
法隆寺の西院伽藍から出て、東大門を抜けて東へ、夢殿のある東院伽藍へ向かいます。

通りはたいへん広く、秋の気配が美しい。

ずっと奥に夢殿の屋根が見えています。

両側に並ぶ建物は、それも法隆寺の塔頭の一部のようです。覗き込むと建物も庭も立派です。

門の屋根瓦さえ見映えがします。

夢殿へ到着しました。
定説によりますと、聖徳太子が住まわれていた宮は斑鳩宮(いかるがのみや)といい、この夢殿の辺りにあったのだそうです。
それで、西院伽藍の辺りに斑鳩寺(いかるがでら)を創建されたのですが、それは670年に焼けてしまい、現在の法隆寺は再建された(672年~689年頃)、ということのようです。
「法隆寺は、日本仏教興隆の祖である聖徳太子が創建した寺院である」と簡単にいってしまうと、西院伽藍は聖徳太子在世時のものではないので、厳密には矛盾してしまいます。
しっかりとわかっていないところも多いようです。
「夢殿」は聖徳太子を供養するための殿堂、とパンフレットには書かれています。八角円堂の中央の厨子には救世観音像が安置されてますが、聖徳太子はそもそも観音の化身である、との位置づけのようです。
救世観音像ですが、もう一度見てもぼくには区別がつきません。

夢殿の屋根飾りをもう一枚。どういう意味があるのか、ぼくにはわかりません。
(川越で教わったところでは、尖ったものが屋根にあるのは「鳥避け」という説があるようですが…)

夢殿を出たあたりのところで撮りました。何を撮ったのかわかりません。
なんとなく、きれいだったので…。

おや、なんと、もうそこに「中宮寺」(ちゅうぐうじ)の入り口が見えています。
--------------------------
本日は午前中はおとなしくしていて、午後には健康のためスポーツクラブで筋肉をほぐそうと思い、朝のうちはみなさんのブログをまわろうとPCの前にいたところ、窓の外が明るくなって陽が射し始め、予定は急遽すべてひっくり返りました。
カメラを持って、日大生物自然科学部藤沢キャンパスのバラ園へ行ってきました。
秋バラですから、春のように大きく数多くは咲きそろいませんけれど、ピークの時期を二、三日過ぎたところくらいでしょうか。以前のように、大きく派手な花バラばかりを追いかけるのはやめて、年代の古い小型のバラなど、注目するところが少し変わってきました。新しく品種を憶えていくのもなかなか楽しいものです。

10月17日の本牧山頂公園です。
実を集めたつもりでしたが、キヅタはよく見ると、これはつぼみでしょうか。実ならまん丸くなりますし、真ん中が確か黒っぽくなる。早すぎましたか、これから花盛りでしょう。

萩も実がなるのですねぇ。当たり前なのでしょうが、落ち着いて観察したのは初めてです。

これは何の実だろうかと、蔦をつたって調べました。
下の花が見つかりましたから、これがアレチウリの実でしょうか。


アレチウリの実と少し似ていますが、これはたぶんカナムグラの実。

クズの実です。とんとん さんのブログ「妖精からの贈り物」で教えていただいて、これで自分でも確認できました。
アレチウリだの、カナムグラだの、クズだの、こんなのを捜していると、あちらこちら傷だらけになります。
でも、これだけつる草の実を出して並べると、野草・雑草のブログとしても充実してきたような気がします(笑)

これはたぶんオオニシキソウの実でしょうかね。
------------------------------
昨日は10月2回目の「San Po の会」がありました。10月、11月は気候がよいので、月2回にしています。
小田急線向ヶ丘遊園から「川崎市立日本民家園」→「枡形山」→「生田バラ園」とまわって、宿河原駅まで。距離は大したことはないのですが、思っていたよりもアップダウンがきつかったです。
いずれまた、こちらで記事にしたいと思います。いまのところ11月5日の予定です。11月4日まで書き溜めてあるので(笑)

奈良の中心部からは斑鳩はやや遠いし、まだ10時過ぎだしと、ちょっと油断をしていました。
ふと見れば、金堂前には小学生の一団がやってきています。

大講堂の前には女学生の一団が…。
これってレンズのせいかなあ。唐招提寺も、薬師寺も、屋根の線は真っ直ぐでした。
ほんとうに真ん中が少し下がっているのか、レンズの歪みのせいか、それがわかりません。(この日はちょっと撮影が粗雑で、どちらかほんとうにわかりません)

