【北野のスターバックス】

7月23日から27日まで、神戸へ行ってきました。
まず23日は定番の北野異人館巡り。本番の写真はまたいずれというつもりでおりますが、上は北野の「STARBUCKS」です。なんと「STARBUCKS」が明治40年に建築されたという建物に…。
とても暑い日でして、一巡りしたあとはここでチャイ・ティー・ラテをいただきました。
【メリケンパークの夜景】

23日夜はハーバーランドまで出かけて、メリケンパークの夜景を!
港内遊覧船「コンチェルト」を入れた写真はまたの機会に…。
【六甲山から六甲アイランドを臨む】

24日は六甲山へケーブルカーで登りました。
「高山植物園」を楽しんだあと、有馬温泉まで、谷を下りつつ歩くことにしました。
上は展望台からの「六甲アイランド」の写真です。(この写真のどこかに、ブログ「secret garden ━━ grace under pressure 」のtakae h さんがお住まいなんだなあ、と…)
有馬温泉に辿り着いたときは、暑さで参ってまして、「太閤の湯」で金泉、銀泉に浸かり、3時間を過ごしました。
【川崎重工業の産業用ロボット】

25日は旧居留地を回った後、川崎重工業の企業博物館へ(海洋博物館隣接)。
産業用ロボットの実物なんて見たことがありませんので、興味津々でした。
25日夜は、この旅行の本来の目的である「神戸FREUDE合唱団」のコンサート。
とてもよいコンサートでした。ブログ「《打上花火》・・・短くも美しく燃え」の FREUDE さんが男性陣のまん中の目立つ位置で唱われていました。
詳しい感想は近日中に「ディックの本棚」に掲載します。
ブログ「時を紡いで」の hirugao さんにお隣の席でした。
【東経135度】

26日は前の晩に hirugao さんに奨められた「須磨寺」へ。
さらに足を伸ばして、上の写真は「人丸前駅のホーム」です。ホームを日本標準時子午線が通り、向こうに明石市立天文科学館の塔が見えています。
この博物館がとてもおもしろかったのでした。
【六甲山・オルゴールミュージアムのニッコウキスゲ】

27日は FREUDE さんのご厚意により、おいしいミルフィーユカツのお店をご紹介いただき、そのあと 六甲オルゴールミュージアムへ。24日はすぐ隣まで行っていながら、有馬温泉へのハイキングを優先したため、見学していなかったのでした。
写真はオルゴールミュージアム隣接の庭園です。すぐ近くでは、 hirugao さんが撮影されていらっしゃいます。
【エクリヴァン】

日本風に言えば、オルゴールがついた「からくり人形」です。
何か手紙を書いているようなのですが、眠くなってきてうたた寝しかけ、目を覚ましてまた手紙を書き続けます。
いずれもう一度紹介します。
FREUDE さんに見守られつつの撮影は、なにやら緊張しました。そうでしたよね、hirugao さん?
というわけで、今回は FREUDE さん、hirugao さんとお会いでき、ロッシーニのミサ曲などめずらしい曲を鑑賞できて、とても楽しい旅行となりました。お二人のおかげです。ありがとうございました。

慶應病院で定期的に検査と診療があるので、その待ち時間を利用して新宿御苑へ出かけます。
都内の大庭園ですが、いやなかなか奥深いおもしろさ のある庭園です。
すでに更新が滞っておりますが、ちょっと事情がありまして7月いっぱい休ませていただこう、と思っております。
このまま休んでしまうのもちょっとどうかと思いまして、挨拶代わりに19日に撮影した新宿御苑の写真を引っさげてまいりました。
ここ数日休んでおりましたが、その一方で Photoshop CC の導入とかやっておりまして、このソフトの RAW現像がかなり進化しています。
上の写真はいわゆる「絵葉書写真」らしさを狙いましたが、それらしく隅々まで鮮明な景色となっております。
ではまた、一週間ほど後にお会いしましょう。

ふたたび5月29日の朝の坂本の町へ、時間を巻き戻したい。
写真は「滋賀院門跡」(しがいんもんぜき)の門前だ。ここの石垣が、坂本にある穴太(あのう)積みの石垣の中でももっとも有名らしい。大小の不定形の石がしっかりと積まれているのだ。

