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東福寺町を歩く

2012.11.22(17:45)

東福寺町のタクシー121010

 京阪に東福寺という駅があるから、東福寺へ行くにはここから歩くのだろうと考えてその通り実行すると、かなり歩くことになる。駅の名前は東福寺に行くための駅ではなく、東福寺という町を訪れるための駅と考えた方がよい。
 この日の朝、松原橋近くのホテルから清水寺まで歩き、五条坂を下って鳥辺野の跡地の墓地を確認し、河合寛二郎記念館を見学して、方広寺の鐘楼を見て、隣の豊国神社へ進み、近くで昼食を食べてから、さらに三十三間堂まで歩いた。あまりに疲れたので七条の駅から東福寺まで一区間は京阪電車を利用したような気がするが、着いたところは東福寺町の端っこだったのだ。
 結局この日も一日中歩いていた。


東福寺町洛東園121110

 東福寺は臨済宗東福寺派の大本山。1236年の創建だ。摂政九条道家が,奈良における最大の寺院である東大寺に比べ,また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で,「東」と「福」の字を取って名付けたと言われる。
 三時が近づいてくると焦ってくる。三時を過ぎるとあっという間に日が傾くからだ。なのにその東福寺へ着かない。
 町が広いのだ。タクシーが停まっているここは、東福寺の支援でできた養護老人ホーム「洛東園」だった。


東福寺・栗林庵121010

 東福寺のこの塔頭は栗林庵。「墓地募集中」の看板がある。こういう塔頭がたくさんある。
 日が傾くと困ると思いつつも、ぼくは東福寺に辿り着く前に、東福寺の塔頭のひとつ「霊雲院」というところで脱線してしまった。
 とりあえずは座敷でひと休みして、のんびりと庭でも眺めていたいというのは、さすがに疲れていたからだ。


【遺愛石と九山八海の庭】

遺愛石と九山八海の庭121010

 「霊雲院」の第七代の住職が細川忠利と親交があり、和尚が住職になるときに細川家から五百石を贈る話が出たが、和尚さんは修行の妨げになるからと辞退。そこで石を賜るということになった。
 細川家は「遺愛石」と銘を付けて須弥台と石舟を作って贈った。
 その遺愛石を中心としたのが、書院前庭の「九山八海の庭」だ。


九山八海の庭・遺愛石左側121010

 書院の廊下を歩き進んで振り返る。「遺愛石」は見えている画面の右側にある。


【書院から庭を眺める】

書院から九山八海の庭121010

 書院の奥から眺めている。遺愛石は左の端のほうに見えている。
 書院を右奥の茶室「観月亭」のほうへ回っていくと、「臥雲の庭」がある。


【臥雲の庭】

臥雲の庭121010


臥雲の庭一部121010


【九山八海の庭へ戻る】

九山八海の庭に戻る121010

 臥雲の庭をしばらく眺めて、また書院の廊下を戻っていく。
 九山八海の庭の全体を、最初とは反対の方向から眺めることになる。

 東福寺に辿り着くまで、ここからまたかなり歩いたのだった。

丸の内の秋

2012.11.21(18:00)

お堀のカモメ1121120


お堀のカモメ2121120


丸の内の花壇121120


丸の内のイチョウとビル121120


丸の内のイチョウとビル2121120


丸の内のイチョウとカメラマンとクレーン121120


丸の内お堀へのイチョウ並木121120


丸の内イチョウ並木とビジネスマン121120

 11月20日午後の撮影です。
 新宿御苑でプラタナスの黄葉を楽しんだ後、東京駅で途中下車しました。

坊主DAYS

2012.11.20(18:10)

【建仁寺・勅使門】

建仁寺勅使門121008

 臨済宗・建仁寺について、前回は襖絵・屏風絵・天井画を中心の記事としたので、今回は境内の様子などの写真を紹介していきたいと思う。
 前回、「臨済宗」には「○○派」というのがたくさんある。師が「公案」(いわゆる禅問答)を通じて弟子に教えていくので、大人物の師が出てくると、そこで一派を形成する、というのがその理由らしい、と書いた。
 そのせいか、曹洞宗は考え方の筋道がすっきりと通っていてわかりやすいが、臨済宗はどういう考え方をするのか、どうもわかりにくい。
 ただひとつ、はっきりしているのは「修行によって悟りを得る」ことが目的なので、修行はとても厳しい、ということだ。