彼女たちは何を待っているかというと、五重塔の拝観です。東西南北のどこの入り口から中を覗くかによって、見える粗造群の内容が変わります。東、南、西と見て、「さあ、北だ」と思ったときはこの長蛇の列でした。

金堂など拝観しつつ、長蛇の列が10人くらいになってからぼくはその後ろに並びました。ぼくの前は添乗員と先生です。
女学生たちの会話。
「なんだかよくわかんない」
「なんだか真ん中にでかいのが寝ているぅ」
添乗員も先生も何の指導もしません。仕方ないから後ろから
「それはお釈迦様が亡くなられるところを弟子たちみんなで見守っているのでしょう」と声をかけると、先生が…、「あ、そうか、やっと、わかったぁ」
帰ってこの話をすると、かみさんの女学校では、修学旅行はグループ分けして自由行動をさせ、各グループはあらかじめ下調べし、勉強をして、最後はレポートを出さなければならないから、そんなことはあり得なかった、そうです。
ぼくが思うのは、「せめて先生くらいは生徒を指導できる程度に勉強しておいてほしいな」ということですね

このような無理な広角の構図は控えているつもりでしたが、相応に迫力があり、左側の金堂の倒れかかる歪みを、左側の屋根の存在の重みで少し打ち消しているような気がして、この写真はそれを理由に「可」としました。
そんな勝手な理由が通るのかどうか、ちょっとよくわかりませんが、みなさんのご反応をうかがいたい、と思います。
五重塔拝観待ちの金堂ですが、金銅の釈迦三尊像が有名です。真ん中が釈迦如来、脇侍は、向かって右が薬王菩薩、左が薬上菩薩です。以前写真で見たときは、なんだかちょっと稚拙な感じの様式的表現だな、と思ったものですが、この三尊の表情は、一度見たら忘れられない印象を残します。止利仏師の作と言われ、北魏様式だそうです。
奈良の有名な仏像というのは、写真集などでよく語られており、人によって受け止め方もいろいろあるでしょう。表現はときに妙に様式的なものもありますが、実際に見た印象はやはり顔の表情が強い印象を与えるように思います。
たてつづけにいろいろな仏像を見ていて、その写真は撮っていないわけですが、あとからパンフレットや画集などを見て、「ああ、あれか」と思い出すのは、さほど数多くあるはずはないのですが、この旅行では、それがずいぶんと多いのでした。

上の金堂の写真、屋根を支える柱の飾りに注目してください。よく見れば、五重塔も同じです。

上は2倍のテレコンバータを付けて、事実上120mmの望遠したレンズで、五重塔の屋根柱の飾りを撮影したものです。

中門から外へ出て、東室聖霊院の奥を回っていきます。右が細殿、左が食堂です。

大宝蔵院まで来ました。
その奥が百済観音堂。大宝蔵院には「玉虫厨子」などが安置され、百済観音堂には百済観音像があります。飛鳥時代、百済人の作と伝えられるこの像、9頭身くらいじゃないでしょうか。顔など痛みが目立ちますが、逆に長々と下がった仏衣の袖の様式的表現が特異で、「ああ、あれか」と思われる方も多いのではないか、と思います。
----------------------------------
さて、今晩は例の「San Po の会」へ出かけておりまして、この記事は予約投稿となっています。
帰りの時刻によっては、今晩はみなさんのところへお伺いできないかも知れません。
2日夕刻、近鉄駅ビルの観光案内所で確かめますと、法隆寺へいくならばJR奈良からJRに乗るべきだと教えられました。宿泊しているホテルから近鉄奈良駅まで10分、JRまでなら16、7分かかります。
さて、この日真夜中に目を覚ましたら、足腰が痛いのなんの! 朝は真っ先にハムストリングスを延ばすストレッチから始めたのでした。
JR奈良駅へのちょうど中間くらいで腹具合が悪くなりまして、もうつらいのなんの…。奈良への旅行前に急に歯茎が痛くなって、旅行中に膿を抑える抗生物質をもらっていたのが、どうも胃腸によくないようです。
それでJR奈良駅でトイレ、法隆寺駅でトイレ。バスをゆっくり20分待って、法隆寺に到着したらもう一回トイレのもつもりが、「え? 嘘~、なあに、このすごく長い参道!」
立派な松並木の長い参道がありますが、一枚目は下の写真を出したいので省略です。