さて「門跡(もんせき、もんぜき)」は、皇族・貴族が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。
「滋賀院門跡」と書いてあったら、「うちはそんじょそこらの寺とは違う、寺格が高いんだぞ」と言っているのだ。
京都へ行ったとき、お寺の塀に横に線が入っているのをよく見かける。筋塀(すじべい)といい、塀に筋が入っているのは御所や門跡寺院であり、五本が最高だそうだ。
これを教えてくださったのは「滋賀院門跡」の受付の方で、おかげでずいぶんといろいろ勉強させていただいた。
というわけで、写真では、塀の筋の本数を数えてみていただきたい。

滋賀院門跡は比叡山の「里房」である。「黒衣の宰相」とも称された天台宗の僧天海が、後陽成天皇から京都法勝寺を下賜されてこの地に建立した。(その後火事にあって再建)
さて、それでは「里房」とは、滋賀県観光情報のオフィシャルサイトによると、
「里坊」とは、比叡山延暦寺の三塔(東塔・西塔・横川)十六谷といわれた山上の「山坊」に対する言い方で、山麓にある各堂宇のこと。
里坊は、比叡山の山上で修行していた老僧が座主から賜って住んだのが始まりで、山坊とは違って、普通の住居のように庭園が造られた。当初、里坊は、いくつあったのか不明だが、現在は50数力所が数えられる、そうである。
というわけで、上と下の写真は「滋賀院門跡」の庭園だ。

以上をまとめると、滋賀院門跡は天海が天皇から賜って移築した寺院(里房)だが、代々の天台座主がここに住んで御座所とした。天台座主は親王が勤めた例が多く、だから「滋賀院」は「門跡」なのである。

滋賀院門跡の建物を出て、建物を右側に見ながら、隣接の「慈眼堂」へ行こうとしている。
「慈眼堂」は天海和尚の廟所だ。

この階段を登れば「慈眼堂」だ。
【比叡山・戒壇院】(5月29日)

戒壇院だ。根本中堂および大講堂から歩いて数分である。

仏教史を読むと、わが国は唐からわざわざ鑑真を呼んで754年に東大寺に戒壇をつくり、日本で始めて授戒の儀式ができるようになった、とある。授戒を受けて戒律を守るものだけが僧として認められるようになったのだ。
だから唐招提寺も東大寺も、そして新しく戒壇を設けて東大寺に代わって日本の近代仏教の中心となった比叡山にとっても、戒壇院とか戒壇堂とかはたいへん重要な建物のはずだ。
しかし上のどの寺院にいっても、そのような説明はほとんどなく、戒壇院はひっそりと佇んでいる。
雰囲気重視の観光客は地味な建物はおもしろくないのだろう。

806年、比叡山に戒壇が設けられたことによって、比叡山は大乗仏教の中心として、数多くの学僧が修行をする場となった、とぼくはそう理解しているのだが…。
比叡山は日本の仏教の中心地として、大勢の学僧がここで学んだ。
後の各宗派の宗祖たちも、比叡山で修行したのである。
比叡山で修行した著名な僧。
源信: 『往生要集』の著者
法然: 浄土宗の開祖
栄西: 臨済宗の開祖
道元: 曹洞宗の開祖
親鸞: 浄土真宗の開祖
日蓮: 日蓮宗の開祖
【東大寺・戒壇堂】(2012.10.21 撮影)

上は昨年10月に撮影した東大寺の戒壇堂である。
ここは堂内の「広目天」などの仏像が人気だ。
【唐招提寺・戒壇】(2011.10.02 撮影)

唐招提寺の戒壇だ。一昨年11月2日の撮影。
【阿弥陀堂への階段】

小高いところにある戒壇堂を下りると、今度は長い階段を登らなければならない。
雨はかなり降っているし、霧も深い。
【阿弥陀堂と法華総持院東塔】

階段を登り切ったところだ。位置が高いので、少し明るく感じる。
右が阿弥陀堂、左が法華総持院東塔という。
詳しくはまた次回に。

比叡山には三つのエリアがある。
東塔、西塔、横川(よかわ)の三地域に多数のお堂があり、それぞれに中心となる仏堂があって、それを「中堂」と呼んでいる。他の宗派でいう「本堂」だ。
京都からバスで行っても、坂本からケーブルカーで登っても、最初に行き着くのは東塔エリアであり、その中心が「根本中堂」(こんぽんちゅうどう)だ。
最澄が788年に、一乗止観院という草庵を建てた。年号でいうと延暦7年であり、後に年号を使用して延暦寺と称することを許されたので、「延暦寺」と言われるようになった。
一乗止観院のお堂が、その後幾度もの火災で焼けるなどして、最後は徳川家光の命によって現在の根本中堂のとして整備された。

