
国立科学博物館の常設展示のスペースとしては「地球館」と「日本館」がある。
「地球館」は生物の進化、生態などの展示が主体となっている。
「日本館」は「地球館」が日本に特化したものかというと、工学技術関係の展示もある。
たとえば上の写真の零戦だ。
コンピュータ表示パネルがあって、零戦の絵から各部のボタンを押すと、零戦の絵が動いて具体的な説明が出てくる。
こういう表示パネルはほとんど子どもが占領している。
ボタンを押すと絵が動くのがおもしろいので、「連打」したがる。「これは何かを伝えようとしているらしい」とか「何か意味があるのだろう」とかは考えない。触ると動くのがおもしろいのだ。
スイッチがあれば片っ端から動かしてみる。ただそれだけで、そうすると何が起きるのかにはほとんど興味がない。やたらと何でも囓りたがるスキップと大きな差はない。
見ていると、人間も犬も同じようなものだなあ、と思えてくる。
日本機械学会のスペースがあって、協力企業が出品して、一時間ごとに企業の最新の工作機械の説明など、広報半分の講演をやっている。誘われてひとつ聞いてみた。所要時間約30分。きわめて精密な機械部品がどのようにして切削されて製造されていくのか、よくわかる。
いまは工作機械そのもののダウンサイジングによる省エネ、省スペースが進められているらしい。
じつは亡父が(社)日本機械学会の名誉理事をやっていたので、わが家には学会誌が溢れている。息子が国立博物館でこんなことをしていると知ったらさぞや驚くだろう。
亡父自ら家族に嫌われるようなことばかりしていたから、「父のようにはなりたくない」と、ぼくは就職について父に一切相談することなく金融関係へ進んだ。物作り、機械いじりのようなことは、ほんとうは大好きだったのだ。
まあ、世の中とは往々にしてうまくいかないものだ。

上は江戸時代に製作された天球儀だ。
江戸時代という時代は、一般に思われているよりもずっと文化の程度は高かったのだ。
『天地明察』という小説があって、この中に幕府の碁方(碁の指南をする役職)を勤めていた若者が、天文学と数学の虜になって、やがて改暦に挑むという物語だ。
若者の名前は「渋川春海」というが、下は渋川春海が製作した銅製の「天球儀」であり、実物は国立科学博物館日本館にて保存されている。

その隣には、渋川春海の高弟・谷秦山の家に伝来した紙張り子製の天球儀があった。春海の署名と印があるそうだ。
ところで、工作機械を製作するにはきわめて精密な部品が必要だが、その精密な部品は工作機械とマイコン(マイクロコンピュータ) がなければできない。マイコンは工作機械がなければ作れない。
大災害でも起きて、工作機械やコンビュータが壊滅したら、人類は一から道具づくりをやり直さなければならず、文明は壊滅状態になるなあ、などと思い巡らす。知識だけではダメなのだ。道具類も順番に積み上げ式で作られてきたものなのである。
【7月14日】

本牧神社と本牧和田公園との角のお宅で、毎年このモミジバアオイを撮影している。
ご近所のMさん宅もきれいだが、色がもう少しオレンジ色がかっている。こちらのお宅のほうが葉の緑との配色がよい。花弁も幅が広い。
本牧中図書館やペット病院等へ通うとき、この前を通る。どうしても車を停めて撮影してしまうのだ。

