六波羅 〜 付録にバラ園の写真があります

2012.10.31(18:30)

六波羅蜜寺へのお参り121008

 951年、空也がこの地に西光寺という寺を創建し、後にこの寺は「六波羅蜜寺」と改名された。そこでこの地は「六波羅」と呼ばれているとされる。
 この地は洛中から京都の住民の葬地であった「鳥辺野」に入る際の入口にあたる事から、このほかにも「六道珍皇寺」など沢山の寺院が建てられ、信仰の地として栄えた。
 院政期には平家が六波羅に広大な館を設け、武家の拠点としていた。鎌倉時代の六波羅探題も六波羅蜜寺のすぐ近隣だったようだ。


六波羅蜜寺本堂入り口121008

 京の宿から鴨川の松原橋を渡れば、もうそこは六波羅だ。
 六波羅蜜寺では、社会科の教科書・参考書などに掲載されている「空也上人像」を見ることができる。空也上人が唱えた念仏が南無阿弥陀仏の六文字ごとに阿弥陀仏となって口から出てきているという、あの像だ。(写真は禁止されているので撮影はできない。パンフレットの裏表紙の一部を紹介する)

六波羅蜜寺工事中の本堂121008


 平安時代、人気のあった密教とともに盛んになった浄土信仰は、自らが阿弥陀仏の極楽浄土へ往生することを願うものである。 
 平安京では飢餓と貧困が蔓延るようになっていき、もはや現世には救いがない。であれば、せめて死後の世界では、阿弥陀仏にすがって極楽往生を遂げたいという思いが高まっていく。
 『源氏物語』の登場人物はことあるごとに「出家したい」との望みを口にするが、それは浄土信仰が背景にある。出家して世俗を離れ、仏道に励み、死を迎える準備をするわけだ。
 貴族はいい。家が裕福であったり、あるいはそうした貴人の後ろ盾があれば、早くに出家して朝晩に経を読むような生活に入ることができる。しかし、一般庶民はそういうわけにはいかない。そのままでは庶民には救いがない。


六波羅蜜寺本堂正面アップ121008

 平安時代、僧は課役を免除されるなどの特権があったから、僧になるためには国の許可が必要だった。
 その僧侶階級の上層部は貴族で占められ、山では僧兵が暴れているという状況では、庶民はどうしたらよいのか。庶民の救済も出来ない状況に嫌気がさしてかってに剃髪し、個人で活動する私度僧が現れた。「六波羅蜜寺」を創建した空也もその一人であり、空也は庶民にも浄土教を広め「市聖」(いちのひじり)と呼ばれるようになった。


六波羅蜜寺パンフレット121029

 六波羅蜜寺はとても小さな寺で、修学旅行などのコースからは外れているが、一般客の数はとても多く、人気があるようだ。空也上人像のほかにも、平清盛座像、地蔵菩薩座像(運慶作)、地蔵菩薩立像(定慶作)など重要文化財の名品多数を間近で見ることができ、ここは京都観光の穴場と思われた。
 狭い寺でしかも工事中。風情ある写真は撮ることができなかったが、京都旅行の初っ端で強く惹かれたのがこの寺だった。


【日大生物資源科学部バラ園のバラ】(付録)

 10月31日、藤沢六会の日大生物資源科学部のバラ園を見てきました。
 写真が少ないときに少しずつ紹介していきたい、と思います。

熱情121031

 「熱情」1993年京成バラ園が作出したバラです。強健な品種だそうです。
 大輪のハイブリッドティーローズで、見映えがします。紅色の濃さが「熱情」の名にふさわしい。


ブルーライト121031

 「ブルーライト」ブルーと名のつくバラはいくつかありますが、どれもこのような微妙な色合いです。
 この写真は元の花の色をかなり忠実に再現できています。
 1995年に伊藤良順さんが作出した大輪のハイブリッドティーローズです。ブルー系では「シャルル・ド・ゴール」などはすぐに傷んでなかなかよい写真を撮れませんが、「ブルーライト」は強い種類のようで、とてもきれいです。


インカ121031

 「インカ」1992年、ドイツのタンタウ社作出のバラ。
 黄色いバラというのは褐色成分が混じることが多いですが、バラ園の中で純粋に鮮烈な黄色を感じさせるバラです。明るさ調整で暗めに調整してみても、色が濁りません。


