
自宅の庭のローズマリーがまた咲き始めました。春にも咲いていて、夏はお休みしてました。
まだ咲きはじめです。たくさん咲きますと、少し遠くから眺めてもきれいです。

自宅の花壇からクフェア・タイニーマウスです。
夏の前からずうっと咲いてます。元気な花です。花のかたちがネズミの顔に見えるため、こういう名前がつけられたのでしょう。

サルビアはとてもたくさんの種類があり、おぼえきれませんが、これはわが家の庭のほか、よく見かける薄いピンクのサルビアです。
撮影場所は北隣りの叔母の家の庭です。


自宅の花壇からクジャクソウです。
白い小さな花がたくさん咲きます。シオンの仲間のようですね。

雨の朝のカタツムリ。隣家の塀を這っていました。
梅雨だけではないのですね。よく成長した立派なカタツムリです。

9月6日のシオンより、近づいて撮ってみました。
9月20日の『ヒガンバナ』の記事について、ナツさんから次のようなコメントがありました。
「何故かこの花は好きになれないのです。花は何でも大好きなのにね。
赤色と形が強烈すぎるのかも。
インパクトが強い花だからかなぁ。」
じつは日頃から、派手な色合いやかたちの花々について、似たような感想をほかでもよく耳にします。ぼく自身も似たような感覚を持っています。
そこで、写真ばかりでなく、たまには文章で考えてみるのもよいかな、と本日の記事になりました。
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フィリップ・K・ディックというSF作家の有名作品に『アンドロイドは電機羊の夢をみるか』という小説があります。映画『ブレード・ランナー』の原作です。
未来世界において、ロボットがどんどん進歩して、ほとんど人間と見分けがつかなくなるまでになったとき、「ヒトとアンドロイドをどのようにして区別するのか」というのがディックが提示した問題です。
彼の解答は「ヒトには感情移入能力がある」ということでした。たとえばヒトには感情移入能力があるので、小動物を虐待したりはしない(痛みを感じるから)というわけです。
日本人は万葉の時代から、中国から流入した園芸種の花々を愛でる一方で、山野に咲くめだたない花に美を感じ、それを歌にうたうなどしてきました。当時の人々の生活は貧しく、彼らは日々の生活の中で懸命に生きていました。だから厳しい自然の中で頑張って小さな花を咲かせる野草に、さまざまな想いを投影し、そこに「うつくしさ」を感じていた のだと思います。
少し視点を変えてみます。
西欧人の文化はキリスト教の影響が強く、自然は征服して利用するもの、植物や動物は人間のためにつくられたもの、という感じ方が色濃いように思います。
ところが、古来からの日本人の感じ方は「自然は厳しさもやさしさもありのままに受け容れて、植物も動物も人も、すべて自然の中で共に生きるもの」というものです。
狩猟民族に対し、農耕民族の文化に特有の感覚ともいえそうですし、仏教思想の影響だとも思われます。
いずれにせよ、こうした生活感覚から、自然らしい「ありのまま」を再現したものが美しいという感覚が生まれます。「わび」「さび」「風流」などの美意識は、西欧にはないものでしょう。
たとえば備前焼などの焼きものに美を感じるのは、日本人特有の感覚だと思われます。
園芸種の花々は、花弁が大きかったり、さまざまな色の種類があったり、色そのものが強かったり、なにかと目立つように作られていますから、ちょっとみて美しいのは当たり前です。
そう感じますから、『ディックの花通信』でも、ていねいに育てた園芸種ではなく、公園で野生化している花や木々、一度植えたら毎年花壇で咲く花などを中心に紹介しています。
ぼくはかなり古来の日本人の感覚に忠実なようです。
しかし、そうはいっても、日本人は外来文化を採り入れることに躊躇しないという特質も持っています。中国からはいってきた園芸種は多いですし、最近は横文字の花々がたいへんないきおいで増えています。
原色に近い配色、コントラストの強いものにも、美しさを感じてきちんと反応します。 たとえば『ディックの花通信』『ディックの本棚』『ディックのラウンジ』のデザインは、赤と緑が補色の関係にあることを利用して、コントラストが強く派手な色合いであっても、落ち着きを醸し出すよう工夫しています。
日本人は西欧の美的センスをきちんと自分たちのものにしていく器用さも持ち合わせていると思います。
「うつくしさ」の感じ方は間口が広い。ただ、好みはありますから、日本人古来の美意識が強い方は、派手さを嫌い、清楚でいながらしっかりした美しさを好むのではないかな、と思います。
もちろん、日本文化の影響といっても、平安時代に育まれた美意識と武家社会で育まれたものとは違いますから、けっして一概にはいえないのですけれど。