
私の散策というと、以前は朝早くと決まっていましたが、午後二時とか三時を回ってから、暑いからといってずっと家に閉じこもっていてはリハビリにならないと、急に元気を出して夕刻の散歩に出かける、ということが多い8月でした。
今回は8月19日の本牧山頂公園で撮った写真集です。いつもなら自動車で行くところをずっと歩きましたので、疲れました(笑)

今年は撮り損ねたと思っていたヤブランの花がたくさん咲いていました。

午後の散策なので、三時を過ぎないと咲かないと言われているオシロイバナも、生きのよいところを撮れました。
白い花はあまり見ないように思います。
日が傾き始め、林の中の薄暗がりでの撮影でした。


みなさんが青空の下の立派なヒマワリをブログに載せていらっしゃるのに、どうも申し訳ありません。

この上下の景色、これが「本牧山頂公園」の眺めなのです。


駐車場の奥に以前見つけた天徳寺というお寺の花の写真です。
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午前中、リビングのかみさんのパソコンのみを無線LAN 接続に替える作業をしました。Apple の修理センターもお手上げだったかみさんのPCの異常現象に、電源ユニットが故障するというのがありまして、ごく稀に LANケーブルからの異常信号が引き金になることがあるのだそうで…、念のため。
当方のメリットととしては、かみさんのPCの i-Tunes のミュージック・ファイルを、テレビ台の疑似サラウンド・システムに接続した Air Mac Express という装置に無線で飛ばし、そのスピーカーで再生できるのです。
とてもよい音で再生できるようになりました。8千円弱でしたが、LANケーブルのごたごたがなくなり、PCに入れたわが家のCDをパソコンで選びながらよい音質で聴くことができます。これは正解だったなあ、とぼくもかみさんも満足しています。
【スベリヒユ】

スべリヒユは昨年わが家の南向き玄関前のレンガ敷きで咲いているのを見つけました。
次の日にカメラを持ちだして撮ろうとすると閉じています。その次の日も、その次の日も。いったいつ開くのだろうとずいぶん迷いました。朝、陽が強く射しはじめてから咲いて、どうも2、3時間程度で閉じてしまうらしい、と気がついて、ようやく撮影に成功しました。
そのレンガ敷きを別の石敷きに変えるなど、庭の全体構造をすっかり変えてしまったのが、今年の1〜3月。
あのスベリヒユは今年はもう咲かないかも知れない、と思っていました。
まさか上の写真のように大きくなるとは知らなかったので、水遣りして気がつくまでスベリヒユとして気がつかなかったのでした。

なにしろ小さな花で、上から撮っていても腰と背中が痛くなります。
しかも Olympus のカメラが苦手な黄色で、色飛びさせてしまいやすく、焦点も合わせにくいのでした。

葉は分厚く、夏の暑さに強い。野菜として食べられるそうです。
フランスでは食用に改良されている、と朝日新聞社の『花おりおり』に記事がありました。

庭のフェンスの外、隣の駐車場と道路の境のところ、前からこれはなんだろう? と思っていましたが、今朝、これもスベリヒユだったことに気がつきました。
これはとんでもない大株です。コンクリートの隙間でろくに土もないはずなのに、強いですね。
【コニシキソウ】

スベリヒユと似た感じで、庭で各所に葉を這わせているもっと小さな植物。
もしかするとコニシキソウかも知れないと思いつつ、確認しないで放置していましたが、草むしりのときなど「ええい、面倒だ!」とばかりにむしり取ってしまうことが多くなり、そろそろしっかり確認しておこうと、写真に撮って図鑑で調べました。
やはりコニシキソウのようです。

「雑草や野草の暮らしがわかる本」の岩槻秀明さんによりますと、上下のマクロ写真で白い毛の生えた丸い玉のようなものは、花が咲き進んできたときに花序の外側に垂れ下がる子房だそうです。
その脇に見えているのが花。といっても白いエプロンがくっついているように見えるのは花弁ではなく付属体だそうです。付属体の意味がよくわかりませんけど…(笑)
その四枚の白いエプロンに囲まれた黄色の部分が腺体。ここから蜜を出して蟻などを呼ぶのだそうです。
こういう妙ちくりんな構造の花序を持つ植物は、ご存じトウダイグサ科の特徴です。