花かがり121031

 「花かがり」 1997年、京成バラ園作出のハイブリッドティーローズです。雨に強く傷みにくいそうです。
 こちらもかなり鮮烈なオレンジ色で目立ちます。

 日大生物資源科学部は長男の母校です。それでこのバラ園を知りました。多種類のバラがあり、バラを楽しむには最適です。いまはピークを少し過ぎたところでした。

わが家のバラ

2012.10.30(20:55)

Jude The Obscure 121029

 先日紹介した Jude The Obscure 、ジュウガツ29日の様子です。


庭のビンクのバラ121029

 こちらは父から引き継いだバラ。強く剪定しましたが、復活してきました。


ルイーザ・ストーン121029

 ルイーザ・ストーン(英国ハークネスローズ社のバラ)だそうです。
 それなら、真ん中がアプリコットに染まるはずですが、手前で別の植物が大きくなってよく見えないのは、かみさんの計算違いでしょう。

曼荼羅

2012.10.29(18:00)

東寺五重塔120111

 飢餓、貧困、死と隣り合わせの世界、それが平安時代だと書いてきた。

 平安京ができた頃は、おそらくもう少し世情は安定していたのだろうと思う。
 羅城門(らじょうもん)は、平安京を南北に貫いた朱雀大路の南端に構えられた大門だった。(「羅城」とは都城の城壁のこと)
 羅城門をくぐると右手に東寺があり、左手に西寺があった。つまりは東西の寺が対になった官寺のひとつとして東寺が創建された。しかし、飢饉による困窮など国内は荒れ、平安京も右京が荒廃していき、洛南の羅城門付近の治安は悪化の一途をたどり、羅城門周辺は夜ともなれば誰も近付かぬほど荒れはてた。
 そんな時代、嵯峨天皇の823年に「東寺」は空海に下賜された。新しい仏教である密教への期待があったのだろう。
 飢餓、貧困、死と隣り合わせの世界から、既存の仏教は救ってくれない。西方の唐の国から伝来した新しい仏教は神秘的な力を持っているようだ、との期待があったのだと思う。
 上の写真は五重塔。公開は11月2日から25日のみ。拝観はかなわなかった。


東寺の紅葉121011

 手元に『最澄と比叡山』(池田宗讓監修)という新書がある。
 最澄は天台教学を唐で学び、日本を法華経による大乗仏教の国に変えていこうとしていた、という。最澄はまた、唐で「密教」も伝授されて帰ったのだが、皮肉なことに平安時代の貴族たちに人気を博したのは天台の教えではなく「密教」のほうだった。
 上の写真は紅葉を中心に撮っているが、背後の右側の建物が講堂、左側奥が金堂だ。


東寺金堂121011

 最澄が密教を伝授されて帰日したあと、こんどは空海が唐へ渡り、さらに新しい密教を伝授されて帰って来た。
 最澄と空海のあいだの書簡などが残っていて、過去には一般にも公開(国立博物館平成館の展示)されている。
 最澄は何度も空海へ手紙を送り真言密教の経典を貸してほしいと頼んだが、空海は、「密教の教えはその性質上口伝にて伝授すべきものであり、経典など読んでも役には立たぬ」と断った。(なんとなく意地悪な感じ…)
 真言密教は、最澄が空海に請い願うほどに、平安京の人々の心を捉えていたのだ。
 上の写真は金堂。東寺ではいわゆる本堂に当たる。本尊の薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩の両脇侍像が安置されていて、拝観することができた。


東寺金堂の影から講堂を望む121011

 宇宙の中心に大日如来がいらして、釈迦如来、阿弥陀如来など他の仏たちは大日如来が仮に姿を変えた存在だという。全ての宇宙の実在は大日如来に集約されるのだ。
 それを言葉で言ったのではわからないだろうから、よりわかりやすくするため大日如来を中心に、多くの尊像を一定の秩序のもとに配置し、密教の世界観を象徴的に図に表したものが「曼荼羅」である。
 思うに、不思議な曼荼羅の絵図があり、統一感のある考え方の仏教で、護摩を焚いたり、真言を唱えたり、加持祈祷や調伏が見るからに効き目がありそうに見えたのだろう。
 上の写真は金堂の横から講堂を見ている。


東寺講堂121011

 曼荼羅の頂点ともいうべき「立体曼荼羅」が東寺の講堂(上の写真)にある。絵に描く代わりに諸仏の像を組織的に並べたのだ。
 写真は禁じられているので仕方がないが、内部の諸仏像群の大多数が国宝に指定されている。一時にこれほどたくさんの国宝を目にすることのできる寺院はほかにはないだろう。 