というわけで参道を抜けてやっと着いた法隆寺南大門の正面です。
この南大門の横の建物の門には、大きく「聖徳宗宗務所」の札がかけられ、法隆寺は「聖徳宗」(しょうとくしゅう)の総本山であることがわかります。
Wikipedia によれば、聖徳宗は小本山に法起寺・法輪寺、門跡寺院の中宮寺など末寺は、29ヵ寺。
昭和25年に、法相宗からの独立。聖徳太子を宗祖とする。所依の経典は、聖徳太子が撰したとされる「三経義疏」だ、そうです。(腹をこわしていようがいまいが、法隆寺の後は中宮寺、法輪寺、法起寺と歩くつもりでいます)

ちょっと右を見ただけでこうです。やたらと広い。

門を入って左がこれ。何をしているって、まずトイレを捜して落ち着きたい。

右に「東室 聖霊院」(ひがしむろ しょうりょういん)、左に「西室 三経院」と、そっくりの建物が…。(後で調べたら、どちらも当初は僧房でした。東室 聖霊院は、後に解像されて太子尊像の安置場所となっています)

ちょっとうろうろして西へ行ったのが正解でした。何を書いているのだか…。
でも、旅行記ですから、そのときの気分とか、書き残しておかないといけないな、という気持ちがあります。
配置図で確認すると、中門を入った西院伽藍の中に金堂、講堂、五重塔などの主要建物があり、それらは中門に連なる回廊で囲まれています。その東に「東室 聖霊院」、西に「西室 三経院」があり、ぼくはまだ中門の中にすら入っていないのでした。

ほっとして(笑)、西室三経院の前をもどってくると、五重塔がちらっとのぞいています。
【法隆寺・金堂】

いよいよ中門から中へ入ります。
ああ、ここはすばらしいです。ごちゃごちゃと講釈する前に、この雰囲気を楽しみたいと思います。
【法隆寺・大講堂】

【法隆寺・五重塔】

なお「西院伽藍」とわざわざ言っているのは、少し離れた場所に「夢殿」を中心にした「東院伽藍」が配置されているからです。
--------------------------------------
この日、天候がよく、明るいときは Olympus のカメラはたいへんよく写るので油断しました。腹具合の悪かったこともありますが、どうも適当に撮っていて、コントラストに対する配慮だとか、構図だとか、いい加減なため、編集段階で大幅なトリミングをしたり、歪みを直せなかったり、ずいぶん苦労しました。

わが家から見えるすぐ近所の崖です。アシタバが満開です。

セリ科だそうですが、付近にセリ科の花がほとんどないので、大きいし、とても目立ちます。

撮影中、うまいぐあいにアゲハが…。

花は近づいて観察すると、なかなかのものです。

---------------------------------
当ブログは、根岸森林公園とその付近の四季の移り変わりを記録しつつ楽しむ、というコンセプトで始めました。当初は花に近づいたマクロ写真がおもしろくて、そうした写真が多かったのですが、いつしか、「場の雰囲気を撮し込む」ということを標榜しまして、とくに「奥行き感」を重視し、少しずつ写真が変わってきました。
ときには人物や人工の事物を撮し込むことも試すようになりました。
今回の奈良のシリーズでは、花と風景の融合もいろいろと試してみています。
間口を広くして、写真をいろいろなかたちで楽しめるよう、感性を磨いていきたい、と思っております。
昨日は東京都をこえて、埼玉県まで遠出しました。
三浦半島が気軽に出かけられる遊び場として手の内に入ってきましたので、もうちょっと足を伸ばせるところを作ろう、と思っています。
薬師寺金堂のお坊さんの話が長かったので、そのあとなんとなく急かされるような感じを抱きながら、薬師三尊像を拝みます。
薬師如来様にお祈りすることといえば、不安定な自分の心臓が落ち着いて、せめてこの旅のあいだだけでも、発作があまり起きないようお願いします、ということばかり。
ただ、薬師如来様の表情が、前の職場の本社の上司に似ていまして、なんとなく気になります。
つまらぬことを考えないように脇侍の日光・月光菩薩のほうへ目を移しますと、腰の辺りがきゅっとくびれていまして、体重を片側へかけてちょっと姿勢を崩していらっしゃる。これが妙になまめかしいのです。
一、二ヶ月前に「松岡美術館」で見てきたインドの神像・仏像群を思い出します。あちらの神仏はなかなか人間的な魅力に溢れていたのでした。

