
撮影場所:森アーツセンター・ギャラリーを出たところ
撮影日:2016.06.24
撮影機器:iPhone6
6月24日、東京六本木ヒルズ・森アーツセンターで開催されている(7月3日まで)「世界遺産 ポンペイの壁画展」を見てきました。

撮影場所:「ポンペイの壁画展」写真撮影コーナー
撮影日:2016.06.24
撮影機器:iPhone6
ローマ帝国期の美術品としては、アウグストゥス帝の彫刻などたいへん質の高い作品群が知られていますが、では絵画はどうだったのか。
当時の絵画というと建物内部を装飾するフレスコ画なので、ほとんど現存品がなく、一般には知られていないのが実情です。ただし、火山灰に埋もれたポンペイや、その近郊の町ヘルクラネウムでは、むしろ火山堆積物のおかげで壁画が劣化せずに残っていた、ということのようです。
「どれ、ローマ帝国期の壁画とはどんなものだったのか、見にいってみよう」と出掛けた次第です。

撮影場所:「ポンペイの壁画展」入り口
撮影日:2016.06.24
撮影機器:iPhone6
まず目に付いたのは「建築物を描いた壁画」、それから主としてヘルクラネウムで発見されたという「神話時代の人物(英雄、女神など)を描いた壁画」です。
「え? これって遠近法を使っているではないか? 」というのが、真っ先に気が付いたことでした。
【サンタマリア・デル・カルミネ聖堂】

撮影場所:フィレンツェ サンタマリア・デル・カルミネ聖堂
撮影日:2015.09.11
昨年フィレンツェの町でサンタマリア・デル・カルミネ聖堂というところを訪問しました。その中の礼拝堂「ブランカッチ礼拝堂」にマザッチョという画家が遠近法を使って描いた壁画群があります。
【ブランカッチ礼拝堂】

撮影場所:フィレンツェ サンタマリア・デル・カルミネ聖堂内
撮影日:2015.09.11
下の壁画は美術の教科書などによく出てきますので、ご存じの方も多いか、と思います。
【マザッチョの「楽園追放」】

礼拝堂全体写真の左側壁上段、手前側にあります。
【マザッチョの「貢ぎの銭」】

これは美術史の専門書に必ず出てきます。
二次元の絵画に三次元の空間を現出させ、あたかも現に肉体を備えた立体的な人物(イエスや使徒たち)がその空間にいるかのように描いたということで、このため、このブランカッチ礼拝堂は美術史とくにルネサンス史を志す学生は必ず訪れなければならない、とされているほどよく知られています。
遠近法の消失点は中央のイエスの頭になっています。
それだけでなく、礼拝堂の窓(写真の右上)から差し込む光線が使徒たちの影の光源になっていると錯覚させるように描かれ、「絵画に描かれた空間が現実の三次元空間であるかのように見せるということ」を補強しています。
二次元の絵画に三次元の空間を現出させ、あたかも現に肉体を備えた立体的な人物(イエスや使徒たち)がその空間にいるかのように描いたということで、このため、このブランカッチ礼拝堂は美術史とくにルネサンス史を志す学生は必ず訪れなければならない、とされているほどよく知られています。
この壁画が描かれたのは概ね1420年頃のことでした。それまでの西欧世界はいわゆる中世であり、ギリシャ・ローマ時代の文化などは忘れ去られ、絵画はキリスト教教義の制約のため、平面的で人間味のない表現の聖母子や使徒たちの姿をまるで記号のように繰り返すのみだったのです。
つまり、ルネサンスの絵画というのは、遠近法を使って描かれた現実的(に見える)空間に、立体的な、いかにも人間らしい人物が描かれる、というところからスタートしたのであって、だからこそ、マザッチョの壁画は画期的だと讃えられ、多くの画家たちの模範となったのでした。
【サンタマリア・ノヴェッラ教会のファサード】

