11月26日、第55回「San Poの会」は、JR中央線高尾(八王子からふたつ目)駅に集合しました。今回は合計8名の参加となりました。
コースは多摩森林科学園 → 陵南公園 → 多摩御陵 → 甲州街道銀杏並木 → 東照寺・長泉寺・龍泉寺・宗格院 → JR西八王子駅 とかなりのロング・ウォークとなりました。
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JR高尾駅前正面の交差点を渡りながら、横断歩道で甲州街道を撮っています。
ここのイチョウ並木はずっと続いていますが、木の大小、色づきの度合いなどは、この付近が一番きれいだったように思います。

多摩森林科学園は独立行政法人・森林総合研究所の研究施設です。広い林の木々にはきちんと名札が付けられていて、ここまで徹底している公園はなかなかありません。広大な裏山には、全国から多種類の桜が集められ、桜の名所となっているようです。
今回は裏山を登ったところでお弁当タイムとしました。

陵南公園は、東京オリンピックの自転車競技場跡地を利用した公園です。たぶん、天皇陵の南にあるのでこのような名前になった、と思われます。陵南公園を通って「多摩御陵」へ向かいます。

参道のケヤキは、やはり台風の影響でしょうか、梢のほうが傷んでいます。その幹の間から、ときおりカエデの紅葉がのぞく。光が射した感じがなかなかよいのでした。


「多摩御陵」には、大正天皇多摩稜(上右)と、昭和天皇武蔵野稜(下)、その南東に香淳皇后陵があります。大正天皇の皇后 貞明皇后陵は、ぼくは見逃しました。

上の写真は昭和天皇武蔵野稜で、上円下方墳となっています。カエデの紅葉が美しい、広々とした御陵でした。
明晩は、甲州街道や浅川の畔の散策の様子。途中のいくつかのお寺などを紹介します。
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ウォーキングのために軽いコンパクトデジカメで撮っていますが、紅葉には少し荷が重いようです。精細な解像 感が不足しています。

「こんにちは」と入っていくとお客さんが誰もいません。
広がる庭園の遠景には、え~?! とびっくり。少額の拝観料を払うと、「ご自由に庭に出ていただいて結構です」と言われてまたびっくり。

興福寺の門跡寺院だった大乗院は明治に廃絶し、室町時代の善阿弥が作庭した寺院だけが残ったのだそうです。
発掘調査を経て、整備は昨年に完了したそうです。
ホテルの近くにこんなところが残っていました。来てよかった。








奈良旅行の最後は「奈良市写真美術館」まで歩きました。
最初に美術館の喫茶店でサンドイッチの腹拵えです。入江泰吉さんも杉本健吉さんも、奈良・大和路の風物にこだわった方たち。写真家と画家、お二人の大作をじっくりと見てきました。
明日香村サイクリングの記事で書きましたが、小学館文庫に中西進さんが文章を書き、写真家の入江泰吉さんの写真を配した『万葉花さんぽ』という文庫があり、数年前にこの文庫を読んだ上での憧れが、今回の奈良旅行の原点でした。
ぼくとしては、これでやっと数年越しの片思いが実った、ということになります。
旅行記録を兼ねていますので、途中「お寺ばかりでもう飽きた」という方もいらっしゃった、と思います。最後までお付き合い、ありがとうございました。
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明日は「San Po の会」の記録記事で、甲州街道の銀杏並木、昭和天皇陵などをご覧いただく予定です。

さて、奈良旅行の記録記事は、今晩を含めてあと2回です。本日は元興寺(がんごうじ)。下のぼやきを読んでください。
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元興寺(がんごうじ)は、その前身は法興寺であり、元の地名によって「飛鳥寺」のことである、というからややこしい。「飛鳥寺」改め「元興寺」は明日香村で見てきた蘇我馬子が創建した寺なのだ、という。
あとで出てくるが、元興寺の瓦には、日本最初の寺の建立のために百済が派遣した瓦博士の造った「日本最初の瓦」というのが使われている。つまりは、少なくとも部材は古いお寺なのだ。
平城遷都によって飛鳥寺(法興寺)を元興寺に改め、奈良町へ移築したということらしい。
では明日香村の飛鳥寺は何なのだ?
しかたなく、もう一度「飛鳥寺」のパンフレットを確かめよう。
飛鳥寺のパンフレットには、飛鳥寺は蘇我馬子が造った最古の寺だと書いてあり、別名法興寺、元興寺ともいう、と書いてある。ああ、もうややこしい。
明日香村の飛鳥寺は一度焼失して江戸時代には仮堂しかなかった。
一方、元興寺も平家の焼き討ちに遭うなど何度も消失していて、その後もかなりややこしい経緯を経て現在に至っている。そうはいっても、元興寺にとっては奈良町の存在が大きかったのか、かつてよりは小さくなってしまったとはいえ、いまでは立派に再建されて、極楽堂、禅室など国宝も揃っていて、世界文化遺産に指定されているのは、この奈良町の元興寺のほうだ。
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という、元興寺の様子をご紹介します。上と下の写真は、元興寺極楽堂です。