回廊が周囲を囲んでいて、外部からは屋根しか見えない。
たしか内側は撮影禁止となっていたと思う。ネットや雑誌を捜しても、屋根と軒以外の部分が見える根本中堂の写真はまず見つからない。
これでは何が何だかわからない、と言われそうな写真だが、この日の霧はほんとうに深く、遠くが見通せないから「たぶんこちらだろう」と見当を付けて、山の中をうろうろしていたような状態だった。

根本中堂の正面に「文殊楼」へ登る階段があり、ここを登って振り返れば、もう少し全体がわかる写真が撮れるらしい。しかし、階段は濡れて危なそうであり、雨と霧がひどいので、登ってもまともに建物が見えるとも思えず、撮影は断念した。

回廊の門をくぐると、狭い中庭を隔ててすぐに中堂の建物の中だった、と記憶している。
他の寺院では見ることのできない、体験のできない、不思議な光景が眼前にある。
自分が立っている建物の奥の内陣は、暗い穴蔵のようになっていて、それを覗き込むと灯火に照らされた土間がうっすらと見えているのだ。
Wikipedia の言葉を借りると「堂内は外陣・中陣・内陣に分かれ、本尊を安置している内陣は中陣や外陣より3m も低い石敷きの土間となっており、内陣は僧侶が読経・修法する場所であることから別名『修業の谷間』といわれる」そうだ。
本尊の薬師如来と中陣の参詣者(自分)の高さが同じレベルにある。これを天台造と呼ぶのだそうだ。
最澄の教えによれば、生きとし生けるものは誰もが仏になれる(一乗の教え)のであり、本尊の仏が参詣者より上ということではない。参詣者と本尊の薬師如来は平等の立場にある。天台造りはそのことを表しているのだそうだ。
灯火は「不滅の法灯」と呼ばれ、特別な釣り灯籠に入れられている。
じつはこの日、天台座主(比叡山の住職、つまり天台宗を束ねる役職の僧)が坂本の「滋賀院門跡」まで下山して、確か僧職の任命か何かの儀式をされることになっており、「滋賀院門跡」にはその釣り灯籠のひとつが下ろされていた。ほかに観光客はいないので、ぼくはたった一人で説明を受け、灯篭と灯火をすぐ眼前に見ることができた。
説明して下さった「滋賀院門跡」の方によると、じつは信長の焼き討ちの際に一度消えたことがあるのだが、別の寺に分灯されていたので、その灯火を戻したのだそうだ。
一人だったので、灯火の芯を触らせてもらったりするなど、坂本の「滋賀院門跡」ではいろいろと教えてもらっていた。
この内陣の暗がりの様子を覗うのには、貴重な事前体験だった。
天台座主は現在第256代だそうだ。歴代の天台座主は親王が勤めたことも多くあって、必ずしも比叡山に住んでいるとは限らないそうだが、滋賀院門跡で聞き違えていなければ、当日に山から下りてこられる、とぼくは聞いた。比叡山のどこに住まわれているのか、調べてみたがわからない。

根本中堂の近くのお堂をいくつか紹介する。
大講堂は昭和39年に坂本の讃仏堂を移築したもの。本尊は大日如来で、その左右には比叡山で修行した各宗派の宗祖の木像が祭られているそうだ。
そのことはまた、次回にでも触れたい。

大講堂も晴れた日に撮られた写真を見ると、優美な建物だ。この写真では細部が見えないが仕方がない。
近くに鐘楼があり、その屋根の下へ入るなどして、雨を避けながら撮影した。