【7月16日】

【7月29日】



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最近読んだ本 : 『風の中のマリア/百田尚樹』(講談社文庫)
題名をクリックすると感想にジャンプする。
オオスズメバチ、キイロスズメバチ、セイヨウミツバチ、ニホンミツバチの生態が手に取るように把握できる。「花通信」の読者にはとくにお薦めの逸品だ。
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「恐竜博2011」にはたくさんのコメントをいただいた。
「鳥類恐竜起源説」というのは百数十年前からあったといい、少なくともぼくが知る限り、「ジュラシックパーク」が映画になった頃は、「鳥類恐竜起源説」がすでに有力視されていた。
「ジュラシックパーク」のキッチンで子どもたちを襲うヴェロキラプトルの細かな動きは、明らかに鳥類の動きを元に創られていた。
ただ、足の指の問題に難点があった。恐竜の前脚の三本指は親指、人さし指、中指に対し、鳥の三本指は人さし指、中指、薬指が起源とされて、この矛盾が一番の難点だった。しかし、それも今年2月東北大の田村教授の発生過程の研究から、ニワトリの指は親指、人さし指、中指であることが突きとめられ、問題点は解決した。
こうした最新の研究成果は、新聞の科学面で発表され、Newton などの科学雑誌などにも掲載される。
ぼくはそれらを敏感に追いかけている。
国立科学博物館の展示は、「恐竜博」も「常設展」も、きちんと最新の研究に基づいたものとなっていて、さすがだと思われた。
【お詫び】
始祖鳥の復元展示写真は、常設展示「地球館」のものが混入したようです。
化石標本は「恐竜博2011」のものです。
【ティラノザウルス】

もう10年以上前、いや、もっと前かも知れません。
初めて「恐竜博」なるものに出掛けましたが、その年の恐竜博の売り物は、卵を巣に産んで育てることが化石ではっきりした「マイアサウラ」でした。
ティラノザウルスやトリケラトプスを期待していたぼくは、すっかり幻滅して、二度と恐竜博なるものへ出掛けることはありませんでした。
【トリケラトプス】


ところで、今回の「恐竜博2011」の売り物は、そのティラノザウルスとトリケラトプスです。
科学博物館へ彼氏と遊びに行った次女によると、「『恐竜博』は高いから入らなかった。常設展示にもトリケラトプスとティラノザウルスはあって、見られるよ」
ちょっと考えさせられる言葉ではありますが、次女よりは金がありますから、せっかく上野まで来たのだからと、「恐竜博」と常設展示の両方を見ることにしました。
結論 : ティラノザウルスは常設展示のほうが迫力があって形もよい。
トリケラトプスは「恐竜博」のものはバカでかい。圧倒的な迫力!
トリケラトプスなんてサイの化け物程度だろう、と思っているとしたら、とんでもない間違い。日本の大型トラックと米国のコンボイくらいの圧倒的な差があります。
というわけで、以下表題と簡単な解説を書いていきます。
【ヘスペロザウルスとマイアサウラ】 (上小: ヘスペロサウルス、下大: マイアサウラ)


上の写真のうち大きいほうが、子育て恐竜として知られる「マイアサウラ」。先ほど書いたように、ぼくが幻滅して「恐竜博」へ出掛けなくなった理由は、そのときはマイアサウラばかりしか展示されていなかったからです。
【ティラノザウルスとアロザウルス】 ( 左: ティラノザウルス、右: アロザウルス)


ティラノザウルスをどうしてこのような展示の仕方をしているかというと、今夏の目玉は、ティラノザウルスの前脚はどのように使われたか、という研究の成果を示す目的があるのです。
立ち上がる直前に前脚を地面についてバランスを取ってから立ち上がっていたことが、コンピュータ・シミュレーションで新たに判明した、というのです。
【ラプトレックス】


上の写真はラプトレックス。「ジュラシックパーク」に出てきた「ヴェロキラプトル」と体格は同じくらい。似ていますが別種ということのようです。たぶん頭蓋骨はヴェロキラプトルのほうが大きい感じです。人間よりやや大きい程度の恐竜たち。敏捷だったでしょうし、映画の中でもとても怖い存在です。
「鳥類恐竜起源説」というのはかなり以前からあるのですが、恐竜の前脚の三本指は親指、人さし指、中指に対し、鳥の三本指は人さし指、中指、薬指が起源とされて、この矛盾が一番の難点でした。
しかし、雑誌Newton でも本展でも記事がありましたが、今年2月東北大の田村教授が発生過程の研究から、ニワトリの指は親指、人さし指、中指であることを突きとめ、問題点は解決。
「鳥類恐竜起源説」は勢力を盛り返して主流になっているようです。
今回の展示によると、ティラノザウルスの頭から背中にかけては羽毛が生えていた、という説が出てきているようです。ティラノザウルスやラプトレックスはかなり鳥に近い種だそうです。
【始祖鳥の化石】