【建仁寺・三門】

建仁寺三門121008

 臨済宗の修行がどのようなものか、その様子を描写していくと切りがないので、『坊主DAYS』というコミックを紹介する。
 なんだ、私の仏教関係記事の元ネタはコミックなのか、とおっしゃる方があるかも知れないが、これはみなさんにとってもたいへん有意義な読書になるはずだ。著者は、家を継いで臨済宗の住職になった兄を持つ女性マンガ家だ。兄の生活をずっと見ていて、本山での修行の様子などはしっかりと取材して描いている。タイトルをクリックすると「ディックの本棚」の感想記事にジャンプする。


【建仁寺・法堂】

建仁寺法堂121008

 禅宗は、浄土宗のように衆生を救うという性格の仏教ではない。自ら修行して「悟り」を得ることが本来の目標だ。ではそもそも「悟り」を得るとはどういうことなのか。このあとの記事で、書いていく余裕があれば、私なりの考え方を書いていこうと思う。
 
 上の写真「法堂」は、例の小泉淳作画伯の「双龍図」の天井画があるところだ。
 写真に見えている人たちはみな、天井の「双龍図」を眺めている。


【建仁寺・本坊】

建仁寺本坊121008

 ご参考: ある大学の先生が各宗派のお寺に対してアンケートを実施したことがある。「霊」の存在についてのアンケートだった。臨済宗・建仁寺の回答は「個人としての禅僧が見解を示すことで、統一的解釈はなされていない」というものだった。臨済宗各宗派の本山の回答は、それぞれ多種多様だった。
 ただ、突き詰めていった場合、「霊の存在ないし不存在」や「死後の世界はあるのかないのか」等の問題について、仏教の本来の立場は釈迦の一言「捨置」に尽きる。「そんなことは放っておけとして、説かない」という立場だ。
 一般に知られている仏教とはなんだか違うではないか、と思われるかも知れない。ややこしいことに、仏教には「方便」という考え方がある。人はいくら説いても聞きたくないことは聞かない、という頑迷性を持っている。そうした人々を救っていくには、原則を曲げて説くことも、仏教では方便として許されてきた歴史がある。


【建仁寺・本坊中庭「潮音庭」】

建仁寺本坊中庭潮音庭121008

 眺めている方たちはすっかりリラックスしている。
 よい庭とはそういうものなのだろう。


建仁寺本坊の庭121008

 「潮音庭」と同じ本坊の別庭だったと記憶している。


箱根・精進池周辺の古石仏群をめぐる

2012.11.19(18:20)

【精進池と駒ヶ岳】

精進池と駒ヶ岳121110

 第70回 San Po の会 は11月10日小田原駅10時集合にて開催されました。
 メンバーのみなさんが余裕を持って集まったので、10時発の伊豆箱根バスに乗車し、正月の大学駅伝のコースを「六道地蔵」へと向かいました。
 箱根には箱根登山バス(小田急系)と伊豆箱根バス(西武鉄道系)の2系列があり、ほとんど同じ路線を競合して走っています。伊豆箱根バスを利用したのは女性係員からの勧誘があったからでしたが、小田急系のクーポンを持っている方は乗車してこないので、ゆったりと景色を楽しみつつ箱根を登っていくことができました。
 「六道地蔵」着は11時30分頃でした。
 精進池と駒ヶ岳の景色を楽しみつつ、箱根町が経営している「石仏群と歴史館」を訪れ、それからハイキングの開始です。
 石仏群の写真がたくさんあるので、精進池と駒ヶ岳の景色は今回は一枚だけ。今回は「石仏群編」とし、次回を「ハイキング編」として、二回に分けます。ハイキングの様子は次回に。