撮影場所:フィレンツェ サンタマリア・ノヴェッラ教会前
撮影日:2015.09.10
上の写真は、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会のファサードです。ここにはマザッチョの「三位一体」という、これも有名な祭壇画があります。
【マザッチョの「三位一体」】

撮影場所:フィレンツェ サンタマリア・ノヴェッラ教会内
撮影日:2015.09.10
上の天蓋や下の(遺体のある)台座などから頭の中で線を引いて消失点を求めると、ちゃんと一点(イエスの足下、手前台座の上あたり)に集まっていることが確認できます。
ポンペイの壁画の遠近法は、消失点が複数あったりしてややいい加減。ヘルクラネウムの神話などの絵も、人体デッサンがやや不正確なところが目に付きますが、まあ、画家によって上手下手は当然あったことでしょう。
大切なことは、ルネサンス絵画の精神、「二次元の平面に描くのであっても、三次元に見える空間に人間らしい人物像が立体的な表現であたかも現に存在しているかのように描くのがあるべき絵画だ」という考え方は、ローマ帝国時代に確かにすでにあったのだ、ということです。
ヴェスビオス火山の噴火というのは紀元79年のこと。西ローマ帝国の滅亡は5世紀の終わり頃。
そして西欧社会はそのローマ帝国の文化を忘れてしまい、絵画については15世紀の初めになってようやく再発見し、そこから絵画の歴史は再出発しました。
9百数十年もの間、いったい何をしていたのか。
戦争や宗教的な制約などのために、文化の発展が何百年にもわたって停滞したということは、じつに残念なことでした。

撮影場所:Roma ボルゲーゼ美術館
撮影日:2015.9.04 以下同じ
米国の作家ダン・ブラウンの『天使と悪魔』(角川文庫で入手可能)という小説では、ローマ教皇が亡くなり後継者を選ぶコンクラーベの直前に、後継教皇として有力だった4人の枢機卿が誘拐されてしまいます。
犯人は秘密結社「イルミナティ」を名乗っています。
イルミナティは、古くはガリレオやコペルニクスの時代からローマ・カトリックが科学や芸術の自由な発展を弾圧したことを恨み、有力な科学者や芸術家たちがメンバーとして作られた秘密結社でした。
上の写真の「プロセルピナの掠奪」を紹介したベルニーニも、じつはそのイルミナティの一員だった、という設定です。

誘拐された4人の枢機卿たちは、8時間ごとに一人ずつベルニーニの作品のあるところで殺害される、と予告されたため、ハーバード大学から呼ばれた主人公の宗教象徴学者ラングドン教授は、次の殺害現場を突きとめて殺人を未然に防ごうと、ヴァチカン警察とともにローマ中を振り回されることとなりました。
登場するベルニーニの彫刻は
「ハバククと天使」サンタ・マリア・デル・ポポロ教会
「聖テレサの法悦」サンタ・マリア・デラ・ヴィットリア教会
「四大河の噴水」ナヴォナ広場
そして4番目は…?
というような筋書きです。

9月の旅行でナヴォナ広場へは行きましたが、ポポロ教会は公開時間外。サンタ・マリア・デラ・ヴィットリア教会は立ち寄る時間がありませんでした。
ほかのベルニーニの彫刻作品の名作はボルゲーゼ美術館に集められているので、ここには真っ先に行きました。

ボルゲーゼ美術館の作品は、すでに「ダビデ」を紹介しましたが、「プロセルピナの掠奪」は「ちょい見せ」だけでしたので、今回の記事の写真としました。
名作「アポロとダフネ」はいずれまた紹介しましょう。
〈参考〉神話の内容
プロセルピナ(ギリシャ神話ではペルセポネ)は豊穣の女神ケレスの娘です。
冥界の王プルートーが一目惚れして無理矢理に攫い、連れ去ってしまいました。激怒した母ケレスはプロセルピナを取り戻そうとしますが、冥界のザクロの実を一度食べてしまった者は冥界に属するとの掟があります。
そこで仕方なく、プロセルピナは一年の半分は母の下で、残り半分は冥界で暮らすということになりました。
母親の豊饒の女神ケレスは娘が戻ってきたときにしか仕事をしません。これが四季の訪れの由来だと言われております。

左下、金髪の女性の仕草にご注目 !