さて、慌てて白鳳伽藍を出てしまったので、どうも大講堂の国宝・聖観音菩薩像を拝観し損ねたような記がします。それとも慌てていたので、あまり印象に残っていないだけのことでしょうか。
伽藍の中の仏像群は基本的にどこのお寺でも撮影禁止ですから、カメラに記録を頼っているとわからなところが出てきます。
白鳳伽藍から玄奘三蔵伽藍へと行くには、門を出て、「西の京」駅の北側へ戻ることになります。あ~あ、もう疲れたなあ、と足を引きずります。
道々の白い萩がきれいです。横浜・鎌倉の萩は台風で全滅してしまい、このような美しさは味わっておりません。

見えてきたのは玄奘三蔵伽藍の礼門です。

これが玄奘塔です。礼門が右の方に見えています。周囲を回廊が取り巻き、礼門の反対側には平山郁夫さんの大きな絵が飾られた大唐西域壁画殿があります。
玄奘塔には玄奘三蔵の仏舎利があって、須弥壇にはお像が祀られているそうですが、記憶に残っておりません。
平山郁夫さんの大壁画は、それはもう大きさだけでも迫力です。(ぼくとしてはこの方の描き方があまり好きにはなれないのが残念ですが…)

玄奘三蔵伽藍を出て、白鳳伽藍を眺めます。西塔(右)のほうが東塔(左)より明らかに高いです。聞いたところでは200年も経てばどうしても重みで下がって同じ高さになるのだから、いまはこれでよいのだ、とか…。

これがどこで撮った萩なのか。駅へ向かう途中だと思うのですが…。
近鉄「西の京」駅から西大寺駅を経由して奈良駅まで帰りましたが、もう夕食の場所を探すのも面倒で、近鉄のビルの3階のサイゼリアへ入りました。朝七時半過ぎに歩き始め、夕刻6時頃に夕食です。
くたくたですが、きょう一日、心臓発作もなく無事でした。
明日はどうしようかなあ、などとガイドブックをめくりつつの夕食でした。
あまりのきらびやかな印象に度肝を抜かれた感じの薬師寺白鳳伽藍ですが、じつは内部をじっくりと歩き回ってベストの構図を捜すとか、そういうことをやっていなくて、よい写真がほとんど撮れていません。もったいないことなのですが、事情があります。
じつは、この薬師寺特有のハプニングがありまして、それが理由なのでした。
それについては少し後に書きます。
(なお、一昨日の最後は「印象写真」です。曇り空の夕刻、カメラが捉えた現実の色彩はこちらのようにもっと落ち着いております)
【北門から入ってぐるりと回り込む】

お寺はふつうは南門から入ります。本尊の仏様を安置している金堂が真っ先に目に入るような伽藍配置になっています。
ところが薬師寺では北門から入ります。
そもそもそこから、ぼくはずいぶんと面食らっていました。
観光客が近鉄の「西の京」駅からくるのがふつうなので、無理にでも「北門から入る」という拝観コースにしてしまったのだな、と気がついたのは、お寺を見慣れた今ごろになってからでした。
回り込みながら目に入るのは、上のような景色です。左側の塔が「東塔」、袖廊下の右端に「大講堂」の端っこが見えています。中央に屋根をのぞかせているのが「金堂」、金堂の右に塔の先端だけ見えているのが「西塔」です。
【大講堂】

建物に囲まれた内側へ入りました。
あらためて、講堂を眺めます。
講堂が金堂より大きいというのは、古代伽藍の通則だ、とパンフレットに書いてあります。南都仏教は教学を重んじ、講堂に大勢の学僧が参集して経典を講讃したためだそうです。
【古びた味わいの東塔】

