
根岸森林公園で毎年この定位置にカメラを据え、一枚は紹介することにしています。お決まりの写真ですが、陽射しの具合、走ってくるランナーの服装などで、写真の雰囲気が変わります。
ここ数日のあいだ風が吹き荒れたため、イチョウのボリュームが例年より不足しているのが残念です。
【神奈川県立金沢文庫】

神奈川県立金沢文庫へ「特別展 東大寺―鎌倉再建と華厳興隆―」を観に行ってきました。
国宝の「重源上人坐像」、快慶の「地蔵菩薩立像」などの名品が東大寺から来ています。
金沢文庫というのは、金沢北条氏(北条義時の五男実泰から分かれた)の北条実時が建設した私設図書館です。
京浜急行の駅名になっているので、横浜市民なら誰でも知っているくらいに有名です。実時が亡くなった後、館跡地には北条氏の菩提寺として「称名寺」が建立され、金沢氏を含め北条氏の滅亡後は、称名寺がこの私設図書館・金沢文庫の管理を引き継ぎました。
だからいまだに、金沢文庫は称名寺の境内の外れに位置しています。
【称名寺】

称名寺は真言律宗別格本山の寺院となっていますが、称名寺の第三代長老の湛睿(たんえい)が幼いときから東大寺凝然に戒律・華厳を学んだ、というようなことから、東大寺との関係が深く、金沢文庫で「東大寺展」が開かれる理由は、そんなところにあるようです。
というわけで、「金沢文庫」を訪ねるということは「称名寺」を訪ねるということと同じことになりますので、称名寺自慢の「浄土式庭園」を散策してきました。


カエデの紅葉には少し早く、池の向こう側の金堂の前に小さなカエデがあるのですが、それは紅葉しない「青葉カエデ」ということなので、イチョウがメインとなります。

ここへは過去にも紅葉の時季に訪れましたが、そのときの私には、こう撮りたいと思ってもできないことがたくさんありました。
そういう意味では、今回はいろいろと意欲的に挑戦しています。





金堂の陰から見えているのは「釈迦堂」、右側は鐘楼です。
昨晩は慶應病院の眼科診療が長引いてくたくたになりまして、夜はブログの更新だけで、みなさんのところへおうかがいする気力が残っていませんでした。
それでも、翌日からっと晴れますと、こんなふうに出歩きたくなります。腰痛もほとんどなくなりました。
【「帷子川親水緑道」の入り口付近】

11月23日の「第86回San Poの会」のウォーキング記録です。
立派に整備された新宿御苑の紅葉記事のあとではつらいものがありますが、横浜のごく一般的な住宅地近辺の紅葉ということで、素朴な味わいがあります。
今回のメンバーは計5名。11時半に相鉄線鶴ヶ峰駅に集合し、帷子川親水緑道付近でお弁当昼食、そこから畠山重忠の妻のゆかりの地である駕籠塚を訪ね、ふるさと尾根道緑道を少し歩いてから白根神社、白根不動尊へ向かう、というルートでした。
「帷子川親水緑道」というのは、帷子川の河川改修で帷子川がまっすぐ広く流れるよう流れを変えた際に、旧河川敷にそって遊歩道を作り公園にした、ということのようです。
鶴ヶ峰付近から「帷子川親水緑道」へ入って行く付近は池があり、日本庭園のように整備されていました。
【帷子川親水緑道の散策】

住宅地の谷間を流れる旧河川は「中堀川」と呼ばれているようです。
写真は散策の様子です。リーダーのNさんの写真を拝借しました。
【帷子川】

10分ほど歩くと、現在の帷子川にぶつかります。
横浜駅前に勤務していたことのある私から見ると、「ああ、あの汚い川…」という感じなのですが、この付近はとてもきれいでした。
この後、「帷子川親水緑道」の入り口付近に引き返し、そこでお弁当昼食としました。
【駕籠塚】