そこで始祖鳥の化石ですが、標本はいくつかあるようですが、化石の実物を見たのは今回が初めて。
大きさは大きめのカラスくらいでしょうか。
【始祖鳥の復元想像】

ところで、まさか恐竜は爬虫類だと思い込んでいらっしゃる方はいないでしょうね。
魚竜、首長竜の仲間は爬虫類ですが、恐竜は恐竜です。絶滅したため、現代にその仲間は現存していないのですが、恐竜が進化して鳥類の起源となったという説が有力だ、という話をしているわけです。
だから、当然のことながら「恒温動物」だということになります。
今回は会場が薄暗いため、レンズが明るいコンパクトデジカメでも手ブレがひどくなって、残念ながらきれいな写真は撮れませんでした。
サイズを小さくしてあるのは、通常のサイズでは手ブレが目立って見にくくなるためです。

久しぶりに、午後遅く舞岡公園の古民家へ出かけました。

これは何をしているところなのか、どなたか教えてください。



【物流博物館】

第49回「San Po の会」(7月23日)のコースは、品川駅西口を出て、まず「物流博物館」へ向かった。
写真は「新発田駅貨物上屋」ということなのだが、なぜ日本通運のトラックが写っているのか、というと、「物流博物館」は大手町ビルにあった日本通運株式会社本社内に創設された「通運史料室」がその基礎となっていたからだ。

「物流博物館」では、江戸時代から昭和までの物流のあゆみを紹介。天びん棒や米俵などを担ぐ体験もできる。ウォーキング仲間のT氏によると、パイスケを天秤棒でかつぐには腰でバランスを取ることがコツだ、とのことだ。

ここではまた、現代物流の要所である空港、港湾、鉄道、トラックの各ターミナルのジオラマ模型のほか、物流に関するビデオ、クイズ、ゲームなどを通して、暮らしと産業に欠かせない物流のしくみをわかりやすく紹介している。
写真は懐かしいオート三輪だ。( 下は展示の記事の写真。ご参考に)

大きな地図で見る
物流博物館を出て、急な坂を登る。この付近は「島津山」といい、旧島津公爵邸があったところだ。
現在は清泉女子大学の敷地内で管理されている。
「旧島津公爵邸」の記事は左の色が変わっている部分をクリックしていただきたい。
旧島津公爵邸を出たあとは島津山を下り、東五反田を通り、上大崎方面の「池田山公園」に向かう。コース内に「畠山記念館」(茶道具のコレクション等を展示)があるが、今回はここは立ち寄らなかった。
【池田山公園】 (旧池田藩下屋敷跡)

「池田山公園」については、Wikipedia を参考にしながら記述する。
池田山公園付近は、江戸時代、岡山城主・池田氏の下屋敷があった。このため付近の高台は「池田山」と呼ばれた。池田山公園のあるところは、池田家の下屋敷の奥庭の部分だ。品川区が整備して、現在でも江戸時代の回遊式庭園の面影を残し、一般に公開されている。

池田山公園のユリ。下はヤマユリだと思われたが、中の斑点の紅色がかなり赤い。

【ねむの木の庭】(皇后実家正田家邸宅跡)

「池田山公園」を出て、付近の高級住宅地を歩き、「ねむの木の庭」に立ち寄った。
「ねむの木の庭」についても、Wikipedia を参考にしながら記述する。
ここはもともと皇后の生家として知られる日清製粉社長の正田家の邸宅があったが、故正田英三郎の遺産の相続税の一部として国に物納された。その後、品川区が国から跡地を取得、公園として整備したもの。名前の由来は皇后が高校時代に自身で作った詩「ねむの木の子守歌」に因んでいるそうだ。
写真の中で背の高い木がネムノキだった。

