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鳥辺野

2012.10.28(18:30)

【鳥辺野】

鳥辺野の墓地121010

 「戻り橋」や「六道の辻」の記事で話題にしたように、平安京の人々にとって「死」は常日頃から隣り合わせにあるものとして意識されていた。
 上は清水寺から五条坂をくだってきた付近、「大谷本廟」(浄土真宗本願寺派(西本願寺)の宗祖親鸞の墓所)の裏手の墓地の光景だ。
 平安京の時代にいう「鳥辺野」(とりべの)はこの墓地の辺りを中心に広がっていたという。

 『源氏物語』では、まだ年若くてもいとも簡単に人が亡くなる。あの紫の上でさえも…。
 ---- はるばると広い鳥辺野の野原いっぱいに、立錐の余地もないほど、おびたただしく人や車が立て込んでいて、この上もなく厳粛な葬儀でしたけれど、紫の上は、ついに、いいようもなくはかない煙になって、あっけなく空に立ち昇っておしまいになりました。それはこの世の常の定めとはいえ、今更どうしようもなくあまりにもはりあいのない悲しいことなのでした ----(瀬戸内寂聴さんの『源氏物語』から「御法」の一部分)


大谷本廟境内121010

 写真は「大谷本廟」の境内。


【清水寺】

清水の舞台縦121010

 鳥辺野跡の墓地は、現在の清水寺の本堂舞台の上からは木々が生い茂って見えないが、もしも平安京の時代にこの舞台があったとしたら、舞台に立った人々の下に見えるのは広大な葬送の地「鳥辺野」であったろう。(現在の舞台は江戸時代初期に再建されたもの。)


清水の舞台広角121010

 清水寺(きよみずでら)の本尊は千手観音。元は法相宗。
 元は…、とことわるのは、法相宗は1882年に興福寺、薬師寺、法隆寺の三寺が大本山となったが、第二次大戦後、法隆寺は「聖徳宗」を名乗って離脱し、清水寺も「北法相宗」として独立したからだ。
 法相宗はもともと学問の寺という色彩が強い。貴族たちでさえ死と隣り合わせに生きていた。生きることが「苦」であった庶民の心の支えには、そのままでは清水寺はおそらくもの足りなかっただろう。
 

清水の舞台横121010

 清水寺の舞台は本堂の一部分だ。本堂だから本尊の千手観音立像が安置されている。(秘仏でありめったに開帳されることはない)
 そして建物の前の部分が山の斜面にせり出すようにして建てられ、139本といわれるケヤキの柱に支えられている。張り出し部分は少し前方に傾斜していて、ちょっとこわい。
 後から写真を眺めると、つい先ほどまでの自分も含めこれほど大勢の人々が舞台に乗って、ほんとうに大丈夫なのだろうか、と不安を感じさせる。


清水寺三重塔121010

 さて、平安中期以降、清水寺は本尊の観音信仰のおかげで栄えた。西国三十三箇所観音霊場の第十六番札所となった。『枕草子』では「さわがしきもの」の例として「清水観音」の縁日を挙げている。前回の記事で紹介したように、いまは毎日観光客でごったがえしてさわがしい。
 観世音菩薩はあまねく衆生を救ってくれる。法相宗というより、真言密教や浄土信仰の広がり、深まりとともに観音信仰が盛んになり、清水寺は栄えていったとみるべきだ。
 真言宗の考え方では、聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音を六観音とする。六観音は六道輪廻の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考え方なのだ。
 清水寺の観音様は千手観音だ。手が多いので、救済を求める庶民にとって、観音様の手が回らずに取り残されるという不安がないのかも知れない。
 (写真は重要文化財の三重塔。寛永再興時の再建で昭和62年に解体修理された。トップの鳥辺野跡の墓地の写真の一部にちらりと姿を見せている。これで位置関係がある程度把握できる)


清水寺鐘楼121010

 以上のように、「六道の辻」の記事の続きに「鳥辺野」と「清水寺」が出てくるのは、このように内容が繋がってくれるからなのだ。
 (写真は清水寺・鐘楼) 

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 陰陽道や民間の迷信の話題から、ようやくまともな仏教の話へ進んできました。今回は真言密教の話題も登場したので、京都の旅のシリーズの次回は「東寺」となります。

2012年10月28日

  1. 鳥辺野(10/28)