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赤穂浪士の史跡をたずねる ~ 第59回San Poの会 ウォーキング記録

2012.02.02(18:30)

旧細川邸のシイ120128

 第59回「San Poの会」は、白金高輪駅に集合し、高台へ一気に登り、旧細川邸の大きなシイノキと忠列碑、泉岳寺の浅野内匠頭と四十七士の墓にお参り、義士記念館の見学というのがコースの前半でした。
 今晩はこの前半のウォーキングをまとめた記録記事を紹介します。今回は新規参加2名、計9名の参加がありました。

 高輪については、Wikipedia から引用しますと、「江戸時代は町外れで、高台には諸藩の下屋敷(別荘)が多く置かれたことから、明治時代以降に皇族や高官・財界人の邸宅が建ち並ぶ地となった。このため、今でも都心の高級住宅街の一つとして知られているが、邸宅のうち多くは既にホテルや公共施設に変わり失われてしまった」とあります。いかにもそのような独特の雰囲気の町です。
 坂の多い地形で、全体に南北に長い丘陵地の形をしていて、この丘の上へ登るため、参加メンバーはビル5階相当の高さまで一気に階段を登ることになりました。

 登ってすぐの場所に立っていたのが、上の旧細川家下屋敷のシイノキです。スダジイのようで、幹周り8.13m だそうです。


旧細川家下屋敷史跡120128

 なぜこのようなシイノキを見物しているかといいますと、今回のテーマは赤穂浪士関連の史跡を訪ねるということなのです。細川家の下屋敷では、大石良雄(おおいしよしかつ)ら計十七名が切腹を命ぜられたのでした。
 その下屋敷跡の一部が上の写真のように残されています。細川家は大藩の威力と識見を以て大石良雄らの義士を優遇したと伝えられているそうです。


泉岳寺正面120128

 上は赤穂浪士の墓所がある泉岳寺の正面です。
 泉岳寺は曹洞宗の寺で、浅野長矩(あさのながのり)と赤穂浪士が葬られていることで知られています。
 もともとは家康が今の警視庁のある付近に創建したのですが、これが寛永の大火で消失し、高輪へ移転。家光が毛利、浅野、朽木、丹羽、水谷の五大名に命じて復興させ、それ以来の浅野家との縁である、と泉岳寺のホームページには記載されています。


泉岳寺と大石良雄像120128

 境内の様子です。右に大石内蔵助良雄の像が見えます。
 毎年4月初旬と12月14日には義士祭が催されるそうです。


泉岳寺の門の裏側と松120128

 泉岳寺の山門を裏側から見ています。境内を矢印に沿っていくと、奥に四十七士の墓所、その手前左側に赤穂浪士ゆかりの品を所蔵している「赤穂義士記念館」があります。


首洗い井戸120128 赤穂義士記念館120128

 上左は吉良義央の首をこの井戸で洗って主君の墓前に供えたと伝えられる「首洗井戸」です。上右は境内にある赤穂義士記念館です。


赤穂義士の墓所の門120128

 この奥が四十七士の墓所です。雪が残っているのが見えます。


赤穂義士の墓所120128

 中央お堂のようになっているところが大石良雄の墓、その右奥やや高いところに浅野長矩の墓があります。


浅野長矩公墓所120128 大石良雄墓所120128

 上左浅野長矩の墓、上右大石良雄の墓。


赤穂義士の墓120128

 赤穂浪士の墓所はさほど広くはありません。狭い区画に墓石がひしめいていました。

 ぼくの記憶に強く刻み込まれているのは1964年NHKの大河ドラマ「赤穂浪士」です。大石内蔵助は長谷川一夫さんが演じていました。滝沢修さんが演じる吉良上野介のいやらしい虐めや、討ち入り実行までじっと耐え続ける大石内蔵助の姿、その他数々の挿話など、当時中学生だった自分が観ていてもたいへんおもしろく、よくできたドラマだったと記憶しています。
 

赤穂義士の墓所2120128

 ただ、その後のぼくは二度と忠臣蔵を見ることはありませんでした。主君の仇を討つために大勢の人間が死なねばならない、そういう考え方自体に納得がいかなかったのだ、と思います。
 当時のぼくは個人の自由を大切にする米国文化への憧れが強かったのでした。主君の仇を討つために個人を犠牲にする、という考え方を嫌ったのだと思います。
 (とはいえ、その後「米国人の標榜する自由とは単なる独善でしかない」ことに気がついて失望し、もう一度日本文化のよいところを再評価しようとして現在に至るのですが…)

 集団や組織を守るためには個人の犠牲もやむを得ない、という考え方は、何も日本だけのことではなくて、どんな社会にもあることのようです。日本ではとくに企業社会にその傾向が強いように感じます。ぼくのような集団や組織に馴染めないタイプの人間にとっては、「協調性の重視」だの「滅私奉公は当たり前」だの、「空気を読め」だの言われることは、ただただ厭で仕方なく、中学生の頃すでに「忠臣蔵」の思想の背後に、こうした考え方の影を感じ取っていたのだと思います。
 歴史を勉強することは大好きですが、たとえば「これが秀吉の人事管理の仕方だ」というように、戦国時代や江戸時代の部下管理の手法を現代企業社会に当てはめて論じているのを見たりすると、ぼくは嫌悪を覚えます。

2012年02月02日

  1. 赤穂浪士の史跡をたずねる ~ 第59回San Poの会 ウォーキング記録(02/02)