上は鐘楼を撮影した。

5月29日水曜日、霧深い比叡山から少し時間を巻き戻してみたい。
大津市の観光の中心はJRの大津駅よりも、むしろ京阪石山坂本線(石山寺と坂本間を結ぶ)の「浜大津」駅にある。浜大津駅前のビジネスホテルを朝8時前後に出たぼくは、京阪石山坂本線で坂本へと向かった。
上と下の写真は、浜大津駅から撮影した大津港と琵琶湖だ。

比叡山の山頂では食事をするような場所はないだろうと予想していたので、おにぎりなど調達する予定でいたが、浜大津では駅前にも駅中にも、おにぎりや弁当を販売しているコンビニなど一軒も見つからない。

とにかく京阪電車に乗って坂本へ向かうと、駅名がいろいろとおもしろい。
坂本の二つ前は「松の馬場」駅。坂本城趾があるそうだ。
坂本城は1571年比叡山焼き討ちの後、明智光秀が築城した城で、ルイス・フロイスは安土城に次ぐ名城という認識でいた。
その次が「穴太駅」。坂本駅のひとつ前の駅だが、坂本駅まで歩いても近い。
「そうか、ここが穴太(あのう)か…」という感慨に耽る。
上と下の写真は、京阪坂本駅前を東西に貫く、「日吉馬場」と呼ばれる県道沿いの石垣である。

戦国時代の城造りと「穴太衆(あのうしゅう)の石積み」というのは、切っても切り離せない関係にある。
直木賞作家佐々木譲さんが『天下城』という穴太衆の親方を主人公に描いた小説がある。
武田の黒川金山で働いていた穴太衆の若者が、武田の戸石崩れをきっかけに村上義清の配下となり、戦地を転々とするうちについに織田信長と出会う。穴太衆の若者が成長して、安土城の城造りに参画するという物語だ。

上と下の写真は、「滋賀院門跡」へ向かう途中の石垣で、穴太の石積みのようだ。
「穴太衆の石積み」というのは、戦国時代の歴史好きにとっては、伝説的な響きを伴う言葉なのだが、坂本ではこのように、町の随所に穴太の石積みを見ることができる。

坂本から比叡山へ登るなら、比叡山の僧の「里房」として知られる「滋賀院門跡」と、それに天台宗の中興の祖といわれる慈眼大師(天海和尚)の廟所「慈願堂」が隣り合っているので、この二つを見学しつつ、周辺にある「穴太の石積み」を眺めて、それからいよいよ比叡山へ登るというのが、もっとも適当なのではないかと思い、ぼくはそれを実践した。

上が「滋賀院門跡」の石垣の様子だ。
ところで、京阪坂本駅付近にコンビニはなく、「滋賀院門跡」や「慈願堂」の周辺はお堂と石垣ばかり。ケーブル坂本駅にも、ケーブル延暦寺駅でも昼食の調達はできなかった。
そこで仕方なく、比叡山を下りてから、夕刻の16時頃に坂本のとあるカフェへぼくは入る。ここまでがじつは伏線である。
口うるさそうなオヤジさんがオーナーのカフェだ。
店内に展示されていたバラの写真と、ぼくが持ち運んでいた CANON の大型カメラ というところから、結局はいろいろとアルバムを見せてもらったりしたのだが、それはともかく、店のマガジンラックに「穴太の石積み」(平野隆彰著、¥2,300- )という立派な本を見つけた。出版元はなんと官報などを出版している株式会社かんぽうだ。
ぼくはここで30分あまりこの本を読み耽った。

堅苦しい学者たちと民間の調査研究家のぶつかり合いなど、本を読んでいるとさまざまな構図が見えてくる。
「穴太の石積みというが、そこらの石を適当に積み上げた『野面(のづら)積み』とたいして区別はつかない」などの対立意見も出てくる。
ぼくがこの記事で出している石垣の写真だが、「石垣の石と石の堺にある横の線が真っ直ぐに通っていない」
それが穴太積みの特徴だというのだから見た目はよくない。「野面積みと区別が付かない」などと悪口を言われるのもうなずける。
もっとも、「横へずれて崩れる心配がない」とも言えるのだが…。
上の写真は里房の庭園の名勝と言われる「旧竹林院」付近の石垣だ。
以降の写真は「旧竹林院」から県道「日吉の馬場」へ出るまでの狭い通りで撮影した。