奈良町の中にあるというのに、境内は案外と広く、静かで、美しいお寺です。


百済が派遣した博士が造った「日本最初の瓦」というのは、上や下の写真で見れば「ああ、このことか」とわかります。そこだけ艶や色が違って見えます。


境内にはたくさんの石仏や石塔があり、これがなかなかよい景色となっています。
西大寺という字が見えますが、元興寺は一時堂宇ごとに分裂して、西大寺の末寺なったり、東大寺の末寺になったり、ややこしくて説明しきれません。



上のヒガンバナは、奈良旅行の記録記事の最初に一度ご覧に入れました。
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奈良旅行の記録記事は、いよいよ次回(明晩)が最終回となります。

本来のぼくのホームグラウンドである「根岸森林公園」について、いままで詳しく書いたことがありませんでした。
少しまとめてみました。
「根岸森林公園」の前身は横浜市中区根岸台にあった競馬場で、幕末に横浜の外国人居留地における娯楽施設として建設されたものです。
第二次世界大戦の激化に伴ない、横浜競馬の開催は1942年限りで休止されましたた。翌年には馬場は閉鎖され、旧帝国海軍に売却されてしまいました。
しかも、終戦の直後には、今度は進駐してきた米軍に接収されてしまいました。
わが家のある付近は谷沿いになっていたため、競馬場の北側一帯や本牧地区が接収されたにもかかわらず、無事に済んだのだろうと思われます。
馬場はゴルフ場や乗馬施設、駐車場などに転用されてしまいました。米国は長いあいだ接収解除には応じませんでした。
結局、馬場の跡地は根岸森林公園(横浜市所有)と、一部は「馬の博物館」およびその付属施設(日本中央競馬会所有)として整備されることになりました。
写真の廃墟は、アメリカ人建築家J・H・モーガンによって設計され、1930年に竣工した一等馬見所です。建物は1981年に接収解除されましたが、二等馬見所と下見所は1988年に老朽化のため解体されて残っていません。
競馬場の遺構として現存する一等馬見所は本格的な修復は施されておらず、事実上の放置状態です。現在もフェンスに囲われたままで、具体的な修復・保存の計画はありません。

トップの写真は、いつもならラクウショウの紅葉を入れるのですが、台風で梢のほうの葉を落とし、ボリューム感がありません。そこで少し方向を変えて、ラクウショウに特別出演してもらいました。

一等馬見所廃墟のほうへ行く途中、先般の台風で大枝が折れたオオシマザクラの紅葉が見られます。
とはいっても、風で落ちた葉が多く、こんな程度ですが…。

廃墟が見えてきました。手前はソメイヨシノです。

窮屈な構図ですが、正面から撮影するには米軍基地内に入らなければなりません。米軍関係者でなければ、当然のことながら入れてくれません。
明暗のコントラストがありすぎて、手前の壁が暗くなってしまいます。

裏へ回って、廃墟の壁と空を入れて、なんとか両方のバランスをとりました。

壁だけを撮った写真です。

このとき、背後を振り返ると、このような景色が広がっています。
ランドマークタワーとクイーンズ・スクウェアのビルが案外と近く見えます。

廃墟の向こう側まで行って、なんとか全体を入れました。

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昨日は「San Po の会」がありまして、今回は人数が多く8人となりました。JR高尾駅から、多摩森林科学園の山で昼食、昭和・大正両天皇陵を見て、甲州街道を歩き、西八王子までいくつかの寺をめぐりつつ歩くという、かなり長いコースとなりました。甲州街道の銀杏並木がきれいでした。
疲れました。夜就寝直前に心房細動が出てきました。あれだけ歩いてそれまで大丈夫だった、というのは、たぶん調子は上向きなのかもれません。本日は家でのんびりとする予定です。

前回の記事で、木格子の目立つ街並みを紹介してきました。
「ならまち格子の家」は、この奈良町の中のモデル・ハウスのようにして、公開されています。入場料金は無料です。
奈良町は「元興寺」(がんごうじ)を中心に成立した門前町として、江戸時代から明治にかけて栄えたそうです。町家は町人の住まい、商いの場として継承され、伝統的な街並みが形成されました。住人不在となったり売りに出されたりする中で、地域の資産として保存に努力している様子です。

