
寿福寺は一般公開されていませんが、鎌倉では名前がよく知られています。
というのは、ここは源義朝(頼朝の父)の旧宅の跡地で、頼朝は鎌倉入りしたときにここへ居を構え、幕府としたいという意向があった、と伝えられているからです。
ところが、三浦一族が義朝の菩提を弔うための草堂を建てていたため断念し、幕府は大倉の地に変更されました。
寿福寺の開山は栄西ですから臨済宗のお寺です。寿福寺を開いた後、栄西は京都へ移り、建仁寺を開きました。
その建仁寺については、何回かに分けて、当ブログで記録記事にしています。
寿福寺の裏山へ登っていく細い道があって、源氏山公園へ通じており、ツバキの時季にはぼくはよく訪れます。
一般公開されていないのに、この参道はとても人気があって、観光案内にはこの参道の写真がよく載せられていますが、正面の門からは中を覗くだけで、入ることはできません。(撮影日:2013.1.23)
撮影中、ご近所の方が隣の一般道を歩かずに、こちらのほうが好きだからと門の横から参道に入り、わざわざこちらのほうを歩かれていました。ぼくはそのあいだずっと待っていましたが、こちらの参道を歩きたいという気持ちはとてもよくわかります。

門から中を覗き込んでいます。
手前左側の大木は鎌倉市天然記念物「ビャクシン」だとのこと。ヒノキ科の樹木です。

門の右側には鐘楼が見えています。
28日からかみさんが留守をしていましたが、明日帰ってきて、生活が通常のペースに戻ります。
雪掻きがきっかけになったぼくの腰痛は、それを気にして運動不足になっていたための筋肉のこわばりと、あまり区別が付かなくなる程度にまで軽くなりました。
【八重野梅】

28日夕刻に「八重野梅」(やえやばい)が開花しかけているのを見かけ、29日朝撮影しました。
開花したのはいいけれど、あまりの寒さに雄しべが少し傷んでしまったのでしょうか。
【八重寒紅】

「八重寒紅」(やえかんこう)は、毎年八重野梅とほとんど同時に咲きはじめます。今年も同様でした。
天候次第ですが、八重野梅と八重寒紅は花数が多く、一歳や冬至と比較すると花も大きいので、この花の開花が進むといよいよ梅林らしくなってきます。
【古今集】

「古今集」のつぼみが膨らんでいました。
ほかに「水心鏡」も「もうまもなく…」というふうでした。
【咲き進んだ一歳】

「お椀咲き」というのは、「一歳」のように花弁がお椀型になったまま開ききらない梅の花をさしてぼくが勝手に作った造語ですが、それでも精一杯開いたところを撮りました。
一番最初に咲いただけあって、この木は少し離れても開花がわかる程度になっていました。
梅の花はいずれもまだ木の高いほうに咲いている花ばかりで、近づいて雰囲気たっぷりに撮ることができる状況ではありません。アングルが限られて、遠目の撮影になってしまっています。
【梅にヒヨドリ】

梅の花を撮影中に、わざわざきみのほうから近づいてくれたのはうれしいけど、やけになれなれしいね。
わが家で餌をやっているのは、まさかきみじゃあないよね?

【大徳寺高桐院 の 庭】

「古今伝授」という言葉があります。
古今伝授というのは「古今集」の解釈を中心に、歌学や関連分野のいろいろな学説を、口伝などによって、師から弟子へ伝授することをいうのだそうで、これに細川家の初代藤孝=幽斎が絡んできます。
古今伝授の流れの一派の三条西家は、代々一家で相伝していましたが、三条西実枝はその子がまだ幼かったため、「後で子孫に伝授を行う」という約束で細川幽斎に対して伝授を行ったのでした。

徳川家康は石田三成に挙兵させようとしてわざわざ隙を作るため会津の上杉討伐に向かったとの説がありますが、この派兵に細川忠興が加わっていました。
留守の丹後田辺城を守っていたのは父の幽斎、たちまち三成方の兵に囲まれて籠城することになりました。
兵力差が大きく田辺城は落城寸前となりますが、幽斎は降参せずに討ち死に覚悟の姿勢。
慌てたのは朝廷でした。このままでは古今伝授が途絶えてしまうと恐れ、後陽成天皇が動いて東西両軍に勅使を派遣し、講和を命じました。勅使となれば東西両軍とも従わないわけにいかず、幽斎は開城して身柄は丹後亀山城に移されることになったのです。関ヶ原の戦いは二日後のことでした。