【六道地蔵】

六道地蔵を見に行く121110

 歴史館を後にして先ずはバス停名にもなっている「六道地蔵」の見学です。
 お釈迦様が亡くなってから弥勒菩薩がこの世に現れるまでの仏のいない時代に、人々は地獄・飢餓・畜生・阿修羅・人・天の六道に輪廻して彷徨い、苦しむ、と言われていました。そんな人々を救ってくれるのが地蔵菩薩です。だから「六道地蔵」といわれるのだと思われます。
 浄土信仰が普及した平安時代以降、浄土に生まれ変わることのできない衆生は必ず地獄へ堕ちる、といわれていました。だからお地蔵様に対しては、地獄における責め苦からの救済を強く願うようになりました。
 そして、ここ箱根は火山の痕跡が強く残るなど、地獄への入り口のような様相を呈しています。そこに地蔵菩薩の石像をもうけて地獄へ落ちないよう道案内していただく、という意味が込められたのではないでしょうか。


六道地蔵アップ121110

 このお地蔵様は石仏群の中で一番大きく、鎌倉時代に彫られたもの。
 覆屋は復元されたものです。

 六道地蔵から応長地蔵、八百比丘尼の墓、多田満仲の墓、二十五菩薩、曽我兄弟と虎御前の墓と遊歩道に
沿って見て行きました。


【応長地蔵】

応長地蔵121110

 応長地蔵というのは、やや小ぶりな岩盤に三体の地蔵が彫られ、応長元年の銘があることから「応長地蔵」と呼ばれているもののようで、由来などは何も伝えられていないようです。


【八百比丘尼(やおびくに)の墓】

八百比丘尼の墓121110

 八百比丘尼(やおびくに)の墓の話題はリーダーのNさんの解説が詳しいので、簡単にまとめます。
 もともとは若狭の国の話が全国へ流布したようで、日本全国に似たような話があるとのこと。
 日本の人魚伝説では、人魚の肉を食べた人は不老不死となると言われています。むかし若狭の国の漁師が浜で拾った人魚の肉を村人へふるまいました。誰もが気味悪がって捨ててしまったのですが、一人だけ家へ持ち帰った村人の娘が、知らずにそれを食べてしまい、十代の若さのままでその後八百年にわたって生き続けた、というのです。だから八百比丘尼と呼ばれます。
 やがて、連れ合いも両親も死んでしまい、ひとり生き続ける彼女は村人たちから化け物扱いされたので、出家して尼さんとなり、諸国を巡って人助けをしたといいます。最後は自ら世を儚んで岩屋へ隠れてしまったそうです。
 この箱根の山中に、八尾比丘尼が隠れ住んだ岩屋でもあったのでしょうか。
 Nさん曰く、「世の中の女性の永遠の若さへのあくなき追求」に対するの戒めといった意味合いもあったのかも知れない、とのこと。天命で決められたときが来るまでは、健康で楽しく過ごしたいというくらいの願望が、結局は一番よいのではないか、というのがNさんの感想でした。


【多田満仲の墓】

多田満仲の墓121110

 上は多田満仲の墓。多田満仲は平安中期の武将で、いろいろな政変にからんで大勢の人を殺したといわれているようです。
 987年、多田の邸宅において郎党16人及び女房30余人と共に出家して、彼は満慶と称したといいます。「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と記した貴族の方がいるそうです。
 その多田満仲の墓がなぜこんなところに…。
 石仏群は埋もれかけていたものを発掘、整備し、言い伝えや碑文で名前が付けられています。箱根町のホームページはいちいち「俗称・○○の墓」と断り書きしているくらいです。どうしてここに多田満仲の墓があるのか、伝承や碑文が正しいのかどうかも、ほんとうのところはわからないようです。


【磨崖仏(俗称二十五菩薩)】

磨崖仏・二十五菩薩121110

 磨崖仏(俗称二十五菩薩)はご覧の通りです。崩れないようにいろいろな保存作業が行われたとの記録が箱根町のホームページにありました。


磨崖仏・二十五菩薩2121110


磨崖仏・二十五菩薩3121110


【石造五輪塔(俗称曽我兄弟・虎御前の墓)】

五輪塔・曽我兄弟・虎御前の墓121110

 写真は裏側から見ているのですが、道路側から見て左側2基が「曽我兄弟の墓」、右の1基が「虎御前の墓」と呼ばれています。
 「五輪塔」というのは、上から空輪、風輪、火輪、水輪、地輪の五輪を重ねた塔という意味のようです。

 以上、ほとんどの石仏が国の重要文化財に指定されているそうです。

 石仏群を見てまわり、湯坂道入口から鷹ノ巣山まで軽い登り道が続くのですが、以降はまた「ハイキング編」として次回の記事といたします。次回はリーダーのNさんの写真も拝借して記事を構成していく予定です。

秋深し…

2012.11.18(16:19)

【もぐもぐ…】

もぐもぐ121109


【ん? あんた、なに?】

ん? あんた、なに?