ボルゲーゼ美術館はシピオーネ・ボルゲーゼが夏の別荘として建てたもので、見事な内装です。
〈ご注意〉
たとえば、最後の写真はISO 20000、F8.0 で撮影しています。ほかの写真も絞りはもっと開けていますが、ISO 20000 は同じです。
フラッシュ撮影や三脚の使用は禁止されています。
ふつうのカメラで撮影すると、手ブレが大きく、何とか撮れた場合でもノイズでザラザラになり、写真は使い物になりません。イタリアの美術館へ行けばこのような撮影ができるというわけではなく、機材はフラッシュなし、三脚なしの室内撮影に適したカメラを選ぶ必要があります。

撮影場所:Roma ボルゲーゼ美術館
撮影日:2015.9.04
ダビデ像シリーズの紹介、今回はベルニーニのダビデ像です。
下がミケランジェロのダビデ像、上がベルニーニのダビデ像ですが、このふたつを並べてみると、ルネサンスとバロックがそれぞれ重視した美術作品制作上のポイントの違いが鮮明になります。
ルネサンスという芸術運動の基礎にあったのは、ギリシャ・ローマの古典に帰ろうということで、古い時代の人たちは人体そのものの美しさを大切にしていた。その精神を甦らせようということでした。
アーティストたちは人間の身体をよく観察し、やがては解剖学的な知識まで加えて、理想的な人間の姿を描き出そうとしました。
バロックはその土台の上に、さらに動と静の対比、明と暗の対比というような美的精神を追加して、そうした美しさをよしとしたのです。
ミケランジェロのダビデ像は静かで端整で美しいけれど、ベルニーニはそのダビデがゴリアテめがけて投石する瞬間の姿を描こうとしました。

撮影場所:Firenze アカデミア美術館
撮影日:2015.9.10

ベルニーニのダビデ像を、少し角度を変えて撮影したものです。
下の写真は一度紹介しましたが憶えていらっしゃるでしょうか。
ベルニーニの「プロセルピナの掠奪」(部分)です。この彫刻も激しい動きをとらえようとしています。

撮影場所:Roma ボルゲーゼ美術館
撮影日:2015.9.04
私は昨年暮れに「ルネサンス美術」を学ぼうと一念発起して、その仕上げにフィレンツェに行こうと計画しました。せっかくイタリアまで行くのだから、これまで学んできた「ローマ帝国の遺産」を見られれば一石二鳥と考えました。
しかし、ローマと言えばベルーニーニの彫刻でして、結局イタリア・バロック美術のほうにも半ば足を踏み入れてしまったかたちとなっています。

アンドレア・デル・ヴェロッキオという人は、メディチ家の庇護もあって、フィレンツェで大きな工房を経営していました。画家、彫刻家、建築家、鋳造家となんでもできる人でした。
今回はヴェロッキオのダビデ像の紹介です。
ミケランジェロ、ドナテッロとダビデ像を紹介してきたので、その勢いで続けていこうという安易な発想ですが、そういうのもおもしろいのではないかと。

ここでもう一度「ダビデとは誰か」のおさらいをしておきます。
イスラエルは外敵のペリシテ人(実態はいまひとつ不明)の攻撃に悩まされていました。
ゴリアテという名の巨人がペリシテ軍にいて、これがとても強いのです。イスラエルの兵士は恐れをなして防御戦に苦しんでいましたが、そこへダビデが登場。彼の武器は川原の石と投げ紐だけ。
ダビデが狙いすまして放った石はゴリアテの眉間に命中。ダビデはすぐに進軍してゴリアテの首を取りました。
これをきっかけにペリシテ軍は敗走。ダビデはイスラエルの英雄となりました。