朝日新聞社の『花おりおり』には雌雄異花とありましたが、膨らんでいない子房が見えるのが雌花だとしても、雄しべを持った雄花というのがどれなのか、エプロンの付いたのがそうなのかも知れませんが、そうすると雄しべはどうなっているのか…、トウダイグサの仲間は謎めいています。
タカトウダイの構造を分析した とんとん さんの記事を最近拝見しましたが、それにならえば、腺体のある構造物とは別に雄花があるのだと思われますが、なにしろコニシキソウは小さすぎて、なかなか鮮明には撮れませんでした。
なお、葉に斑紋があるのがコニシキソウだという区別の仕方があるようですが、写真のように斑紋が薄くて見えない葉もたくさんあるようですので、気をつけたほうがよさそうです。
さて、7月4日のウォーキングの最後の「根津神社」を紹介します。
日本武尊が1900年近く前に創祀したと伝える古社で、東京十社の一つに数えられているそうです。
ご祭神は須佐之男命・大山咋命・誉田別命。

西門すなわち社殿の囲い横に付けられた門からはいってしまいますと、すぐにこの大きな社殿が目に入ります。
社殿は宝永3年(1706年年)の創建で、宝永2年(1705年年)江戸幕府五代将軍・徳川綱吉が養嗣子六代将軍家宣のために屋敷地を献納して天下普請したもの。
社殿が華美で大きいことにびっくりします。古い神社を見慣れていますと、ふつうはまず拝殿があり、その奥少し高いところに本殿があって、その間が廊下に屋根を書けたようなもので繋がれていたりするのですが、根津神社の建て方は「権現造」と呼ばれます。

玉井哲雄さんの「図説・日本建築の歴史」にならって書きますと、本殿に対してやや規模の大きい拝殿を並べて建て、そのあいだを棟が直交する建物で繋ぐ形式です。つなぎの部分を石の間といい、京都北野天満宮が古代からこの形式だったとされています。ほかに有名なところでは日光・東照宮。だからこの形式を「権現造り」というわけです。
権現造りはとても華美で大袈裟な感じがします。

カメラマンとしては、華美は華美なりに、そのよいところを撮りたいですが、陽射しが強く、一枚目など、社殿のきらびやかな装飾をきれいに撮ろうとすると、屋根から上は白く飛んでしまいます。かといって、屋根をきちんと撮ろうとすると、社殿は真っ黒になって、何が何だかわかりません。
そこでHDR撮影というのを試して見ました。一回のシャッター押し操作で連続三枚、露出の異なる写真を撮ってカメラの中で合成します。手持ちですから、カメラが動いてしまったり手ブレが大きいとうまくいきません。また、自然の中での撮影はまず無理。建物だとカメラで合成しやすいようです。一枚目はそのようにして撮った写真ですが、さらに白飛びを抑える加工をしなければなりませんでした。


ぼくはどうもこの正面の「唐破風」というのがあまり好きではありません。装飾過大に走る建築様式の代名詞のような気がします。
ほかに気のつくところを言えば「卍紋」が目立ちますね。根津神社の神紋として使われているということのようです。

社殿本来の正門である「唐門」を出ると、「茅の輪」があり、その向こうに楼門が見えていました。
しまった、本来楼門の向こうから順に入ってくるのが正式なお参りだったか…、と気がつきました。

「茅の輪」の横の立て札を読みました。
「一度くぐり左へ回り、二度目は右へ回り、三度くぐって本殿にお入りください。心身の清浄と無病息災を祈る古い神事です」とあります。しまったぁ!と後悔。もうお参りしてお賽銭を上げてしまった。
形だけでもくぐっておこうかと、みなさんの真似をしました。

「楼門」の外側まで行きました。ここから入って、「茅の輪」をくぐり、ひとつ上の写真に見えている「唐門」をくぐり、それから社殿の前へ行くのが正式なやり方です。神社に裏口から入ってはいけません。