五木寛之氏の『百寺巡礼』第一巻「奈良」を読んでいましたから、古びた「東塔」と、昭和56年に復興されたきらびやかな「西塔」をみくらべて、自分はどんな印象を抱くだろうか。それが気になりました。
「東塔」は工事囲いがしてあって、下のほうを入れて撮すと工事囲いが写るだけで興醒めです。だから下まですべてきれいに撮れた写真はありません。
後で金堂のお坊さんからうかがった話では、「東塔」は大修理に入るので、あと1ヶ月ほどで幌をかぶってしまい、当分のあいだ姿を見ることはできなくなります。

【復興再建された西塔】

「西塔」は、ははあ、やっぱりきらびやかです。これもいいじゃないか、と五木さんは思ったそうですが、ぼくも同じです。これはすごい! 当時のままの彩色というのは、とても美しい。
大講堂のところから、真ん中に金堂、左側に「東塔」、右側に「西塔」が並んだ写真をなんとかして撮れないものか、と四苦八苦していたとき、「金堂」から大声で呼ばれました。
「いまから本日最後の案内説明をします。どうぞお集まりください」と。
(上で苦労して撮っていた写真は、結局ボツにしました。どうにも不自然です。無理な広角の写真は、やはり撮らないほうが無難です)
【薬師三尊像を安置する金堂】

金堂へ入りますと、薬師如来が真ん中に、右左に日光・月光菩薩が立っています。合わせて薬師三尊と呼ばれているようですが、大きく、暗い艶を放ったうつくしい肌合いの仏様です。
その右側のスペースに椅子が並べられてまして、「どうぞ、どうぞ」と座らされて、お坊さんのお話を聞くことになりました。
大阪弁で、なんだかテレビでお笑い番組の司会をされているような、そんな感じのお坊さんなのです。
ここで聞かされた話は、じつはこれまでも少しずつ書いています。
要約します。
「奈良のお寺は日本に中国から渡来した仏教文化を広めるため、国家的な政策で建てられたもので、だから檀家がない。お墓がない。では何をするかというと、仏教のことを勉強し、研究するのが僧たちのお役目」で、国威発揚、鎮護国家を狙い、外国からの賓客や一般の人々を、ああっと驚かせるほど立派でなければならなかった、というわけです。
上のような奈良の仏教「南都六宗」の解説をしっかりとされた上で、「しかしお寺も古くなって傷んでくれば補修しなければいけません」という話になります。「だけど檀家がないのに、どうやってその費用を賄うのか?」。そこで高田好胤さんの話が出てきます。
この方は薬師寺第124世管主で、「写経勧進」といういままで誰も思いつかなかった方法で金堂、西塔など薬師寺の伽藍を復興させたのでした。
金堂を再建し、西塔を復興させようといっても、当時一人1000円でおよそ百万人から資金を集めたい。それにはみなさんには写経をしていただいて、そのお経は納経して薬師寺に永代残されることになる、というわけです。
「何をバカなことを」と各界から批判を浴びながら、高田好胤さんは全国を講演して回って「写経勧進」を推進したのだそうです。
現在は「東塔」の補修が必要だということですが、いま使われているのは特別製の和紙で作られ、下にモデルとして書かれたお経が見える。なぞるようにして写経して、そのまま円い筒に入れれば薬師寺に郵送される。この和紙のセットを2千円で買ってください、というわけです。どうも最高で一口1万円のコースまであるようです。なるほど、よく考えられています。
善し悪しの議論は別にして、ほれ、後ろを振り返れば、目の前にきらびやかな大講堂があり、美しい「西塔」が西日を浴びている。ああ、ここにきてよかった、と思われますでしょう? というわけです。
語りがお上手なので聞き入ってしまいましたが、気がつけば時刻はもう4時に近づいて、このあと、せっかくですからもっとよく薬師三尊を拝観してから、北にある玄奘三蔵伽藍へも行かなければなりません。
薬師寺の写真が少ないのは、じつはこのような事情があったのでした。
【正面の美を愛でたい大講堂】

「金堂」の写真を撮ろうとしていたとき呼ばれたので、「金堂」にはあまりよい写真がありません。
呼ばれる直前に、上は「金堂」前から撮った「大講堂」ですが、この写真からは紗真紗さんのおっしゃる「正面からの美」が感じられます。
本日の写真の最後ですから、少し派手めに演出しております。
もう少し晴れて陽が射していれば、「演出レタッチ」なしで西日に輝く「西塔」や「講堂」を撮れたことでしょう。