FC2ブログ

朝比奈切り通しを歩く

2011.07.07(10:22)

【前書き】

 昨年は4月から5月にかけて、金沢街道(鎌倉時代は「六浦道」)に沿って、宝戒寺、杉本寺、報国寺、浄妙寺と見ていきました。
 鎌倉時代の「六浦道」は朝比奈の切り通しを抜けて六浦荘金沢へと抜けています。六浦には瀬戸入江(平潟湾)の港があり、鎌倉と房総を結ぶ拠点であり、和田義盛の和田一族(三浦氏の支族)の領地でした。しかし、和田義盛は北条義時に追い詰められ、謀反を起こすよう仕向けられて、「和田合戦」の名で知られる戦いに敗れ、六浦荘を没収されました。
 わが家は三浦一族ないしその支族である和田一族に使えていたと伝えられているので、ぼくは金沢街道(六浦道)にこだわって、最後には称名寺と金沢文庫を記事にして、金沢北条氏を話題にし、ぼくのルーツ調べの記事に繋げていく予定でいたのです。
 ところが昨年は5月以降、亡父の葬儀の後始末や自分の退職後の手続きで多忙になり、浄妙寺からいきなり称名寺へと飛んでしまい、そのあいだをすっぽかしてしまいました。
 今年はその飛んでしまったところを埋めようと、6月9日、十二所神社から朝比奈の切り通しを歩いてみようと思いつき、ごく気軽に出発したのです。朝比奈切り通しは、鎌倉から六浦へと抜けるために、岩山を切り開いて通した道で、「鎌倉七口」と言われる中のひとつです。


大きな地図で見る

 この日のルートですが鎌倉霊園の下の黄色いのが車道で、その下に薄いグレーの道が横へ伸び、ふたつに分かれて204の番号の下で消えています。この辺りが朝比奈切り通しの最大の難所であり、消えた道が復活して、横浜横須賀道路の下を通り、23号線の番号の左側の辺りでふたたび車道へ接続しています。
 地図で見ればどうということはないのですが、かなりたいへんなハイキングになってしまいました。


【十二所神社】

十二所神社正面110609

 十二所神社(じゅうにそうじんじゃ)は、かつては熊野十二所権現社とも称された、といいます。
 十二所という地名よりも神社名のほうが先にあったらしく、古文書の記録を辿ると鎌倉時代の創建のようです。
 古くは、現在の光触寺境内にあったと伝えられるが、天保9年(1838年)に現在地に再建されたとのこと。
 鎌倉側から朝比奈の切り通しを目指すには、まずここにお参りをして…、それから昔の金沢道(かなざわみち)を辿るのがコースとなっているようです。

十二所神社境内110609

十二所神社の木彫り110619

十二所神社の崖の祭壇110609

 十二所神社の裏手の崖です。神社となんらかの関係があるのでしょうか。いずれにせよ、鎌倉を歩いていると、このような光景にはよく出会います。


【朝比奈切り通しまでの道】

鎌倉のユキノシタ110609

 付近の花などを眺めながら、小さな川に沿って山道を歩いて行きます。鬱蒼とした森の中という雰囲気になっていきます。

謎の洞窟110609

 小川をはさんだ向こう側。いわゆる「やぐら」( お墓) なのでしょうか。花が供えられているので、いまでもどなたかが管理されているようです。

切り通し入り口の滝110609

 やがて小さな滝に出会います。
 この滝で道は二手に分かれますが、左手の山道を登っていくと、朝比奈の切り通しに通じるそうです。

【朝比奈切り通し】

朝比奈切り通しの碑110609

 朝比奈切通し(あさひなきりどおし)は1241年、鎌倉幕府執権 北条泰時が命じて作らせた切通しです。(伝説では、和田義盛の三男朝比奈三郎義秀が一夜にして切り開いたとも言われ、そのため朝比奈切り通しの名前となったそうです)
 金沢六浦津から鎌倉へ抜ける重要路線と言うことで執権泰時自ら指揮して工事を行ったと言われているそうです。1969年6月に「朝比奈切通」として国の史跡に指定されたといいます。

朝比奈切り通しの歩き始め110609

 歩き始めは写真の通りです。「この程度なら気楽だな」と思って歩き始めたのは、あまりにも軽率でした。(つづく)

2011年07月07日

  1. 朝比奈切り通しを歩く(07/07)