楼門の写真の右側に見えているのは神楽殿です。
神楽殿だけを撮ると、このような感じになります。
日光の東照宮へ行ったのは、ずっと昔の小学生の頃だと思いますが、記憶ではこちらよりもさらにきらびやかだったような気がしますがどうなのでしょうか。
今年は一月に伊勢神宮へもお参りしましたが、一口に神社といっても千差万別。建物も雰囲気も違いますね。
すでに断片的に一部を紹介済みですが、7月4日に下記のコースを散策しています。
駒込駅→六義園→駒込富士神社→吉祥寺→八百屋お七の墓(円乗寺)→ほうろく地蔵(大圓寺)→根津神社→根津駅
このコースは大名庭園、富士塚、八百屋お七ゆかりの史跡、有名な大神社を一度に楽しめるということで出かけましたが、六義園に匹敵する大物「根津神社」をまだ未紹介でした。
【これまでの記事】(クリックすると過去記事にジャンプします)
駒込・六義園
駒込・六義園(2)
駒込・六義園(最終回)
駒込富士神社
八百屋お七の墓など
ほうろく地蔵尊と高島秋帆の墓
実際には、以上のコースのうち六義園のみ別の日に出かけていて、7月4日に残りを歩きました。
放っておくと9月になってしまいそうなので、この機会に「根津神社」を2回に分けて記事にいたします。

コースの都合上、根津神社には裏門から入るかたちになってしまいました。
そうすると真っ先に目に入るのが「乙女稲荷神社」です。本日は本体の根津神社の前に、同神社境内にある外社「乙女稲荷神社」を紹介します。
根津神社の裏門から入っていくと、目に入ってくるのはこんな景色です。
左側の塀が根津神社本体の社殿の塀です。右側は堀になっていまして、堀を隔てた高いところに乙女稲荷神社が見えます。奉納された鳥居が立ち並ぶ様子や、堀を隔てて見上げる景色に風情があります。


御祭神は

撮影場所の辺りに鳥居があり、堀に掛けられた橋を渡って乙女稲荷神社にお参りできます。

階段を登りながら拝殿のほうを見ると、こんな感じになります。

乙女稲荷神社から、下の参道を見ています。
くぐってきた鳥居が見えます。
見えている塀は一枚目にも出てきました。根津神社の社殿を囲む塀で、右奥に門があるのが見えます。「西門」というらしいですが、言わば裏口です。

その西門から中を覗いています。
ぼくはここから入ってしまいましたが、あとから後悔しました。
その理由は、次回「根津神社」の記事にて報告します。

ボツにしてしまう前に、7月26日に舞岡公園で撮った写真を出しておきます。
トウダイグサグサ科のタカトウダイです。花に迫ったマクロ撮影は失敗写真でした。

アキカラマツの花(キンポウゲ科)。
以前はこういう写真は最初から無理なものとして諦めていました。挑戦して大正解。ある程度暗くても感度を上げられればシャッター速度を上げて撮ることができるようになりました。

さて、ダイコンソウが萎れかけたところではないか、と思うのですが、ダイコンソウには馴染みが薄く、よくわかりません。みなさんのご教示を仰ぎたく思います。

アキノタムラソウでしょうか。これも自宅近辺では馴染みがありません。

7月26日の撮影ですが、ノハラアザミでよいのでしょうか。アザミの仲間はよく知りません。

最後に、なんとなく夏休みらしい景色を。
8月4日第66回「San Poの会」のウォーキング記録の最終回です。
ここでちょっと地図を確認しておきましょう。
大きな地図で見る
Googleの地図は「A」が新井薬師、南の「中野ブロードウェイ」から「新井薬師」を通り、沼袋駅と新井薬師前駅の中巻辺りを通って、北の「哲学堂公園」までのコースでした。
沼袋・氷川神社を出た後は、青い線で表される妙正寺川沿いに歩きます。
哲学堂公園の少し北に蓮華寺があり、その東に野方配水塔があります。

どの付近で撮影したか定かではありませんが、左側に妙正寺川があったように記憶しています。

蓮華寺に着きました。

蓮華寺には、これから向かう哲学堂をつくった井上円了さんの墓があります。
井上円了氏は仏教系の哲学者で、東洋大学を創設された方です。
哲学堂公園を散策するとわかりますが、西欧や東洋のさまざまな哲学を自分なりに集大成した哲学観を持たれていた方で、じつに生真面目で真っ直ぐな学者だったように思いました。
しかし、世間に知られたのはなんと「妖怪博士」という名前でした。
井上円了さんは、いまだ迷信や妖怪の類を信じていた明治期の、とくに地方の人たちに対して、そういったものはじつは存在しないのだということを、科学的な根拠をもって明らかにし、多くの講演会を行って人々の迷信を打ち破ることに力を注いだのでした。
生じつに真面目に、妖怪は実在しないことを証明するために妖怪研究を行ったというのに、「お化け博士」「妖怪博士」などとおもしろおかしく呼ばれるのでは不本意でしょう。

