
7月23日の庭の花、かみさんの話では「ネメシア」だそうです。
園芸種の花一枚でごまかして申し訳ありません。暑いし、心臓は不安定だし、なぜか眼も痛むし、いろいろとありまして…。
本日は平塚のH病院で、初めてICUというところへ入ってみました。本心を言えば、携帯でいいから記念写真を撮りたかったのですが、まさかそういうわけにもいかず…(笑)。弟は案外と元気で、とくに傷みも感じていないらしい。いろいろチューブが繋がっていましたが…。面会制限時間10分間というのが、やはり重大な手術だったのだな、と。
義母は新横浜のYR病院でしたが、明日できれはちょっと見舞ってこよう、と思っております。
平塚のH病院へ行ったので、ぼくも夏休みの予定を決めてきました。7日~11日の予定としました。2回目なので1日短くてもかまわないらしいです。
その頃は弟はまだ夏休み中でして、いろいろと笑い話の種になりそうでイヤですが、休みを取ろうと決めたなら暑いうちにさっさと済ませて、9月になったらまた活発にあちらこちら出かけたい、と思っている次第です。
何かと多忙かつ疲れていまして、みなさんのところへうかがうのが滞っております。しばしご容赦お願い申し上げます。

昨年まで、わが家の庭の中でもジャングル化している奥のほうを生息地としていたオニユリですが、この付近、少しきれいにしたので目立つ位置になってきました。

野草化して増え、侵入してきているユリというと、わが家ではオニユリとシンテッポウユリです。

コオニユリという種類があって、ムカゴを付けないのでオニユリとの区別はしやすいです。




ほかに、ちょっと不思議に思ったのは花弁の付け根の付近の黒い突起です。
調べてみますと、黒い突起が低く土手のように二本並んで付いている部分があり、これがコオニユリでは白いらしいですが、その土手の隙間の溝から蜜を出している。長めの黒い突起は「蜜はこっちだよ」と蟻などに知らせる役目を果たしているようです。
なお、コオニユリの場合は写真のような長い突起物はないそうです。
クリックして下さい → 2009年7月撮影のオニユリの突起。
【オニユリの傍らに生えているギボウシ】

種類がわかりませんが、葉が斑入りのようです。植えたばかりで、今年はまだあまり大きくありません。
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きょうはかみさんの母親が膀胱癌の手術、ぼくの弟が心臓のバイパス手術をやりました。
自分の二回目の心臓のカテーテル手術について書いていますが、開胸するわけでなし、手術中とその後約8時間の痛みを我慢すれば、三日程度で退院できる。
ところがバイパス手術というのは、自分の腕などの血管を心臓の詰まった血管の両端へ繋いで血液のバイパスを確保する手術で、しかも血管一本だけでなく何本もやるらしい。そんなにひどくなるまでどうして放っておくのか理解に苦しみますが、本人は糖尿病もあり、何の薬を何mg のんでいるのかすらわかってなく、HbA1c の値すら憶えていない。
心臓のほうも、あまりにも健康に無関心なことから招いたもの、と言えるでしょう。
神経質すぎるのもよくありませんが、無関心過ぎて時限爆弾が爆発してから気がつく、というのは最悪です。みなさんも気をつけましょうね。
かみさんの母親のほうは、年齢と本人の心理状態が気がかりで、退院するまでのケアが大切ですが、四日程度という話ですし、これも内視鏡を使った手術のようですから、手術そのものはさほど難しいものではないようです。
あ、かみさんが帰ってきました。もしかしたら良性かもしれないとの情報。組織検査をしなければわかりませんが、とりあえず朗報です。
下の地図の「A」のところに「八百屋お七の墓」がある、というので捜しました。
本駒込の交差点の上のほうに「吉祥寺前」の交差点がありますが、そこをさらに北(上)のほうへ行ったところに「駒込・富士神社」があり、そこから歩いてきて「白山駅」付近を目指して下りてくるのです。
「下りてくる」という表現は適切です。文京区白山というのは坂の上下に広がった町。ただ、坂がたくさんあって、どれが「八百屋お七」の墓のある「円乗寺」なのか見つけるのが大変でした。
大きな地図で見る