当時のフィレンツェは数多くの外敵に囲まれ、傭兵を雇うなどまでして戦争をやっていました。外敵を退けるユダヤの英雄の像が人気を集めていたのは、当時のフィレンツェが諸外国と緊張関係にあったため、ということのようです。

さて、ヴェロッキオの工房にはたくさんの弟子がいました。レオナルド・ダ・ヴィンチもその一人。
誰が言い出して広まったのか、「このダビデ像のモデルは弟子のレオナルド・ダ・ビンチだ」という噂もありました。
レオナルド・ダ・ビンチというと、「爺さん面」しか知らないし、個人的な逸話もあまり残っていないので、なんとなく正体不明の人というイメージですが、「こんなかわいらしい若者だったの? 」とちょっと意外です。

ダ・ビンチがヴェロッキオの弟子だったというのは事実です。
ヴァザーリ(この人については、いずれ紹介します)が書いた芸術家列伝によりますと、レオナルドの父親が友人だったヴェロッキオにレオナルドの作品を見せ、才能が抜群だとヴェロッキオが感心して、弟子として迎え入れたのだとか。
上の写真はウフィツィ美術館で撮影したヴェロッキオの「キリストの洗礼」という作品ですが、左下、左側の天使を描いたのはレオナルドだということはよく知られています。

弟子が描いた天使の絵を見てヴェロッキオが絵筆を折った、とかは誰かの作り話にせよ、思わず「なるほど」と納得してしまいそうな逸話です。
ヴェロッキオは天才ではなかったかも知れないけれど、数多くの弟子(ボッティチェリもヴェロッキオの工房にいました)を育て、精力的に仕事をした人でした。

撮影場所:Firenze バルジェッロ美術館
撮影日:2015.9.11
ドナテッロがフィレンツェで活躍しはじめたのは1404年頃、絵画の世界を革新してルネサンスが始まったと評価されているマザッチョは、1401年に生まれたばかりです。
・透視図法などを利用し、三次元の世界に人が生きているかのように描く
・ギリシャ・ローマの彫刻作品のように、人体を解剖学的に理解し、写実的に描く
といったことに、画家たちがおそるおそる着手していた頃、彫刻家のドナテッロはどんどん先へと進んでいました。
ドナテッロが制作したダビデ像は、制作年代がはっきりとしませんが、比較的初期の頃の作品だと言われています。

「クラシックな、均整の取れた人体の理想像」(後述の聖ゲオルギウス像など)も制作できるし、晩年には「モデルの痛みや苦しさを感じさせるほどの写実的な作品」(マグダラのマリアなど)にも手腕を発揮したドナテッロですが、このダビデ像は何か特別な個人的な趣味の世界へ突っ走っているように感じられます。



一般的には、官能的とか貴族的とか評価されているようです。
現在ではドナテッロの代表作の一つとして知られています。
画集などでドナテッロの作品を見ていたので、私はフィレンツェを訪れる前からドナテッロのファンでした。

ダビデ像はフィレンツェのバルジェッロ美術館の所蔵作品ですが、ダビデ像を鑑賞するにはどうも照明がよくありませんでした。窓の位置とダビデ像の設置場所の関係など、もう少し考えてもらいたい、という次第で、あまりよい写真は撮れませんでした。
もしもよく撮れているように見えるとしたら、それは私の Photoshop Magic のせいでして、現場では明暗差がきつく、肉眼でも観賞はしにくく感じました。
ちなみに、上の写真の背後、壁に掛かっているのは「聖ゲオルギウス像」で、そちらもドナテッロの作品。クラシック(古典的)で端整な美しさを感じさせる壁龕彫刻です。

撮影場所:Firenze オルサンミケーレ教会
撮影日:2015.9.08
なんと、実物を撮るのを忘れていたようなので、オルサンミケーレ教会外壁壁龕のレプリカの写真を掲載します。
こんなふうに、ドナテッロは多彩な才能の持ち主です。
さて、ダビデ像の写真は明るさなどの制約からいまひとつ魅力を伝え切れていません。
仕方がないので、作品をよく見ていただくために奥の手を出します。
私が撮影したのではありませんが、copyright の制限のない Web画像を、ダウンロードして見ていただくこととしました。
この奥の手は、『聖母マリアとキリスト教伝説』(ちくま文庫)の秦剛平さんの「あとがき」で教えていただきました。