東寺御影堂全景121011

 写真は御影堂だ。真言宗で「御影堂」とか「大師堂」といえば弘法大師空海の像を安置してある塔頭のことをいう。


東寺御影堂121011

 同じく御影堂を横から眺めている。


観智院五大の庭121011

 なお、この日、秋期特別公開として食堂(じきどう)、観智院(真言宗の勧学院)、宝物館が公開されていた。
 食堂は大したことはないが、観智院客殿(国宝)前には「五大の庭」が広がり、書院では浜田泰介さんが各部屋ごとに「春の朝」「初夏の芽」「秋の音」「新雪」をテーマにした襖絵、床の間の壁などを描かれていて楽しむことができる。宮本武蔵筆の荒鷲の図というのもあるが、かなり傷んでいて、「鋭い筆致」と言われてもぼくにはいまひとつよくわからなかった。
 建物内部の写真は撮ることはできない。宝物館では弘法大師行状絵巻(重要文化財)を楽しむことができた。
 上の写真は「五大の庭」だが、ぼくはあまり感心していないのであれこれ書くつもりがない。
 むしろ下の写真の中庭のほうがよほど風情があると感じた。 


観智院中庭121011

 さて、期待された密教の世界だったはずだが、『源氏物語』などを読むと、物の怪退散などの加持祈祷に呼ばれるのが密教の僧侶たちであり、平安貴族たちの心の支えとなっていたのはむしろ「浄土信仰」だったようだ。
 平安末期、法然によって興された浄土宗は、圧倒的な力を持って広がっていった。
 現代においても、浄土宗、浄土真宗の信者の数は1800万人超とされ、仏教宗派の中で断トツのトップだと聞いている。

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 というわけで、次回は「浄土信仰」について書く。空也上人像を見たくて、「六波羅蜜寺」を訪ねたのだ。
 しかしその記事は明後日に回して、明日は花の記事などで一服したい、と思う。

 わが国における仏教史については、ある程度のみ込んでしまえばどうということはないのだが、仏教の流れを何も知らないとわけがわからない感じがする。それでは京都や奈良を訪ねても、清水寺で「すごい舞台だなあ」と感嘆する程度になってしまうだろう。そういうことでは古都も物足りなく感じられよう。
 読者のみなさんの中にも、仏教の宗派についてはほとんど何も知らない、とのコメントがあった。
 できればこの連載を通じて、京の人々の生きる不安を救うためにどのような宗派が起こり、仏教がどう変わっていったのか…、簡単な変遷の歴史くらいは理解していただけるように、と考えている。

鳥辺野

2012.10.28(18:30)

【鳥辺野】

鳥辺野の墓地121010

 「戻り橋」や「六道の辻」の記事で話題にしたように、平安京の人々にとって「死」は常日頃から隣り合わせにあるものとして意識されていた。
 上は清水寺から五条坂をくだってきた付近、「大谷本廟」(浄土真宗本願寺派(西本願寺)の宗祖親鸞の墓所)の裏手の墓地の光景だ。
 平安京の時代にいう「鳥辺野」(とりべの)はこの墓地の辺りを中心に広がっていたという。

 『源氏物語』では、まだ年若くてもいとも簡単に人が亡くなる。あの紫の上でさえも…。
 ---- はるばると広い鳥辺野の野原いっぱいに、立錐の余地もないほど、おびたただしく人や車が立て込んでいて、この上もなく厳粛な葬儀でしたけれど、紫の上は、ついに、いいようもなくはかない煙になって、あっけなく空に立ち昇っておしまいになりました。それはこの世の常の定めとはいえ、今更どうしようもなくあまりにもはりあいのない悲しいことなのでした ----(瀬戸内寂聴さんの『源氏物語』から「御法」の一部分)


大谷本廟境内121010

 写真は「大谷本廟」の境内。


【清水寺】

清水の舞台縦121010

 鳥辺野跡の墓地は、現在の清水寺の本堂舞台の上からは木々が生い茂って見えないが、もしも平安京の時代にこの舞台があったとしたら、舞台に立った人々の下に見えるのは広大な葬送の地「鳥辺野」であったろう。(現在の舞台は江戸時代初期に再建されたもの。)


清水の舞台広角121010

 清水寺(きよみずでら)の本尊は千手観音。元は法相宗。
 元は…、とことわるのは、法相宗は1882年に興福寺、薬師寺、法隆寺の三寺が大本山となったが、第二次大戦後、法隆寺は「聖徳宗」を名乗って離脱し、清水寺も「北法相宗」として独立したからだ。
 法相宗はもともと学問の寺という色彩が強い。貴族たちでさえ死と隣り合わせに生きていた。生きることが「苦」であった庶民の心の支えには、そのままでは清水寺はおそらくもの足りなかっただろう。
 