上のような路地の奥が円城寺で、奥の本堂(たぶん)の左側に八百屋お七の墓がありました。

Wikipedia の記載によりますと、
----お七は天和2年12月28日(西暦1683年1月25日)の大火(天和の大火)で檀那寺(駒込の円乗寺、正仙寺とする説もある)に避難した際、そこの寺小姓生田庄之助(吉三もしくは吉三郎とも、または武士であり左兵衛とする説もあり)と恋仲となった。翌年、彼女は恋慕の余り、その寺小姓との再会を願って放火未遂を起した罪で捕らえられ、鈴ヶ森刑場で火刑に処された。遺体は、お七の実母が哀れに思い、故郷の長妙寺に埋葬したといわれ、過去帳にも簡単な記載があるという。----
では、なぜいま円城寺に墓があるのか。むずかしい質問はなさらないようにお願い申し上げます(笑)

最初に供養塔をたてたのが歌舞伎役者の初代岩井半四郎だったことがわかります。

ご覧のように花がたくさん供えられていまして、恋の物語にはみなさん甘くなるようです。
【吉祥寺】

ところで、本稿の最初に出てきた吉祥寺ですが、武蔵野市吉祥寺の地名は、明暦の大火で当寺の門前町の住民が住居を失い、五日市街道沿いの当地に移住し開墾したことに由来するもということで、本家はこちらのようです。
現在は曹洞宗の寺院ですが、都会のまっただ中とはいえ、境内は立派でした。


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ここ一週間ほど、心臓の調子が悪く、抜ける不整脈が頻発し、外出は控えざるを得ない状況です。
火曜日に診察がありますが、医師の薦めがあれば二回目の手術に挑戦しようかと考えております。
たまに面倒になって「休んでしまおうか」と思うときもある今日この頃ですが、自分の活動記録でもありますしね。思い出して書くことで、歴史や地理などの復習にもなっている。勘違いを教えていただけることもあるし。
それと、またいずれ一週間くらい休みを取らざるを得なくなりそうですし…。いまのうちにできるだけ…、とも思うのでした。

何年も前にかみさんが植えたスペアミントですが、毎夏伸びてきて花を咲かせます。
紅茶に入れてみたり、ときには入浴に使ってみたこともありました。

花の写真映りがよくて、飽きもせず毎年必ず撮ってきました。

【カヤツリグサの仲間】

アオチャガヤツリとかチャガヤツリとか、そんなところではないかな、と思っています。
庭の草むしりをしながら、何本か穂のきれいで立派なものを保護してきました(笑)。これを読んだかみさんに叱られそうですが…。
しかし、根が浅くすっと抜けるので、雑草としては比較的良性なやつだと思います。
ここへ写真も載せましたし、種子を散らされるとやっかいだから、そろそろ一掃しようかと思っていますけれど。
でも、結構きれいだ、と思われませんか?


これはいったい何と読むのでしょうか?
いわゆる「三つ巴紋」の一部を抜き出したようなマークであることから連想はできます。三つ巴紋は古くから神社の軒丸瓦に使用され、防火のまじないとして使用されています。つまりは水を表すのですが、そのうち一部だけをマークにしても水を表すのでしょうか。尾形光琳の「紅梅白梅図屏風」の真ん中の川などを見ていると、「二つ巴」だって「水」でよさそうだし、ひとつでもよさそうです。
ネットなどずいぶん調べましたか、こういうことを書いてあるところは見つかりませんでした。
【追記】ななごうさんから、「つ組」と「れ組」ではないかと
ご指摘がありました。
防火担当地域も「つ組」に駒込浅嘉町があります。
間違いは、こういうこともある、という例として
残しておきます。ブログの醍醐味でしょう

この写真を見ると、まあ、「水の」マークということでいいのだろう、とは思います。
どうも江戸時代のとび職の方の組、火消しなどと関係がありそうに思います。というのは、この付近は「八百屋お七」の墓などがありまして、防火にはとくに気を遣ってきた土地柄です。
(注)マークといろはの組名の勘違いは別にして、「八百屋お七」や防火の話題には間違いはありません。

場所は例の駒込・六義園から少し歩いたところ、駒込・富士神社です。Wikipedia によれば、祭神は
(この写真、階段上の葉の照り返しを防ぎきれず、少しご覧になりにくいと思います)

川柳があります。「駒込は一富士二鷹三茄子」。富士神社と、鷹匠屋敷、富士神社裏のナスが名物として知られていたのだそうです。文京区がきちんと説明書きを立ててくれていました。
富士塚はぼくが都内各地で見てきたものと比較すると、あまりそれらしくありません。昔は登り口があり、何合目とかあったのでしょうけれど、いまはそういうのは崩れて判別できなくなり、正面の階段を登れば神社の拝殿になります。

