FC2ブログ

六道の辻

2012.10.26(18:30)

六道の辻石碑121010

 前回「戻橋」について、この世とあの世、こちら側とあちら側の「境界」にあるのが「戻橋」というのが、平安京の人々のとらえ方だった、と書いた。「六道の辻」もそうした境界のひとつだ、という。

 ぼくが宿泊した京の宿から「鴨川」の「松原橋」を渡るとそこはもう六波羅で、そこに「六道珍皇寺」(ろくどうちんのうじ)という寺がある。十月十日、清水寺へ向かう途中に訪ねてみた。
 この「六道珍皇寺」の付近が「六道の辻」であるとされる。「六道の辻」も上で書いた「境界」にあたる。
 この辺り一帯から東の山麓にかけては「鳥辺野」といわれる葬送の地だった。「六道の辻」は冥界への入口なのだ。(六道の辻の名称の由来には諸説がある)
 あちら側の冥界へ入っていったら、もう帰ることはかなわない。
 そのような境目を自由に往き来できるとしたら、それはふつうの人間ではない。


六道珍皇寺正面121010

 平安京には上で書いた「境界」を自由に往き来していると噂されていた人物がいた。
 小野篁(おののたかむら)が現世と冥界の境界を自由に往き来し、冥土通いをしたという伝説があるのだ。
 平安京の人々は死と隣り合わせに生きていたので、浄土信仰が盛んになる一方で、迷信の類も真正直に信じられていたようだ。

 上の写真は「六道珍皇寺」(ろくどうちんのうじ)の正面。
 (なお「六道」ないし「六道輪廻」という言葉の意味については記事が煩雑になるのでここには書かないことにした)


六道珍皇寺閻魔堂121010

 「六道珍皇寺」(臨済宗建仁寺派)の閻魔堂には、閻魔大王像とともに小野篁像が合祀されている。
 小野篁は小野小町の父。遣唐使派遣の命を受けたとき船の手配か何かで我が儘を言い、天皇の怒りに触れて隠岐へ流された。そのときに詠んだ歌は百人一首に採られている(第十一番歌)。
 わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり船
 雄壮さの中に悲愴さを同時に感じさせる歌(百人一首の歴史学/関幸彦 著)だ。

 天皇に敢えて背く小野篁の意地…、これが伝説の素地になったのだろうか。
 上は閻魔堂の写真だが、左右の矢印看板の左を覗くと小野篁卿の木立像、右を覗くと閻魔大王木座像が見える。


冥土通いの井戸看板121010 冥土通いの井戸覗き窓121010

 小野篁が冥界への入り口として使った(入り口はここ六道珍皇寺、出口は嵯峨野の清涼寺境内の古井戸)と伝わる井戸が現存している。本堂脇ののぞき窓から覗くようにして内庭を眺めると、奥に確かに井戸がある。そっと撮影しようかとも思ったが、そのような井戸の写真を撮影するのは不吉だろうと撮らなかった。(11月17日から25日までに当寺を訪ねると、秋の特別寺宝展として「篁卿冥土通いの井戸」を拝観できるとポスターがあった)


清水坂を歩く子どもたち121010

 さて、六道珍皇寺の外の通りを約二十分、ずっと歩いて行くと「清水坂」になる。静かな六道珍皇寺とはうってかわって、小学生、中高校生たちの観光の渦に巻き込まれる。


三年坂121010

 清水寺へ行くには何通りかの方法があるが、いずれも坂を登らなければならない。それぞれの坂に名前が付いている。上の写真は「三年坂」だ。昔からこの坂で転ぶと三年以内に死ぬという妙な伝承があるそうだが、近くに泰産寺というお寺があって、お産を安泰にするご利益があった。「三年坂」は「産寧坂」だろう、とも言われている。
 ほかに「二年坂」「五条坂」「茶わん坂」などがある。

清水寺仁王門121010

 「清水坂」を登りきったところで、清水寺の「仁王門」が迎えてくれた。


【松原橋付近の鴨川】

松原橋から眺める鴨川121010

 京の宿は鴨川に面して、十階のレストランからは高台寺ほか東山の寺院がよく見える。
 弁慶と牛若丸が出会ったとされる「五条大橋」西詰(西側の袂)から少し北へ歩いた「松原橋」のすぐ近くだ。
 松原橋を渡ると六道珍皇寺まで五分とかからない。
 上の写真が松原橋上から撮った鴨川。下の写真が松原橋だ。


松原橋121008

 ----------------------------------------

 次回記事は「鳥辺野」(とりべの)を予定していますが、この記事の密度で毎日は疲れます。
 明日は「San Poの会」もあるので、わが家の庭の写真などを予約投稿で掲載し、「鳥辺野」は28日日曜日の夕刻にさせていただきます。

2012年10月26日

  1. 六道の辻(10/26)