【あたしに、なにか文句でも?】

あたしになんか文句でもある?

 右のカマキリ、脚や翅が…、まだ動いていました。

風神雷神図屏風

2012.11.17(18:30)

【俵屋宗達・風神雷神図屏風】(複製写真)

俵屋宗達「風神雷神図屏風」121009

 栄西が建仁寺(けんにんじ)を創建したのが1202年で、これが臨済宗の最初の寺院だと言われることが多い。実際には「京都では…」と限定すれば正しい、ということのようだ。
 すでに紹介した六道珍皇寺が建仁寺派であり、摩利支天堂のある禅居庵は建仁寺の塔頭だ。建仁寺があるのは六波羅の辺りなのだ。
 本尊は釈迦如来、京都五山第3位の大寺院である。


【海北友松・雲龍図】(複製写真)

海北友松「雲龍図」一部2121008

 禅宗というのは、修行することによって「悟り」得ることを目標とし、思想としてはもっとも釈迦の考え方に誓いのではないか、とぼくは思っている。
 ぼくは道元(曹洞宗の祖)の「正法眼蔵」の解説を読んだのがきっかけで仏教を学ぶことになった。キリスト教もそうだが、「宗祖は何を言っていたのかを知ることがやはり一番わかりやすい」と思う。
 さて、禅宗の中でも「臨済宗」というのは「○○派」というのがたくさんある。師が「公案」(いわゆる禅問答)を通じて弟子に教えていくので、大人物の師が出てくると、そこで一派を形成する、というのがその理由らしい。
 今回はこれ以上深入りせず、建仁寺について語ろう。


海北友松「雲龍図」アップ121008

 建仁寺には襖絵などの文化財が多い。
 まずトップの写真が俵屋宗達の「風神雷神図屏風」。CANON が協力した精巧な複製を屏風に再現したもので、撮影は禁止されていない。これは「琳派」の始まりと言われる有名な作品だ。俵屋宗達の「風神雷神図屏風」をモデルにして尾形光琳、鈴木基一、酒井抱一らがほぼ同じ構図で「風神雷神図屏風」を描き、これらの画家が「琳派」の画家と呼ばれている。
 (ぼくは尾形光琳と鈴木基一の「風神雷神図屏風」を2008年東京国立博物館の「大琳派展」で、酒井抱一の「風神雷神図屏風」を今月11月15日帝劇ビルの出光美術館で観ている)
 「光琳図案という呼び名があるように尾形光琳は革新的なデザイナーだった…」と琳派について始めたいところだが、今回は控えておこう。
 なお、俵屋宗達の現物は京都国立博物館に寄託され、保管されている。


海北友松「雲龍図」一部121008

 襖絵としては、方丈にある海北友松の「雲龍図」「竹林七賢図」が高精細デジタル複製化されている。これの現物は京都国立博物館にある。
 部屋の襖絵として入り口から眺めるのなら、事実上区別は付かないのだから、「襖絵」を当初と同じように味わうことができるという点で、とてもよい試みだ、と思う。


海北友松「雲龍図」座敷121008

 旅先で部屋の中を撮りたいときに、「多少薄暗くても手持ちでシャッターを切ることができるほど高感度に強い」というのが CANON のカメラを選んだ理由だったので、今回撮影ができた。「よい買い物をした」と満足している。


【海北友松・竹林七賢図(部分)】(複製写真)

竹林七賢図121008


【建仁寺・法堂】

小泉淳作「双龍図」121008

 法堂では小泉淳作画伯の「双龍図」を見ることができる。今年の1月に亡くなられた方だ。
 とくに撮影禁止との札もなかったので、ちょっとだけ…。


【自宅と自宅付近の季節の花】(付録)

モミジバゼラニウム121112

 モミジバゼラニウムです。


キヅタの花121112

 キヅタの花です。


ヒメフウロ121112

 ヒメフウロだったはず。

見かえり阿弥陀

2012.11.16(15:40)