「駕籠塚」は畠山重忠が北条義時の軍勢と戦って敗れ、自害した地。重忠の内室「菊の前」は夫の死を知り、自害、駕籠ごと葬られたといいます。
畠山重忠は鎌倉幕府内では清廉潔白、剛胆、謹厳実直な武将と知られ、人気のあった御家人です。
たとえば梶原景時とか、いろいろと評判の悪い武将もいる中で、これほど評判のよかった武将はいなかったのに、北条時政夫人の「牧の方」が「彼は謀反を起こそうとしている」と讒訴したのでした。
「牧の方」の娘婿と、畠山重保(重忠の息子)との間に諍いがあり、「牧の方」が時政に訴えて畠山父子を陥れてやろうと狙ったのです。
こうした汚いやり方は、執権北条氏の得意技です。
北条時政にしろ、その息子の義時にしろ、幕府に貢献した有力御家人を片っ端から陰謀で陥れ、実権を握っていきました。北条氏の歴史というのは、まさに陰謀の歴史といっても過言ではない、とぼくは思います。
畠山重忠は「鎌倉に異変あり」と聞いて館を出て、鶴ヶ峰付近まで来たとき、義時の大軍とぶつかり奮戦の上、自害しました。
重忠の息子の畠山重保は鎌倉にいたのですが、「一大事」とい聞いて郎党を引き連れ出て見れば、兵が弓に矢をつがえている。繰り出してきた連中に「何があった? 謀反か?」と問えば、「謀反人は貴殿だ」との返事だったとか…。ひどい話です。
北条義時は時政と「牧の方」から話を聞いて「まさか、あの畠山重忠が…」とは思いつつ、父と継母が「謀反だ」というので仕方なく兵を起こしたということですが、実際にはどうだったのか…。
義時はこの事件を利用し、「讒訴した」ことを理由に父時政と継母「牧の方」を追いやり、実権を握りました。うるさかった父親を追い出すために事件を利用したのです。
だから、事件後も畠山重忠を悪くいう人間は誰もいません。彼はいまだに鎌倉幕府の英雄なのです。
力持ちで、馬を大切にした、ということで知られています。
【ふるさと尾根道緑道】

「ふるさと尾根道緑道」は横浜市旭区の背骨に当たる稜線にそって、導水路敷きを中心に整備された緑道で、全長約1.6km あるそうです。
上はN さんが撮られた写真をお借りしました。
【白根神社の白糸の滝】

さて、白根神社に着きましたが、社殿は小さく、これが鎌倉入りのときに頼朝が祈願した神社なのか? というほどのものしかありません。
ここはどうも「白糸の滝」と、高台にある「白根不動尊」が見どころのようです。
もう少しカエデが紅くなっていればなあ…、というところです。
【白根不動尊】

白糸の滝の横を登って行くと、一段と高いところに「白根不動尊」の社殿がありました。本尊は弘法大師の作と伝えられる約5cmの不動明王の座像だそうです。
下は白根不動尊の境内の紅葉の様子です。

今回の 散策はここまで。
恒例の銭湯は「竜泉寺の湯」というスーパー銭湯でした。
「竜泉寺の湯」でゆっくりしたあと、鶴ヶ峰駅前で懇親会を開いて解散しました。
以上の写真はコンパクトデジカメを使用しています。ウォーキング記録なのであまりこだわって撮る余裕はなく、ちょっと乱暴ですが、紅葉の下での散策の雰囲気は出ているように思います。

新宿御苑・日本庭園のこの眺めは、前にも紹介したことがあります。
千駄ヶ谷門を入って左側に行くと、すぐ「旧御涼亭」という建物があり、そこから撮影しています。
(「御涼亭」は後の昭和天皇が皇太子時代にご成婚記念として台湾在留邦人の有志から贈られたもの。補修された上で、いまは「旧御涼亭」として、新宿御苑内で約3分の2が一般公開されています)

11月22日は慶應病院での診療が朝のうちに終わることがわかっていたので、一眼レフと替えレンズ持参で行きました。京都・知恩院で腰を痛めてから、替えレンズ二本を携えて歩くのはこれが初めてでした。
新宿御苑程度が、ウォーキング再開にはちょうどよいだろう、と思ったのです。

本格的な紅葉には少し早いという感じでしたが、部分的にはすっかり紅葉した木もあって、楽しめました。









カエデの紅葉だけで終わるのもつまらないので、ナンテンとツワブキを追加しました。

わが庭のツワブキより野性味があり、これもなかなかよいように思います。

醍醐の勧修寺(かじゅうじ)、「雨宿りのロマンス」の少女の父は宇治郡の大領(統治者)で宮道弥益(みやじいやまさ)と伝えられています。
その屋敷跡に、少女(宮道列子)の孫にあたる醍醐天皇が、900年に創建しました、
そのため、藤原高藤の流れを汲む家系は、寺名にちなんで勧修寺流というそうです。


池は「氷室池」といい、かつては広かったのですが、秀吉が伏見城建築をするとき道を通し、半分を埋め立ててしまったとか…。
池を巡りながら写真を撮っていると、何やら大きな鳥が池から飛び立ったりしまして、水鳥がかなりいるようですが、いずれも池の中央より遠い側で、さらに睡蓮の葉が邪魔になり、写真を撮ることはできませんでした。
寺の説明では、中央にある中の島は、夕方になると琵琶湖から帰ってくる水鳥の宿になっているそうです。