写真:Web Art Gallery 2david1

写真:Web Art Gallery 2david2
ドナテッロのダビデ像とミケランジェロのダビデ像とはずいぶんと雰囲気が違いますね。こんなふうですから、美術の世界はおもしろいな、と感じます。

撮影場所:フィレンツェ アカデミア美術館
撮影日:2015.9.10
さて、みなさんの眼には 2015.9.24 — 2 のシニョーリア広場のダビデ像(レプリカ)と、とくに大きな違いはない、と目に映っているかも知れません。
しかし、アカデミア美術館のダビデ像の部屋にいたかみさんと私は、この像の圧倒的な存在感に、びっくりして見上げていたのです。
いったい何が違うのか ?

どうしてこんなに違うのか ?
かみさんは「大きさが違う」と言ってました。でも、まさかレプリカの大きさが違うとは思えず、この記事を書く前に確認しました。レプリカは実物大だそうです。
ぼくも「まさか」とは思いながら、そんなこともあるかも知れない、と感じていたのです。
「大きさが違う」という実感。これはダビデ像がそう感じさせた、ということで、私は「圧倒的な存在感」と書きましたが、「その存在感が大きいと感じさせた」としかいいようがありません。

「存在感」の中味の分析が科学的でないと言われるかも知れません。
それが容易には分析できないからこそ、ミケランジェロのような芸術家が賞賛されるのだろう、と思います。
前の記事で、「絵画にせよ、彫刻にせよ、レプリカ、写真、印刷物でその美しさを伝えられるものではない」と書きました。私の写真は拙い手遊びで、ダビデ像を目の前にしたときの畏怖のような感動はとても伝えられません。

ユダヤ人の建国物語は旧約聖書に描かれていますが、イスラエルは外敵のペリシテ人(実態はいまひとつ不明)の攻撃に悩まされていました。
ゴリアテという名の巨人がペリシテ軍にいて、これがとても強いのです。イスラエルの兵士は恐れをなして防御戦に苦しんでいましたが、そこへダビデが登場。彼の武器は川原の石と投げ紐だけ。
ダビデが狙いすまして放った石はゴリアテの眉間に命中。ダビデはすぐに進軍してゴリアテの首を取りました。
これをきっかけにペリシテ軍は敗走。ダビデはイスラエルの英雄となりました。
ミケランジェロのダビデ像で、ダビデの右手がやや大きく強調されているのは、この物語が背景にあるからだ、ということのようです。

しかし、16世紀のフィレンツェと旧約聖書時代のユダヤの歴史にどのような関係があるのでしょうか。
なぜフィレンツェでは「ダビデ像」が人気を集めるのか。ミケランジェロ以外にも、フィレンツェには数多くのダビデ像があり、当時人気の題材でした。(ドナテッロやデルヴェロッキオのダビデ像を、いずれ当ブログでも紹介したい、と思っております)

諸説あるかと思いますが、若桑みどり さんの『フィレンツェ』(講談社学術文庫)によりますと、「ミケランジェロがダビデ像を制作していた1501年から1530年頃、フィレンツェは国境に迫るボルジア軍との戦争準備中」でした。
また、「マキアヴェリは『金目当ての傭兵よりも、イスラエルのダビデのような人物が必要だ』と『君主論』に書いていた」そうです。
周辺の他の都市国家や、フランス、教皇庁などと緊張関係にあったフィレンツェが、ダビデのような英雄の像に自国の戦勝を重ね合わせていたのだろう、ということのようです。
ミケランジェロのダビデ像は、ドナテッロやデルヴェロッキオなどの数々の名作よりもはるかに大きく、力強いダビデ像として仕上げられたのです。