【永観堂(禅林寺)総門】

永観堂入り口121009

 禅林寺という寺がある。
 当初真言密教の寺だったが、永観(ようかん)律師という方が住職になってから律師が浄土・阿弥陀信仰に熱心になり、以降は三論宗の浄土教寺院となり、現在は浄土宗西山禅林寺派の大本山となっている。


【永観堂総門付近の紅葉】

永観堂入り口の紅葉121009

 1082年、永観さんが50歳頃の冬のこと、彼は底冷えのするお堂で念仏を称えながら阿弥陀像のまわりを念仏して行道(仏の周囲を右回りに巡って仏を敬礼供養すること)していた。
 すると突然、須弥壇に安置してある阿弥陀像が壇を下りて永観さんを先導し行道をはじめられたので、永観さんは驚き、呆然と立ちつくしてしまった。この時、阿弥陀様は左肩越しに振り返り、「永観、おそし」と声をかけられた、という。
 その阿弥陀像が安置されているというのだから、これは是非とも拝見しなくてはならない。


【木々に囲まれた釈迦堂】

木々に囲まれたお堂121009

 須弥壇に安置されているのだから、さほど大きな像ではないが、ライトアップされていてよく見える。
 あれまあ、腰と胸は正面を向いているのだが、正面から見ると顔は右の方を向いていて、横顔しか見えない。こんな仏像は初めて見た。
 それではと、やはり顔を見たいから、堂内を右のほうへぐるっとまわっていく。須弥壇はそちら側にも窓が開いていて、今度は阿弥陀様のお顔が見えるが、顔だけをこちらへ向けている。
 自分よりおくれる者たちを待つ姿勢。愛や情けをかける姿勢。と永観堂のホームページには書かれている。
 なかなかよい表情をした阿弥陀仏だ。「みかえり阿弥陀」と呼ばれている。


【釈迦堂から唐門(勅使門)前の庭を眺める】

釈迦堂から唐門(勅使門)前の庭を眺める121009

 永観さんは施療院を建て、窮乏の人たちを救い、梅林を育てて梅の実を施すなど、救済活動に努力された立派なお坊さんらしい。中興の祖ということで、禅林寺は永観堂と呼ばれるようになった。


【釈迦堂の庭】

永観堂庭121009


【臥龍廊を昇って阿弥陀堂へ】(階段下を振り返った様子)

永観堂臥龍廊121109

 そこでちょっと復習したい。
 如来はそれぞれの仏国土を持っていて、阿弥陀如来の仏国土が「浄土」と呼ばれている。阿弥陀様が「念仏を称える者は誰でも死後に浄土に生まれ変わらせる」と誓いを立てたので、阿弥陀信仰、浄土信仰が盛んになり、当初は「浄土教」と呼ばれ、空也聖人などがこれを広めた。
 「南無阿弥陀仏」と称えることで、貴賎や男女の区別なく西方極楽浄土へ往生することができる、と説いたのが法然上人で、思想としてしっかりしたものとなり、「浄土宗」と呼ばれるようになった。
 …とまあ、大雑把に言えばそんな流れだろうか。


【多宝塔から阿弥陀堂を眺める】(記憶がはっきりしませんが…)

永観堂阿弥陀堂121009

 永観堂は南禅寺の北、五分ほどの距離で、紅葉の美しい寺として知られている。
 今回は10月上旬の散策だったが、いつか再訪できればよい、と願っている。


【多宝塔から見下ろす】(記憶がはっきりしませんが…)

永観堂の釈迦堂か121009


【永観堂 放生池の紅葉】

永観堂紅葉アップ121009


永観堂池と紅葉121009


永観堂池と紅葉2121009


永観堂の灯籠と紅葉121009


 さて、浄土信仰による平安末期の庶民の救済について十分書いたので、やっと鎌倉時代へ突入できる。
 記事にするのを忘れていた何かが出てきたら、それはまたそのときに考えよう。
 次回は臨済宗の総本山・建仁寺への訪問だ。

2012年11月

  1. 東福寺町を歩く(11/22)
  2. 丸の内の秋(11/21)
  3. 坊主DAYS(11/20)
  4. 箱根・精進池周辺の古石仏群をめぐる(11/19)
  5. 秋深し…(11/18)
  6. 風神雷神図屏風(11/17)
  7. 見かえり阿弥陀(11/16)
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