清水の舞台横121010

 清水寺の舞台は本堂の一部分だ。本堂だから本尊の千手観音立像が安置されている。(秘仏でありめったに開帳されることはない)
 そして建物の前の部分が山の斜面にせり出すようにして建てられ、139本といわれるケヤキの柱に支えられている。張り出し部分は少し前方に傾斜していて、ちょっとこわい。
 後から写真を眺めると、つい先ほどまでの自分も含めこれほど大勢の人々が舞台に乗って、ほんとうに大丈夫なのだろうか、と不安を感じさせる。


清水寺三重塔121010

 さて、平安中期以降、清水寺は本尊の観音信仰のおかげで栄えた。西国三十三箇所観音霊場の第十六番札所となった。『枕草子』では「さわがしきもの」の例として「清水観音」の縁日を挙げている。前回の記事で紹介したように、いまは毎日観光客でごったがえしてさわがしい。
 観世音菩薩はあまねく衆生を救ってくれる。法相宗というより、真言密教や浄土信仰の広がり、深まりとともに観音信仰が盛んになり、清水寺は栄えていったとみるべきだ。
 真言宗の考え方では、聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音を六観音とする。六観音は六道輪廻の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考え方なのだ。
 清水寺の観音様は千手観音だ。手が多いので、救済を求める庶民にとって、観音様の手が回らずに取り残されるという不安がないのかも知れない。
 (写真は重要文化財の三重塔。寛永再興時の再建で昭和62年に解体修理された。トップの鳥辺野跡の墓地の写真の一部にちらりと姿を見せている。これで位置関係がある程度把握できる)


清水寺鐘楼121010

 以上のように、「六道の辻」の記事の続きに「鳥辺野」と「清水寺」が出てくるのは、このように内容が繋がってくれるからなのだ。
 (写真は清水寺・鐘楼) 

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 陰陽道や民間の迷信の話題から、ようやくまともな仏教の話へ進んできました。今回は真言密教の話題も登場したので、京都の旅のシリーズの次回は「東寺」となります。

Jude The Obscure

2012.10.27(18:30)

Jude The Obscure121026

 10月26日に開花したわが家のバラです。
  David Austin Roses Limited が1995年に作出したイングリッシュ・ローズ。
 注文したのはかみさんですから、いったいどんなバラかと思ったら、強い芳香がします。これはかなり特殊な香りで、なんと表現したらよいのかわかりません。
 もう少し開いたらまた撮影して掲載します。なかなか楽しみです。

 品種名に首を傾げてましたが、トマス・ハーディの小説のようです。翻訳名は「日陰者ジュード」、古典英文学の定番だとか…。
 下記は 英語版の wikipedia です。
 Jude the Obscure, the last of Thomas Hardy's novels, began as a magazine serial and was first published in book form in 1895. Its hero, Jude Fawley, is a working-class young man who dreams of becoming a scholar. The other main character is his cousin, Sue Bridehead, who is also his central love interest. The themes in the novel revolve around issues of class, education, religion and marriage.
 The book was burned publicly by William Walsham How, Bishop of Wakefield, in that same year.

 予告させていただいたように、今晩は京都の記事はお休みです。明日は京都の葬送の地「鳥辺野」の記事になります。

六道の辻

2012.10.26(18:30)

六道の辻石碑121010

 前回「戻橋」について、この世とあの世、こちら側とあちら側の「境界」にあるのが「戻橋」というのが、平安京の人々のとらえ方だった、と書いた。「六道の辻」もそうした境界のひとつだ、という。

 ぼくが宿泊した京の宿から「鴨川」の「松原橋」を渡るとそこはもう六波羅で、そこに「六道珍皇寺」(ろくどうちんのうじ)という寺がある。十月十日、清水寺へ向かう途中に訪ねてみた。
 この「六道珍皇寺」の付近が「六道の辻」であるとされる。「六道の辻」も上で書いた「境界」にあたる。
 この辺り一帯から東の山麓にかけては「鳥辺野」といわれる葬送の地だった。「六道の辻」は冥界への入口なのだ。(六道の辻の名称の由来には諸説がある)
 あちら側の冥界へ入っていったら、もう帰ることはかなわない。
 そのような境目を自由に往き来できるとしたら、それはふつうの人間ではない。