なお、ミケランジェロはこの最後の写真のように遠くからのショットではなく、ダビデ像が下から見上げられることを想定していたのではないか、と思われます。
全体のバランスを見ていると、どうも東大寺の金剛力士像を制作した運慶のようなことをやっているように感じられます。

撮影場所:フィレンツェ シニョーリア広場を臨むホテルの一室
撮影日:2015.9.10
フィレンツェのチェントロ(中心地区)のシニョーリア広場に食堂が面している Hotel Relais Uffizi に、9月8日から12日まで宿泊しておりました。
上の写真は ホテルの食堂脇の談話室の窓から撮影した早朝のシニョーリア広場です。
閑散としていますが、この広場は午前中10時頃以降 夜遅くまで、下の写真のように賑わいます。

撮影場所:シニョーリア広場から「ランツィのロッジア」
撮影日:2015.9.08
このロッジア(建築物外側のアーチ上の列柱に囲まれた廊下)は「ランツィのロッジア」としてよく知られています。数多くの彫刻作品が並べられています。
このロッジアへ向かって右横の狭い路地を少しはいったところに、宿泊していたホテルの入り口があります。

撮影場所:フィレンツェ シニョーリア広場
撮影日:2015.9.08
また、写真のロッジアから左へ数メートル離れたところに、有名なミケランジェロのダビデ像のレプリカが展示されています。
右手が異様に大きく見えますが、これには特別な意味があります。ダビデ像の実物の写真を掲載するとき、このことに触れたいと思います。

撮影場所:フィレンツェ シニョーリア広場
撮影日:2015.9.08
ミケランジェロのダビデ像の実物は、まさか雨ざらしにはなっていません。
徒歩20分程度のアカデミア美術館にあるのです。あらかじめ入場予約をして、実物を見られることを期待していました。
そうはいっても、たとえレプリカだってよくできているはずですから「実物はこのレプリカから十分に想像できる」と思っていました。
それはとんでもない間違いでした。
絵画にせよ、彫刻にせよ、レプリカ、写真、印刷物でその美しさを伝えられるものではないと、十分承知していたはずなのに、私はミケランジェロの才気を甘く見ていたとしか、いいようがありません。
まあ、だからこそわざわざイタリアまで実物を見にくる意味があるのですが…。
本日は2本の写真記事があります。「ランタナとセセリ」もご覧いただければ嬉しいです。
英語すら危なっかしいのに、添乗員付きのパック・ツアーではなくて、小さな旅行会社に航空券とホテルの予約、及び いくつか混み合うことで知られている美術館など の予約を入れてもらっただけで、それで9泊11日ものイタリア旅行へと出かけたのは、無謀だったのかどうか。

でもね、上の写真のような本を買って、私は数ヶ月間イタリア語をおぼえようと頑張ったのです。
役に立った会話は
Posso usare il bagno, per favore? トイレを貸して下さいませんか。
2回ほど使いました。まともな公衆トイレなんてイタリアにはあまりないのです。
Posso fotografare? 写真撮影してもよいですか。
これはずいぶん使いました。叱られるのは嫌ですし、かといってしっかり撮影したいし…。
Vorrei andare a どこそこ。
タクシーに乗ったら、とにかく行きたいところを告げなければなりません。どこそこの地名や施設はイタリア語で言えなければなりません。
現地ではいろいろと戸惑うことも多いのです。たとえば「美術館や大教会へ入館するのにどの列に並べばいいのか」「予約者は別の窓口があるのではないか」「それはどこにあるのか」など、日本ならしかるべくきちんと表示がありますが、とんでもない離れたところにひょこっと窓口があったりしますから、誰かに尋ねないとなかなかわからない。困れば何が何でも言葉を通じさせないと先へ進みませんし、不安なままで過ごすこととなり、時間も無駄になります。
となると、こちらも必死。
まあ、なんとかなるもので…、
イタリアへ到着して2、3日経つと、もう平気で話しかけてました。
Scusi, というのは「ちょっと、すみません」という感覚。あとはもう、イタリア語と英語ちゃんぽんでもなんとか質問して、相手の返事を聞き分けるしかないのです。
イタリア人も、多少英語がわかればイタリア語と英語ちゃんぽんで答えてくれます。

