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石垣の町「坂本」〜 穴太の石積みについて

2013.07.12(19:00)

浜大津駅から眺める大津港130529

 5月29日水曜日、霧深い比叡山から少し時間を巻き戻してみたい。
 大津市の観光の中心はJRの大津駅よりも、むしろ京阪石山坂本線(石山寺と坂本間を結ぶ)の「浜大津」駅にある。浜大津駅前のビジネスホテルを朝8時前後に出たぼくは、京阪石山坂本線で坂本へと向かった。
 上と下の写真は、浜大津駅から撮影した大津港と琵琶湖だ。


浜大津駅から眺める大津港2130529

 比叡山の山頂では食事をするような場所はないだろうと予想していたので、おにぎりなど調達する予定でいたが、浜大津では駅前にも駅中にも、おにぎりや弁当を販売しているコンビニなど一軒も見つからない。


穴太の石積み大通り沿い130529

 とにかく京阪電車に乗って坂本へ向かうと、駅名がいろいろとおもしろい。
 坂本の二つ前は「松の馬場」駅。坂本城趾があるそうだ。
 坂本城は1571年比叡山焼き討ちの後、明智光秀が築城した城で、ルイス・フロイスは安土城に次ぐ名城という認識でいた。
 その次が「穴太駅」。坂本駅のひとつ前の駅だが、坂本駅まで歩いても近い。
 「そうか、ここが穴太(あのう)か…」という感慨に耽る。

 上と下の写真は、京阪坂本駅前を東西に貫く、「日吉馬場」と呼ばれる県道沿いの石垣である。


大通り沿いの石垣と中学生130529

 戦国時代の城造りと「穴太衆(あのうしゅう)の石積み」というのは、切っても切り離せない関係にある。
 直木賞作家佐々木譲さんが『天下城』という穴太衆の親方を主人公に描いた小説がある。
 武田の黒川金山で働いていた穴太衆の若者が、武田の戸石崩れをきっかけに村上義清の配下となり、戦地を転々とするうちについに織田信長と出会う。穴太衆の若者が成長して、安土城の城造りに参画するという物語だ。


滋賀院へ向かう道の石垣

 上と下の写真は、「滋賀院門跡」へ向かう途中の石垣で、穴太の石積みのようだ。
 「穴太衆の石積み」というのは、戦国時代の歴史好きにとっては、伝説的な響きを伴う言葉なのだが、坂本ではこのように、町の随所に穴太の石積みを見ることができる。


滋賀院へ向かう道の石垣2130529

 坂本から比叡山へ登るなら、比叡山の僧の「里房」として知られる「滋賀院門跡」と、それに天台宗の中興の祖といわれる慈眼大師(天海和尚)の廟所「慈願堂」が隣り合っているので、この二つを見学しつつ、周辺にある「穴太の石積み」を眺めて、それからいよいよ比叡山へ登るというのが、もっとも適当なのではないかと思い、ぼくはそれを実践した。


滋賀院門跡の石垣130529

 上が「滋賀院門跡」の石垣の様子だ。
 ところで、京阪坂本駅付近にコンビニはなく、「滋賀院門跡」や「慈願堂」の周辺はお堂と石垣ばかり。ケーブル坂本駅にも、ケーブル延暦寺駅でも昼食の調達はできなかった。
 そこで仕方なく、比叡山を下りてから、夕刻の16時頃に坂本のとあるカフェへぼくは入る。ここまでがじつは伏線である。
 口うるさそうなオヤジさんがオーナーのカフェだ。
 店内に展示されていたバラの写真と、ぼくが持ち運んでいた CANON の大型カメラ というところから、結局はいろいろとアルバムを見せてもらったりしたのだが、それはともかく、店のマガジンラックに「穴太の石積み」(平野隆彰著、¥2,300- )という立派な本を見つけた。出版元はなんと官報などを出版している株式会社かんぽうだ。
 ぼくはここで30分あまりこの本を読み耽った。


竹林院付近の石垣130529

 堅苦しい学者たちと民間の調査研究家のぶつかり合いなど、本を読んでいるとさまざまな構図が見えてくる。
 「穴太の石積みというが、そこらの石を適当に積み上げた『野面(のづら)積み』とたいして区別はつかない」などの対立意見も出てくる。
 ぼくがこの記事で出している石垣の写真だが、「石垣の石と石の堺にある横の線が真っ直ぐに通っていない
 それが穴太積みの特徴だというのだから見た目はよくない。「野面積みと区別が付かない」などと悪口を言われるのもうなずける。
 もっとも、「横へずれて崩れる心配がない」とも言えるのだが…。

 上の写真は里房の庭園の名勝と言われる「旧竹林院」付近の石垣だ。
 以降の写真は「旧竹林院」から県道「日吉の馬場」へ出るまでの狭い通りで撮影した。


石垣の通り帰路130529

 Wikipedia でも確認できるが、穴太の石垣職人として知られた家が現在にも伝わり、後藤家粟田家という。
 この粟田家の14、5代目がテレビに出たり、安土城の修復に参加したりされたらしく、この辺りから世間的にも「穴太の石積み」が有名になったらしい。


石垣の通り2130529

 整然と石垣が積まれた近代的な城は、石を切り割りする技術が発達して以降のもので、それまでは「野面積み」とならざるを得なかったのだろうが、ただの野面積みでは城の石垣を支えられないだろう。そこに「穴太衆の石積み技術」があったのだということのようだ。
 石積みの技術について、もう少し詳しく書くこともできるが、それではブログの記事として退屈だろう。

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 見た目がぱっとしないので、写真としておもしろくないし、細かな文章を読むのが面倒だ、と思われる方もいらっしゃるだろう。
 しかし、歴史好きの方は「穴太の石積み」という言葉よくご存じのはずで、それでも、「実態はよく知らない」という方がほとんどではないだろうか。
 一人旅だと、おもしろそうな本を見つけたら、その場で納得いくまで読んでしまうこともできる。
 ぼくはなんとか「穴太の石積み」の技術的なところまで理解しようとしてカフェで時間を過ごした。
 ぼくにとって「坂本」は、町全体が美しい「穴太の石積み」の町であり、比叡山の里房が立ち並ぶ町であった。

2013年07月12日

  1. 石垣の町「坂本」〜 穴太の石積みについて(07/12)