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比叡山・根本中堂

2013.07.13(19:30)

霧の根本中堂130529

 比叡山には三つのエリアがある。
 東塔、西塔、横川(よかわ)の三地域に多数のお堂があり、それぞれに中心となる仏堂があって、それを「中堂」と呼んでいる。他の宗派でいう「本堂」だ。
 京都からバスで行っても、坂本からケーブルカーで登っても、最初に行き着くのは東塔エリアであり、その中心が「根本中堂」(こんぽんちゅうどう)だ。
 最澄が788年に、一乗止観院という草庵を建てた。年号でいうと延暦7年であり、後に年号を使用して延暦寺と称することを許されたので、「延暦寺」と言われるようになった。
 一乗止観院のお堂が、その後幾度もの火災で焼けるなどして、最後は徳川家光の命によって現在の根本中堂のとして整備された。


霧の根本中堂正面130529

 回廊が周囲を囲んでいて、外部からは屋根しか見えない。
 たしか内側は撮影禁止となっていたと思う。ネットや雑誌を捜しても、屋根と軒以外の部分が見える根本中堂の写真はまず見つからない。
 これでは何が何だかわからない、と言われそうな写真だが、この日の霧はほんとうに深く、遠くが見通せないから「たぶんこちらだろう」と見当を付けて、山の中をうろうろしていたような状態だった。


文殊楼への階段130529

 根本中堂の正面に「文殊楼」へ登る階段があり、ここを登って振り返れば、もう少し全体がわかる写真が撮れるらしい。しかし、階段は濡れて危なそうであり、雨と霧がひどいので、登ってもまともに建物が見えるとも思えず、撮影は断念した。


根本中堂入り口130529

 回廊の門をくぐると、狭い中庭を隔ててすぐに中堂の建物の中だった、と記憶している。
 他の寺院では見ることのできない、体験のできない、不思議な光景が眼前にある。
 自分が立っている建物の奥の内陣は、暗い穴蔵のようになっていて、それを覗き込むと灯火に照らされた土間がうっすらと見えているのだ。
 Wikipedia の言葉を借りると「堂内は外陣・中陣・内陣に分かれ、本尊を安置している内陣は中陣や外陣より3m も低い石敷きの土間となっており、内陣は僧侶が読経・修法する場所であることから別名『修業の谷間』といわれる」そうだ。
 本尊の薬師如来と中陣の参詣者(自分)の高さが同じレベルにある。これを天台造と呼ぶのだそうだ。
 最澄の教えによれば、生きとし生けるものは誰もが仏になれる(一乗の教え)のであり、本尊の仏が参詣者より上ということではない。参詣者と本尊の薬師如来は平等の立場にある。天台造りはそのことを表しているのだそうだ。

 灯火は「不滅の法灯」と呼ばれ、特別な釣り灯籠に入れられている。
 じつはこの日、天台座主(比叡山の住職、つまり天台宗を束ねる役職の僧)が坂本の「滋賀院門跡」まで下山して、確か僧職の任命か何かの儀式をされることになっており、「滋賀院門跡」にはその釣り灯籠のひとつが下ろされていた。ほかに観光客はいないので、ぼくはたった一人で説明を受け、灯篭と灯火をすぐ眼前に見ることができた。
 説明して下さった「滋賀院門跡」の方によると、じつは信長の焼き討ちの際に一度消えたことがあるのだが、別の寺に分灯されていたので、その灯火を戻したのだそうだ。
 一人だったので、灯火の芯を触らせてもらったりするなど、坂本の「滋賀院門跡」ではいろいろと教えてもらっていた。
 この内陣の暗がりの様子を覗うのには、貴重な事前体験だった。

 天台座主は現在第256代だそうだ。歴代の天台座主は親王が勤めたことも多くあって、必ずしも比叡山に住んでいるとは限らないそうだが、滋賀院門跡で聞き違えていなければ、当日に山から下りてこられる、とぼくは聞いた。比叡山のどこに住まわれているのか、調べてみたがわからない。


大講堂130529

 根本中堂の近くのお堂をいくつか紹介する。
 大講堂は昭和39年に坂本の讃仏堂を移築したもの。本尊は大日如来で、その左右には比叡山で修行した各宗派の宗祖の木像が祭られているそうだ。
 そのことはまた、次回にでも触れたい。


大講堂2130529

 大講堂も晴れた日に撮られた写真を見ると、優美な建物だ。この写真では細部が見えないが仕方がない。
 近くに鐘楼があり、その屋根の下へ入るなどして、雨を避けながら撮影した。


大講堂横の鐘楼130529

 上は鐘楼を撮影した。

2013年07月13日

  1. 比叡山・根本中堂(07/13)