上の写真はイタリア語学習の副読本。とくに旅行会話に重点を置いてます。
左側はカバーがどこかへいって見つかりませんが、「旅の指さし会話帳」という本。実際に本を出して指さしなんて、現場ではやっていられませんが、実用本位で、よく使う単語帳も付いていて、学習に役立ちました。
ずいぶん勉強して、実際にはたいしてイタリア語を喋っていませんけれど、勉強したからこそ、たとえば立て札、看板などを読める。どんなことが書いてあるか要点は理解できる。相手の説明もある程度わかる。それで結構助かりました。
● 昨晩は FC2のアクセス状況に障害があったようなので、この記事は本日の記事へと変更いたしました。

撮影場所:Roma ボルゲーゼ美術館
撮影日:2015.9.04
昨晩の記事でちらりとお見せしたベルニーニ作の「プロセルピナの掠奪」ですが、プルートーのがっしりした両の手の指がプロセルピナの腰と腿を抱えるこの描写と表現、すごいと思われませんか。
これって大理石の彫刻だというのに。
ベルニーニのことはダン・ブラウンの小説『天使と悪魔』で知ったのですが、これほどの腕前の才人だったとは。
神話を簡単に書いておきます。
プロセルピナ(ギリシャ神話ではペルセポネ)は豊穣の女神ケレスの娘です。
冥界の王プルートーが一目惚れして無理矢理に攫い、連れ去ってしまいました。激怒した母ケレスはプロセルピナを取り戻そうとしますが、冥界のザクロの実を一度食べてしまった者は冥界に属するとの掟があります。
そこで仕方なく、プロセルピナは一年の半分は母の下で、残り半分は冥界で暮らすということになりました。
母親の豊饒の女神ケレスは娘が戻ってきたときにしか仕事をしません。これが四季の訪れの由来だと言われております。
ダン・ブラウンの『天使と悪魔』は映画にもなっているので、ご存じの方も多いでしょう。いずれまた、記事にしたいと思います。

撮影場所:Roma ボルゲーゼ美術館 正面
撮影日:2015.9.4
上の写真はローマのボルゲーゼ美術館、建物は、シピオーネ・ボルゲーゼが夏の別荘として建てたもので、この建物自体が歴史的な建造物です。

撮影場所:Roma ボルゲーゼ美術館 内部
撮影日:2015.9.4
上の写真はボルゲーゼ美術館の内部で、ベルニーニの「プロセルピナの掠奪」が展示されている部屋です。
フィレンツェのウフィツィ美術館、パラティーナ美術館なども訪れましたが、いずれも建物そのものが歴史的建造物で、上のような豪華な内装の部屋で、名画や彫刻を楽しむことができ、豊かな気分にひたれます。
しかも、現時点で上に挙げたどの美術館でも「写真撮影は自由」です。
一部の部屋で企画展をやっている場合は、企画展の部屋では撮影禁止。美術館の所蔵品ではなく、個人や教会などから借りてきた展示品だから撮影禁止になっている、と思われます。
日本の美術館の場合、企画展が主で常設展が従、となっているのが通常です。たとえば「国立西洋美術館では常設展示室の同館所蔵作品については写真撮影してもよい」ことになっているようです。
日本でもどんどん国立西洋美術館のやり方を採用してほしいものです。
ローマやフィレンツェの美術館では、それぞれの美術館の所蔵作品そのものが宝の山です。
わが国の美術館はその中のひとつふたつを借りてきて目玉作品とし、関連作品をかき集めて大々的な企画展を催しているのが現状です。つまり、ローマやフィレンツェの美術館では写真撮影できる作品の著名度が高く、分量も桁違いに多いのです。
まあ、一部の観光客が名画の前で自撮り棒を使って記念撮影したりしているのは興醒めなのですが。