六道珍皇寺正面121010

 平安京には上で書いた「境界」を自由に往き来していると噂されていた人物がいた。
 小野篁(おののたかむら)が現世と冥界の境界を自由に往き来し、冥土通いをしたという伝説があるのだ。
 平安京の人々は死と隣り合わせに生きていたので、浄土信仰が盛んになる一方で、迷信の類も真正直に信じられていたようだ。

 上の写真は「六道珍皇寺」(ろくどうちんのうじ)の正面。
 (なお「六道」ないし「六道輪廻」という言葉の意味については記事が煩雑になるのでここには書かないことにした)


六道珍皇寺閻魔堂121010

 「六道珍皇寺」(臨済宗建仁寺派)の閻魔堂には、閻魔大王像とともに小野篁像が合祀されている。
 小野篁は小野小町の父。遣唐使派遣の命を受けたとき船の手配か何かで我が儘を言い、天皇の怒りに触れて隠岐へ流された。そのときに詠んだ歌は百人一首に採られている(第十一番歌)。
 わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり船
 雄壮さの中に悲愴さを同時に感じさせる歌(百人一首の歴史学/関幸彦 著)だ。

 天皇に敢えて背く小野篁の意地…、これが伝説の素地になったのだろうか。
 上は閻魔堂の写真だが、左右の矢印看板の左を覗くと小野篁卿の木立像、右を覗くと閻魔大王木座像が見える。


冥土通いの井戸看板121010 冥土通いの井戸覗き窓121010

 小野篁が冥界への入り口として使った(入り口はここ六道珍皇寺、出口は嵯峨野の清涼寺境内の古井戸)と伝わる井戸が現存している。本堂脇ののぞき窓から覗くようにして内庭を眺めると、奥に確かに井戸がある。そっと撮影しようかとも思ったが、そのような井戸の写真を撮影するのは不吉だろうと撮らなかった。(11月17日から25日までに当寺を訪ねると、秋の特別寺宝展として「篁卿冥土通いの井戸」を拝観できるとポスターがあった)


清水坂を歩く子どもたち121010

 さて、六道珍皇寺の外の通りを約二十分、ずっと歩いて行くと「清水坂」になる。静かな六道珍皇寺とはうってかわって、小学生、中高校生たちの観光の渦に巻き込まれる。


三年坂121010

 清水寺へ行くには何通りかの方法があるが、いずれも坂を登らなければならない。それぞれの坂に名前が付いている。上の写真は「三年坂」だ。昔からこの坂で転ぶと三年以内に死ぬという妙な伝承があるそうだが、近くに泰産寺というお寺があって、お産を安泰にするご利益があった。「三年坂」は「産寧坂」だろう、とも言われている。
 ほかに「二年坂」「五条坂」「茶わん坂」などがある。

清水寺仁王門121010

 「清水坂」を登りきったところで、清水寺の「仁王門」が迎えてくれた。


【松原橋付近の鴨川】

松原橋から眺める鴨川121010

 京の宿は鴨川に面して、十階のレストランからは高台寺ほか東山の寺院がよく見える。
 弁慶と牛若丸が出会ったとされる「五条大橋」西詰(西側の袂)から少し北へ歩いた「松原橋」のすぐ近くだ。
 松原橋を渡ると六道珍皇寺まで五分とかからない。
 上の写真が松原橋上から撮った鴨川。下の写真が松原橋だ。


松原橋121008

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 次回記事は「鳥辺野」(とりべの)を予定していますが、この記事の密度で毎日は疲れます。
 明日は「San Poの会」もあるので、わが家の庭の写真などを予約投稿で掲載し、「鳥辺野」は28日日曜日の夕刻にさせていただきます。

戻橋(もどりばし)

2012.10.25(18:00)

現代の式神たち121011

 前回の続きということで、川の話から始める。
 京都中心部の市街の東側を縦に流れるのが「鴨川」であり、西側には「天神川」が流れてやがて桂川と合流する。真ん中を縦に流れているのが「堀川」だ。
 この日、午前中に東寺から西本願寺へと回ったので「堀川」を遡るのが自然で合理的だと思ったのだった。
 その「堀川」に架かっている有名な橋といえば、ぼくの頭の中では「一條戻橋」ということになる。
 夢枕貘さんの小説『陰陽師』では、安倍晴明は十二神将を「式神」(陰陽師が使役する鬼神のこと)として使役し家の中に置いていたが、晴明の妻がその顔を怖がったので、彼は十二神将を一条戻橋の下に置き、必要なときに召喚していたという。
 現在の一条戻り橋の下に蠢いて見える影…、あれは式神の姿なのだろうか。
 中学生たちがこの橋の下にたむろしたがるほどに「一条戻橋」は有名になってしまった。
 写真下が現在の戻橋の写真だ。