たぶんぼくが朝一番の客。初めは勝手に見てまわっていましたが、いろいろと質問するとていねいに教えてくださいます。
手前から、「みせの間」「中の間」「奥の間」と並んでいます。

「みせの間」に座って、明るい表を格子越しにのぞいています。

「みせの間」の様子を明るく撮りました。

中庭があり、渡り廊下を経て、離れへ行けます。

「離れ」から振り返って撮影しています。

「中の間」に「箱階段」を見つけました。階段の下が箪笥になっていて、いろいろと収納が可能です。ここから実際に二階へ昇れます。

二階から、吹き抜けの土間(台所)を見下ろしています。

二階の部屋の様子です。窓に近い部分は天井が低く、ぼくが立っている位置は十分な高さがあります。

「ならまち格子の家」の方がわざわざ表まで出てこられて、隣の家(個人宅)の「縁台」について説明してくださいました。上の写真は、「折りたたみ式縁台」がわかるように、少し明るめに撮りました。
脚部を前へ引きだし、パタンと倒すと縁台になって座ることができように作られています。ここで将棋をやったり、お茶を飲んだり、昔からそんなふうに使われたのでしょう。
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本日は「San Po の会」に参加していますので、これは予約投稿です。
みなさんのところへは明日おうかがいいたします。

10月6日、いよいよ横浜へ帰る当日の午前中、ホテルに近い「奈良町」界隈を歩いてみるつもりで、チェックアウトだけして荷物は預け、8時半頃ホテルを出ました。
奈良町付近には、写真のような木格子の外壁が見える家々が並んでいます。これは「奈良町格子」と言われているもののようです。
軒下に何か妙なものがぶらさがっています。

拡大すると、こんなようなものでして、猿を模って人形にした「身代わり申(さる)」です。

ほくが当ブログで何回か説明してきた「道教」が、日本へ入って変形していった一例です。
奈良町には青面金剛立像(なぜ、青面金剛立像なのかさっぱりわかりませんが)を祀る庚申堂があり、ここの「身代わり申(猿)」は人間の災難や病気、不幸を代わりに引き受けてくれることになっているのです。なぜ「猿」かといえば、それは道教が「猿田彦」信仰と結びついたからで、その経緯はとても理屈で納得できるようなものではありませんから、今回は省略します。
興味のある方は下記をご参照ください。
クリックしてください → 道教の世界から日本文化への浸透

庚申堂の写真です。朝早すぎて閉まっています。
おおよそ八割くらいの家の軒先に、この「身代わり申」がぶらさがっていました。


蚊帳とふきんを製造販売しているお店を見つけました。奈良町の名物です。こちらでふきんを土産に買いました。

「朝早くからやっているんですねぇ」「家と工場が隣り合わせで昔からずっとここでやっていますから…」とお婆さんが答えます。母屋のほうはこちらも奈良町格子でした。

外へ出ても、このような街並みばかりです。

このあと「元興寺」へ行く前に「ならまち格子の家」へ入ってみることにしました。(次回記事)
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最近読んだ本 : 雑誌 Newton12月号・特集「光速C」
↑ クリックすると感想記事にジャンプします。
・9月23日、CERNなどの国際研究チームが、「加速器で加速したニュートリノの速度が光速を0.0025%上回ったことを観測した」と発表した件について、詳しい解説が出ています。
本日は、国立新美術館の「モダン・アート、アメリカン」展を見てきました。ジョージア・オキーフ、エドワード・ホッパーなど、アメリカらしさ一杯! の展示でした。
明日は「San Po の会」があります。

例年だと、この時季は根岸森林公園のイチョウなどの黄葉の記事一色となるのですが、11月21日現在、イチョウは少し黄色くなりはじめただけで、しかも台風で約三割ていどの葉を落としてしまったため、ボリュームが足りません。梢のほうほどそれはひどくて、潮風のせいで痛み、葉の質が悪く周辺が褐色化しています。
イチョウはまだ潮風に強いようですが、ケヤキは七割、カツラ、コナラ、ミズナラなどは五割以上の葉をすでに枯らして落としてしまい、紅葉・黄葉を楽しむのはとても無理なようです。
そんな状態なので、近所(いずれも徒歩一分以内)をまわってピックアップしてきた写真をいくつか紹介できる程度で、少し寂しい秋を迎えています。
【叔母の家のナンテン】

↑ 11月7日撮影。

↑ 11月21日撮影。
【アオギリの黄葉】(11月21日撮影 )

【アシタバの実】(11月21日撮影 )

若葉から、花、そして実まで継続観察できたのは今年が初めてでした。
クリックしてください → アシタバの花
【トウネズミモチの実】(11月21日 撮影)