というわけで、細川家の菩提寺、大徳寺高桐院には、どうしてもいろいろと思い入れが出てくるのですが、一日にいくつもの拝観をしてしまったので記憶が不鮮明です。茶室を写したのか書院を写したのかさえ判然としません。
茶室「松向軒」も拝観したと思いますが、内部の写真はありません。
雰囲気だけでも味わっていただければ、と思います。

この蹲踞(つくばい)は「袈裟形おりつくばい」とよばれ、加藤清正が朝鮮王城の羅生門礎石を持ち帰り三斎(忠興)へ贈ったものだそうです。地表低く納められているためおり蹲踞と呼ばれていると立て札にありました。先日「総見院」の記事でも清正が持ち帰った石で作った井筒を紹介しましたが、大きな石を見つけると持ち帰りたくなる人なのでしょうね。ぼくは熊本城の石垣を見ているので、さもありなんと納得してしまいます。

また参道を通って、高桐院をあとにします。

以下、塔頭寺院ではなくて、大徳寺そのものの山門、法堂などもこの機会に紹介しておきたい、と思います。
【大徳寺の伽藍】

大徳寺・勅使門。

山門です。

法堂の一部です。
ちょっと雰囲気がよかったので、一部分を撮しています。

根岸森林公園では「冬至」の開花が少し進みました。
「なんとか咲いた」ではなく「きれいに咲いた」と言えるようになってきました。

「冬至」が開花したなら、「紅冬至」はどうか、ということですが、つぼみがかなり膨らんでいます。
例年、紅冬至のピークを過ぎてから気がついて写真を撮っているので、今年こそはベスト・コンディションの紅冬至を撮りたい、と思っております。

昨日の二宮・吾妻山の花々のつづきです。
登ってきたので身体が暑いくらいなのに、陽射しが降り注いで、しばらくは上着も脱いで、美しい景色を眺めていました。

縦の構図にすると、近くから遠くまでの菜の花にフォーカスを合わせるのに、いったいどうすべきかと迷います。
一番手前は諦めました。三脚を持ってここまで登ってくる体力があれば、まだやりようはあるように思いますけど。

位置関係からすると、見えているのは真鶴半島なのかな、と思うのですが、こういう広域の遠近感が自分にはできていないので、自信がありません。

20分ほどここにいたら、急に風が出てきて、今度は寒いくらいになりました。
風はどんどん強くなって、寒いからダウンジャケットを着ようとするのに、吹き飛ばされそうになります。
やがて、立っている脚がぐらつくくらいになってきました。

平塚のひとつ先が大磯、そのもうひとつ先が二宮。駅前に吾妻山の登り口があり、一気に登るその途中です。
言葉よりも写真が雄弁でしょう。


八重化している花もちらほら見られます。

鎌倉の光則寺ではソシンロウバイしか見られませんでしたが、これがロウバイなのでしょうか。


大徳寺の塔頭巡り 、ふたつ目は、細川家の菩提寺「高桐院」だ。
細川忠興によって1601年に建立され、忠興の遺骨は当寺に埋葬されることになった。
訪問者は、ぼくと同じく、この参道の様子に感動を覚えるだろう。ここを歩く味わいは格別のものがある。

正面は唐門だ。

玄関を入り、このような庭を見ながらまた外へ出て、墓所へと進む。

細川家の墓所だが、正面は初代細川幽斎(藤孝)の墓で、三代以降の墓石が並んでいる。
幽斎はおもしろい逸話が多い人で忠興の話をするよりずっとおもしろいのだが、終わらなくなるので控えておく。
忠興と夫人ガラシャ(明智光秀の娘)の墓は次の写真だ。

この墓石だが、これはもともとは灯篭だ。
もともと千利休が秘蔵して天下一の称のある灯篭だった。秀吉と忠興が欲しがったが、利休はわざと裏面を欠いて、疵物だからと秀吉の要請を断ってしまった。利休は割腹の際にこれを忠興に遺贈した。「欠灯籠」という呼ばれるようになった。八十歳になったとき忠興は熊本からこれを当院に持参し墓標としたが、八十三歳のとき熊本で亡くなった。遺言によりその遺歯が高桐院に埋葬され、以後細川家の菩提寺として庇護されることとなった。
本堂の前庭にも灯篭があるが、それは欠け灯籠の写しだと言われているそうだ。

「三斎井戸」と呼ばれる井戸。初代藤孝=幽斎、二代忠興=三斎である。三斎井戸は三斎とガラシャの墓所のための井戸だ。

「三斎井戸」の付近は、飛び石にも風情がある。