さて、蓮華寺の横の道を通って「水の搭公園」へ向かいました。ここの配水塔は、Wikipedia では「野方配水塔」り名前で出てきます。1929年3月末に竣工し、配水塔としては1966年に使用を停止。跡地及び配水塔を東京都水道局が管理してきたが、現在は中野区の災害用給水槽となっている、そうです。
公園内でちょうど江古田町内会の方たちがお祭りの準備をしていました。
どんな様子かとのぞき込んだら、わざわざ冷たい麦茶を御馳走になりました。「あとからまた寄ってください」との誘いの言葉に適当な返事をしてお茶をご馳走になり申し訳なく思っていますが、この後かなりの大雨になりましたので、あれからどうされたのかと気になります。
見上げる角度が急すぎて、古い建物らしい雰囲気が台無しです。よい写真がないので、Wikipedia などでご覧いただけたら、と思います。

この後、最後の訪問地である哲学堂公園へ行きました。
ここで夕立に会い、入り口の妖怪門(哲理門)でしばらくは雨宿りする羽目になりました。
「哲学堂公園」のホームページによりますと、
----哲学堂公園は、明治37年に故・井上円了博士によって精神修養の場として創立された、哲学世界を視覚的に表現し、哲学や社会教育の場として整備された全国に例を見ない個性的な公園です。昭和50年に中野区立公園となってからも、古建築物の修復、整備を重ね、また中野区内でも有数の花の名所として親しまれる公園となっています----
ということなのですが、
あれ?
----哲学堂公園の地は、源頼朝の重臣である和田義盛の城址でありました----
というコメントがあります。
和田義盛の名前が出てくるとは思いませんでした。私の祖先が和田義盛に仕えていたとの話があるからです。
調べてみました。
あるホームページには「哲学堂のある場所は和田山と呼ばれ、言い伝えでは、衣笠城に居た和田義盛が各地に設けた陣屋の一つがあったという。また、子孫が当地で帰農したともいう」と書かれています。
まあ、私のほうは和田義盛の本拠地のほうが本家ですから、話題の一つとして憶えておきましょう。
哲学堂公園にはたくさんの建物があり、写真は「六賢台」という東洋の六賢人を祀った建物ですが、じつは写真はこれしかありません。雨が強くなったため、コンデジカメラを濡らしたくないのでしまいこんでしまったからです。
いつか晴れた日に、もう一度ゆっくりと散策してみたいところでした。
雨が上がって、新井薬師駅の踏切を渡り「新越泉」という銭湯へ向かいました。ここはビルの中の銭湯ですが、番台から地下へ降りて行くという変わった作りです。中の設備はまだ新しく、空調もきいており、設備の割にお客も少なく、なかなか快適な銭湯でした。
お風呂でさっぱりした後は新井薬師駅前のひもの屋で、ほぼ貸切状態でゆっくりと懇親会を行いました。

ピンク二本と白一本、計三本の芙蓉が庭にありました。
今年の初春の大改造で、二本を処分し、写真の芙蓉のみを残しました。

冬には強剪定をかけ、ほとんど根元から徹底的に伐ってしまいます。
それでも夏になるとこれほどに巨大化し、次から次へと花を咲かせます。わが家はよほど居心地がよいのでしょう。
このように巨大化する庭木は、一本あれば十分と思い切って処分したのでした。

あまりに大きくなるので、庭の一番奥に追いやっています。
庭側から写真を撮るなど不可能なので、隣の駐車場から撮影しています。




最後の白い芙蓉は、お向かいのOさん宅の芙蓉です。狭いところに押し込められ、向きも悪いため、わが家のように巨大化することはないようですが、それでもきれいな花を咲かせて楽しませくれます。
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昨日は午後から、護国寺〜雑司ヶ谷霊園〜雑司ヶ谷鬼子母神〜早稲田と歩いてきました。
マイペースでゆっくりと休み休みなのですが、帰宅後には九時前から眠ってしまいました。猛暑の威力は強烈なものがあります。