階段を登って横から。左側が拝殿、右側が本殿でしょうか。コンクリート造りになっていて、古い感じが薄れ、有名な割にはおもしろくありませんでした。

富士神社を出て少し歩くと、こんなオブジェが見つかりました。

講談社フェーマススクールズ。へぇ、こんなところにあったのか…。美術の総合通信教育スクールです。
もうはるか昔のこと、受講を真剣に考えたことがありますが、金もないし、きっと続けられないだろう、と諦めました。
雑誌に簡単な実技の鉛筆デッサンとその他美術のセンスを問う問題が並んでまして、それを送ったら添削して帰ってきました。実技はまあまあ、構図に関しては満点。あとはよく憶えていません。
そんな方向へ走っていたら、いまのような老後の安楽な生活はなかったかも知れませんが、もしかしたら…、おもしろおかしい人生が待っていた可能性も…なんてね。

植物学上はハマオモトでよいとのことです。暖地の浜辺の大型草本がなぜわが家にあるのでしょうか。
おそらく三男坊の祖父が故郷を後にしたとき、葉山付近の海岸からわが家の庭へ移植したのではないか、と想像しています。
改造後のわが家の庭が見えています。

万葉集に柿本人麻呂の歌があるそうです。夜間に芳香を強くするとありますが知りませんでした。
今晩確かめてみたいと思います。
上二枚と、下以降、レンズとカメラが違います。

ヒガンバナ科ハマオモト属。そう言われてみると、ヒガンバナと似たような咲き方をします。

天神島臨海自然教育園の方と話をしていたとき、「害虫被害は大丈夫ですか?」と訪ねられました。
この海岸公園は
浜木綿は害虫が付きやすいのだそうです
じつはわが家は毎年ここへ植えっぱなし。何のケアもしていません。

庭のドクダミやメヒシバがあまりにもひどいので、枕木を等間隔で敷き、そのあいだを砂利で埋め、ところどころにグラウンドカバーになるというヒメイワダレソウを植えていますが、過去1ヶ月のあいだにヒメイワダレソウがかなり広がっています。
上の写真では枕木の様子がわかるところを背景にしています。
背景が明るい中で白いハマユウを撮るのはなかなか気を遣います。

花が大きく広がっているので、被写界深度に気を遣います。かなり強い絞り加減で撮影し、なおかつアンシャープネスの力も借りています。
〈付録クイズ〉これは何でしょう?

回答はこの花を記事にしたときに書くことにします。
蟻が写っているので、大きさがわかりやすいでしょう。

観音崎公園に近い
「古事記」によりますと、

日本武尊は、わが身を犠牲にして海を鎮めてくれた弟橘媛命を偲び、村人の敬慕の念を謝して冠を下賜されました。村人たちはこの冠を石櫃におさめて土に埋め、その上に社殿を建立して日本武尊を祀りました。そして明治の終わり頃、近隣に祀られていた弟橘媛命を合祀したのが、現在の走水神社ということになっています。

弟橘姫命の像が刻まれています。

この奥の細い道を登り、一段と高いところに登ると、弟橘媛命の記念碑があるとのことでしたが、昨年は観音崎公園の海岸を延々と歩いた後で、心臓も不調になり始め、さらに登ることを諦めていました。
今回は6月14日、ちょうど体調がどんどんよくなり始めていたところでしたので、記念碑を確かめに登りました。

裏山から見下ろす走水神社の向こうに、浦賀水道が見えています。
弟橘姫命が入水したのは、もう少し右側の観音崎寄りのほうでしょうか。

上がその記念碑、下が文面です。


裏山から防衛大学校走水海上訓練場の辺りを見下ろして撮りました。

走水神社付近のオオトキワツユクサです。
私がこのような古事記の世界に興味を持ち、あれこれ勉強を始めたきっかけは mico さんのブログ「りんどうのつぶやき」のおかげです。ありがとうございました。
《参考》クリックして下さい → 2011年10月の走水神社
上をクリックしていただくと、広角での写真については、この9ヶ月でかなりきれいに撮せるようになってきたように思います。アマチュア・カメラマンとしては、これはとても喜ばしいことです。