Wikipedia でも確認できるが、穴太の石垣職人として知られた家が現在にも伝わり、後藤家と粟田家という。
この粟田家の14、5代目がテレビに出たり、安土城の修復に参加したりされたらしく、この辺りから世間的にも「穴太の石積み」が有名になったらしい。

整然と石垣が積まれた近代的な城は、石を切り割りする技術が発達して以降のもので、それまでは「野面積み」とならざるを得なかったのだろうが、ただの野面積みでは城の石垣を支えられないだろう。そこに「穴太衆の石積み技術」があったのだということのようだ。
石積みの技術について、もう少し詳しく書くこともできるが、それではブログの記事として退屈だろう。
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見た目がぱっとしないので、写真としておもしろくないし、細かな文章を読むのが面倒だ、と思われる方もいらっしゃるだろう。
しかし、歴史好きの方は「穴太の石積み」という言葉よくご存じのはずで、それでも、「実態はよく知らない」という方がほとんどではないだろうか。
一人旅だと、おもしろそうな本を見つけたら、その場で納得いくまで読んでしまうこともできる。
ぼくはなんとか「穴太の石積み」の技術的なところまで理解しようとしてカフェで時間を過ごした。
ぼくにとって「坂本」は、町全体が美しい「穴太の石積み」の町であり、比叡山の里房が立ち並ぶ町であった。

一般の観光客が比叡山に入るにはふつう二つのルートがある。
1. 京都方面からバスなどを利用するルート
2. 坂本からケーブルカーで登るルート
ぼくは坂本からのルートにこだわった。
なぜなら、叡山で修行を終えた老僧が里房を構えて隠居生活を送るのは坂本の町だからだ。

ケーブル坂本駅とケーブル延暦寺駅の区間を30分に1本の間隔で、比叡山坂本ケーブルが運行されている。
小雨降る5月29日水曜日の朝、乗客はせいぜい数人のみだ。

ケーブルカーの車窓から登ってきた線路沿いの景色を撮影すると、実感ではかなりの斜面でも、撮れた写真はほとんど高低差が感じられない。
だから、少し横を向いて、電車の内部と、線路と、横から下方にかけての景色を同時に写し込むのがよさそうだ。

ケーブルカーの路線からして、坂本の町は右下方に見えるはずなので、見えているのは琵琶湖と坂本の町ということで間違いないと思われる。

ケーブルカーがすれ違うのは、全線のちょうどまん中ということになる。
毎時0分と30分に、坂本駅からの上りと、延暦寺駅からの下りが、同時に発車しているのだ。
背景の町と琵琶湖も写し込んである。

いまはケーブルカーで一気に登ることができるが、昔の修行僧は歩いて登ったはずだ、と思いをめぐらす。
高度が上がるにつれて、霧が少しずつ濃くなってくる。
残念だが、この日は比叡山からの景色は望めないと諦めた。その代わり、霧の比叡山という被写体がぼくを待ち受けていた。

延暦寺駅へ到着すると、何度も来ているらしい数人の女性客はさっさとケーブルカーを下りて歩き始める。
ぼくは乗務員に声をかける。ケーブルカーの傾斜角度を尋ねてみる。
最大18度くらい、だそうだ。実感ではもっとずっと急角度に感じていた。
小雨に備え、撮影のしやすい身拵えを整えてから歩き出す。

このような林の中、ほかに誰もいなくなった道を、とぼとぼと一人で歩いて行く。雨の平日は、こんなに観光客が少ないのだろうか。
歩いていくと、霧はますます深くなるように感じられる。

これはたいへんな日になりそうだ、という予感がする。
傘を差していても、ウインドブレーカーがじっとりと湿っぽくなる。

延暦寺の文字が見えて、ここで500円を支払うが、寺域は3エリアに分かれているので、チケットはなくさないよう気をつけなければいけない。
坂本の慈眼堂で受けた説明によると、延暦寺という名前の寺はないのだ、そうだ。比叡山にたくさんのお堂があって、総称して延暦寺と呼ばれているだけだ、という。
憧れの比叡山は、深い霧の中でのお堂巡り、ということになった。