雨上がりに寺を訪ねましたが、湿気でレンズが曇り、上の写真には一部見苦しい点があります。




写真の木はウルシです。
わが家の近辺ではあまり見ないので、新鮮でした。木の陰の奥のほうに本堂がありました。
【勧修寺の門】

摂関家の藤原良門(よしかど)には高藤(たかふじ)という若君がいて、鷹狩りの好きな好青年でした。
高藤はその日、家来を連れて南山科へ狩りに行きましたが突然雷雨に見舞われ、ある屋敷に駆け込んで雨宿りをさせてもらいます。
酒と食事のもてなしを受けるのですが、給仕してくれたのは13、4歳くらいの少女でした。長い髪が美しくとても可愛い。夜になり、頼んで先ほどの少女を寄越してもらい、高藤は少女を抱き寄せました。
共寝をした明くる朝、「親が嫁がせようとしてもそんなことはしないでくれ。これを約束の証に置いていく」と少女に太刀を与えて高藤は帰りました。
【勧修寺・宸殿】

高藤が帰らないので心配していた父の良門は、息子の帰還を喜び、以降勝手な外出はいけない、と息子に禁じてしまいます。
さて…。
やがて良門は亡くなり、自由になった高藤はあらゆる縁談を断りつつ、あの少女を捜します。あの雨宿りの日から、もう五、六年がすぎていました。
【勧修寺・宸殿の額】

【勧修寺・宸殿の前庭】

田舎から以前の家来が上京したので、高藤は「あの少女の屋敷を憶えているか」と尋ねました。
「もちろん、憶えていますとも」
というわけであの屋敷を訪ねてみると…。
いっそう美しくなった娘の傍らには五つくらいの可愛い女の子が控えていました。枕元のほうに眼をやると、あのときの太刀があります。幼い女の子をよく見れば、自分にそっくりなのでした。
【勧修寺・書院】

高藤は母と子を自分の屋敷に引き取りました。女はさらにふたりの男の子を産み、高藤も、ふたりの男の子たちも出世しました。女の子は宇多天皇の女御に入内し、やがて皇子が生まれました。これが後に賢帝と言われた醍醐天皇です。
あの少女は、とうとう天皇の祖母になったのです。
【勧修寺・書院前の這柏槇(ハイビャクシン)】

「雨宿りのロマンス」いかがでしたか。
若き高藤が少女と出会った屋敷はその辺りの郡の長官の屋敷で、その屋敷を寺にしたのが、ここ醍醐の勧修寺(かじゅうじ)、雨宿りのロマンスの跡だと伝えられています。
上の物語は『今昔物語』の中にあるのだそうで、それは田辺聖子さんの『田辺聖子の古典まんだら』(新潮社)に教えてもらいました。
【勧修寺・水戸光圀デザインの灯篭】

【書院前の老梅】

勧修寺(かじゅうじ)は、京都市山科区にある門跡寺院で真言宗山階派大本山です。
創建は醍醐天皇、本尊は千手観音です。物語にある通りですので、皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院ということになります。寺名は「かじゅうじ」を正式の呼称としていますが、地名は「かんしゅうじ」と読むようです。
地下鉄東西線の小野駅で下りて徒歩十分弱ですが、駅前に案内板がなく、道は通りがかりの方に聞かないとわかりにくくなっています。
【勧修寺・宸殿と書院】

境内東側には手前から宸殿、書院、五大堂、本堂などが建ち、境内西側は氷室池を中心とした庭園です。池に面して楼閣風の観音堂(昭和初期の建立)が建っています。それらを順番に紹介しています。
【勧修寺・宸殿の裏】

明日は、観音堂の紹介です。
新しい建物ですが、池の前に建てられていてたいへん美しいのです。
なお、この記事は予約投稿しています。
本日はSan Po の会に参加していて、帰宅が遅くなる場合、みなさんのところへおうかがいするのは明日になるかも知れません。

東京国立博物館の本館と平成館の裏側に、庭園があるのは案外と知られていないようだ。
構内に入るのにさえ何らかのチケットが必要なので、平成館の企画展示を観に行ったときは必ず「庭園」にも立ち寄るようにしている。

Wikipedia によれば旧寛永寺庭園だったのだそうだ。
三つの茶室(六窓庵、春草庵、転合庵)があり、それぞれ奈良・興福寺、摂津、京都・伏見から移築されたもの、とのことだ。
ほかに、応挙館、九条館がある。九条館はもと赤坂の九条公爵邸にあったもので、外側から内部を覗き込むことができる。


【九条館】

こんな写真でも、昔の日本家屋のよいところがうかがわれる。



ガラス戸に、コンパクトデジカメのレンズを触れるまで近づけ、自分の身体で影を作るようにして撮影した。
明日は久しぶりに San Po の会に参加するので、ブログの更新ができないかも知れません。