現代の戻橋121011

 安倍晴明の式神を別としても、いろいろと伝承の多い橋だ。
【僧・浄蔵の伝説】
 平安時代中期の天台宗の僧で、文章博士三善清行の息子、浄蔵の話はおもしろい。浄蔵は加持祈祷の才の持ち主として知られた僧だった。
 彼は父の危篤を聞きつけ、急ぎ京へと帰って来たが、一条堀川の橋の上で葬列と出くわした。「どなたがなくなったのですか」と尋ねると、なんと自分の父親の葬列ではないか。浄蔵は「間に合わなかったか」と驚いたが、一心不乱に祈祷を行って父を蘇らせた。死人が甦ってこの世へ戻る橋ということが、すなわち「戻り橋」の名の由来だという。
【渡辺綱の伝説】
 ほかにも『平家物語』の渡辺綱がこの橋の上で鬼女と出会い、鬼の腕を切り落とした話などがある。鬼は愛宕山に逃げ帰ったが腕を綱に切り落とされたままだ。鬼は結局綱の乳母に化けて「腕を見せてほしい」と綱に頼み、腕を取り返した、という。


戻橋より堀川下流を臨む121011

 さらりと書いたが、この世とあの世、こちら側とあちら側の「境界」にあるのが「戻橋」というのが、平安京の人々のとらえ方だったのだ。そうした境界は「六道の辻」(次回記事にて紹介)などほかにもあった。
 あちら側へ行ったらもう帰ることはかなわない。
 そのような境目を自由に往き来するとしたら、それはふつうの人間ではないのである。

 上の写真は戻橋から堀川の下流を見て撮っている。


晴明神社入り口121011

 この「戻り橋」の近くに安倍晴明を祀った晴明神社がある。夢枕貘さんの『陰陽師』が映画化されて一気に人気となったらしい。(→ 陰陽師 生成り姫/夢枕獏


晴明神社学生たちのお参り121011

 中高年齢者のお参りは、ぼくのような変わり者を除けば数少ない。圧倒的に多いのは中高校生ほか若者たちだ。


門扉の桔梗印121011

 星形のようなマークがあるが、一般には「五芒星」(Pentacle)として知られている。本来は魔除けの印だったのだろうが、キリスト教社会では上下を逆向きにしたマークが悪魔の象徴とされて使われることが多いようだ。※


桔梗印と桔梗121011

 晴明神社ではこれを桔梗印と呼んでいる。境内には桔梗が植えられている。
 パンフレットによると「陰陽道」に用いられる祈祷呪符のひとつ。天地五行(火・木・土・金・水)を象徴した宇宙万物の除災清浄を表すそうだ。 


戻橋の再現と式神121011

 境内に「戻り橋」が再現されている。この橋の欄干親柱は大正十一年から平成七年まで実際に使われていたものだそうである。
 式神の像が愉快だ。


お土産の式神121011

 ぼくはかみさんか次女が喜ぶだろうと、「式神」の携帯ストラップを土産に買った。
 厄除・開運のお守りになる、という。

 注:五芒星が魔除けや悪魔の象徴として使われていた話題は、最近角川文庫で人気の『バチカン奇跡調査官』を読むと詳しい。独り寝の旅の夜、ぼくはシリーズ作品を三冊も読んでしまった。いずれ「ディックの本棚」に感想を掲載の予定。


楽美術館121011

 さて、この日は「樂美術館」が近いので寄ってから帰ることにした。樂家第十四代吉左衞門・覚入さんが1978年に建てた。楽茶碗ほか茶道工芸美術品の美術館だ。長次郎の茶碗ほかの名品から樂家収蔵の名品が並ぶ。吉左衛門さんの作品も展示されている。じつを言うと、あまり現代的で斬新なものはぼくは好まないのだけれど…。

2012年10月

  1. 六波羅 〜 付録にバラ園の写真があります(10/31)
  2. わが家のバラ(10/30)
  3. 曼荼羅(10/29)
  4. 鳥辺野(10/28)
  5. Jude The Obscure(10/27)
  6. 六道の辻(10/26)
  7. 戻橋(もどりばし)(10/25)
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