は、江戸時代には紀州徳川家の茶頭をつとめていました。
 ところが明治時代になると、茶道は旧時代のものとして流行らなくなり、かつ、紀州藩の手厚い庇護もなくなってしまいました。このままでは家元制度が崩れるというときに、これを支援したのが三井北家でした。
 つまり、伊勢松阪を発祥とする三井家は、紀州徳川家と強い繋がりがあったため、江戸時代から表千家とも昵懇の中だったのです。


楽美術館121011

 ところで、「楽焼」というのは轆轤(ろくろ)を使用せずに「手捏ね」で成形してさほど高温ではない温度で焼くことのできる手軽な焼き物で、紀州藩のお庭焼きで焼かれたものもほとんどがこの楽焼でした。
 「楽焼」は千利休が自分の嗜好に合わせて初代 長次郎に焼かせたのが始まりだそうで、楽家は表千家との繋がりが深く、現在は第十五代となっています。楽家の当主がたびたび紀州徳川家に呼ばれていたことが、日記などで確認され、展示されていました。
 すなわち、紀州徳川家に出入りしていた三井家は、表千家と同時に楽家とも強い繋がりがあったということです。

 上の写真は2012年の10月に京都の楽美術館を訪ねたときに撮影したものです。第十四代当主楽吉左右衛門覚入さんが設立されたそうです。

 以上まとめますと、『楽茶碗と新春の「雪松図」』という展示に、初代長次郎ほか歴代の楽家当主が制作した楽茶碗が登場するのは、三井北家が代々の表千家、楽家と深い繋がりがあり、その繋がりから寄贈されたり買い上げたりした茶碗を三井北家が所蔵していたからだ、ということになるようです。
 この展示には表千家の家元や関係者が焼いた楽焼、その他紀州徳川家の「お庭焼き」も展示されていましたが、それは上に説明したような歴史から、三井家がそれらの茶碗を所蔵するようになった、ということです。

 こうした文化の育成にはお金が掛かります。ぼくのすごした学生時代は60年代後半から70年代初頭、「大企業は敵」という風潮でしたが、一方で、国や地方公共団体、その他のパトロン(お金持ち)が保護しなければ文化は廃れてしまう、というのもまた事実です。

 いまや引退の身ですから、社会経済的な考察は横へ置いておきましょう。
 各地をウォーキングすること(三井記念美術館をぼくに紹介してくれたのは San Poの会 のリーダーNさんでした)と、カメラを持っての歴史探索と、以前少しだけ足を踏み入れたことのある茶道と、茶碗などの茶道具や焼き物を楽しむことと、美術館めぐりの楽しみは、上で書きましたようにぼくの中では密接な繋がりがあります。
 昨晩の写真「侘助」も、茶席の柱に一輪挿しなどする「茶花」として楽しまれてきたもので、自然観察の趣味もやはり自分の中ではしっかりとつながっています。
 今晩はちょっとそんなことを書いてみたい、と思いました。

2014年01月

  1. 紅梅とヒヨドリ(01/31)
  2. 根岸森林公園の梅(1月30日)(01/30)
  3. 庭の八重の水仙(1月27日)(01/29)
  4. 根岸森林公園の梅(1月27日)(01/28)
  5. 鎌倉・永福寺跡(01/27)
  6. 光則寺のソシンロウバイ(01/26)
  7. 茶道文化に貢献した三井家 〜 表千家と楽茶碗 など(01/25)
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