「ねむの木の庭」で撮影したヤブカンゾウ。
さて、「ねむの木の庭」を出たあとは、杉野学園衣装博物館を見たのだが、ここはあまりおもしろくなかった。展示物が少なすぎる印象を受けた。
杉野良子さんは1926年に杉野芳子ドレスメーカースクールを東京・芝に創立。その後品川区上大崎の現在地に移り、ドレスメーカー女学院と改名した。杉野学園衣装博物館は杉野学園の付属施設となっている。
そのあとは、目黒駅へ出たあと、武蔵小山へ移動して銭湯「清水湯」に浸かり、和民で懇親会を開いて解散した。
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最近読んだ本の感想 : 下記の題名をクリックしてください。
『直感で分かる数学』(畑村洋太郎)
『天地明察』(冲方 丁)
なお、天地明察は渋川春海という人が江戸時代に改暦に情熱をそそぐ物語です。物語の中で渋川春海が天球儀を製作する件があります。
7月26日、たまたま上野の国立科学博物館を訪れたぼくは、渋川春海製作の天球儀の実物を見てしまいました。
↓ クリックしてください。写真が出てきます。
渋川春海が製作した「天球儀」
【7月14日】

黄色いユリが終わると同時に咲き始めた白いユリ。
家内によると、これは「カサブランカ」だそうです。

【7月15日】


【7月16日】




【7月17日】

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きょうは丸一日、上野の国立科学博物館で過ごしました。
その成果はいずれまた…。
明晩は、「San Po の会」ウォーキング記録の続きを予定しています。
月1回のペースで学生時代の友人たちほかとウォーキングの会 (San Po の会) に参加している。
7月23日は品川駅を起点に目黒駅まで歩いたが、コースの中に「旧島津公爵邸」という大物がある。
例月であれば、コースの様子を紹介するが、今回は「旧島津公爵邸」を独立した記事とし、まず、その様子を紹介しよう。

現在清泉女子大学のある島津山の一帯は、仙台藩伊達家の下屋敷(敷地面積22,670坪)だった。明治初年に島津家の所有に移るまで約130年間使われた。明治になってからは、旧鹿児島藩主島津公爵家の屋敷となり、この付近はいまでも「島津山」という地名になっている。
当初は旧伊達家の建物をそのまま使用していたが、老朽化が進んだため、明治39年に英国人のジョサイア・コンドル氏に洋館の設計が依頼された。
ジョサイア・コンドル氏といえば、日本政府が招聘した英個人建築家で、丸の内の美術館「三菱一号館」がやはり同氏によって設計されたものとして知られている。
大正時代には天皇・皇后の行幸があり、盛大に園遊会が開かれた。
清泉女子大学が昭和37年にこの地に移転し、現在旧島津公爵邸の建物は清泉女子大学の管理下にある。
写真の建物は、大正時代に旧島津公爵邸としてジョサイア・コンドル氏が設計したイタリア・ルネサンス様式の洋館だ。
上は旧島津公爵邸の正面玄関に向かって歩いている。

建物は、玄関の横へ、上の写真のように広がっている。

裏側の庭園のほうへと回り込んで行くと、大きな木と広い芝生が見えてきた。
写真の木は台湾フウの一種で、樹齢200年と言われているそうだ。

右側に見えてきた建物は、建物の外側に柱廊が付けられ、まるでイタリアの建物のようだ。
この前庭で、大正時代には天皇・皇后両陛下を迎えて園遊会が開かれた。
清泉女子大学のホームページには、当時の写真が掲載されている。




外観の見学を終えて建物の外側を巡っていく。
庭園の様子はとても美しい。

このように、手入れがしっかりと行われている様子だ。

清泉女子大学の正門だ。
なお旧島津公爵邸建物外観の見学は正式な申し込み手続きが必要なので、ふらっと出掛けても校内に立ち入ることはできない。ホームページ等で確認の上、手続きをとらなければならない。
また、建物内部の見学は時期が決められていて、今回は期間外なので見学はできなかった。
日を改めて、「物流博物館」「池田山公園」などを巡った今回のウォーキングのコースを紹介する。