【リシュリュー枢機卿】(フィリップ・シャンパーニュ)

昨日紹介した「ルイ15世の肖像」の右隣は、ルイ13世の宰相「リシュリュー枢機卿」です。フィリップ・シャンパーニュという画家が描いたもの。
リシュリュー枢機卿はデュマの『三銃士』では三銃士とダルタニャンの宿敵でした。
すでに書きましたが、上の写真のように壁に所狭しと絵を並べ、この展示方法は将来も変えていけない、というのがオマール家からフランス学士院に資産すべてを寄贈する際の条件でした。
なお、上の写真は私ではなく、かみさんが撮影したものです。
【聖母子像】(カルロ・チニャーニ)

Carlo Cignani というボローニャの画家が描いた聖母子像です。
とても美しい絵です。
じつはラファエロの聖母子像もあったのですが、ぼくは撮ってなくて、かみさんが撮りましたが、部屋が暗すぎてノイズが強く入り、ここへ掲載することはできませんでした。
【テセウスは父の剣を見つけた】(ニコラ・プッサン)

後にアテナイの英雄となるテセウスが、預けられた先で成長して16歳となり、大岩の下に隠されていた父(アテナイの王アイゲウス)の子である証拠の品、剣とサンダルを見つける、というシーンです。
ギリシャ神話の一場面。
【秋〜あるいはワインの悪徳に関する寓意】(ボッティチェリ)

ボッティチェリ(ルネサンス時代のフィレンツェの画家)が描いた絵です。
【三世代】(フランソワ・ジェラール)

絵の題は「The Three Ages」、絵の雰囲気からして「三世代」と訳しましたがあっているでしょうか。
18世紀フランス新古典主義の画家 フランソワ・ジェラールが描いた絵です。
フランソワ・ジェラールには「プシュケとアモール」の題材で描いたとても官能的な絵がありまして、それが有名。そちらはご覧になった方も多いかも知れません。
【湯船のガブリエル・デストレ】(フォンテーヌブロー派の画家)

ガブリエル・デストレというのはブルボン朝初代のアンリ4世の愛妾です。画家は「フォンテーヌブロー派の画家」。個人名はないのか、と言われるかも知れませんが、謎に包まれた芸術家集団だったそうです。
ガブリエル・デストレは肖像画の数がとても多く、有名なのは「ガブリエル・デストレとその妹」。左側の裸の女性が右側の裸の女性の乳首をつまんでいる、という絵です。
【ギャラリーの様子】

絵にはあまり興味がないのでおもしろくない、という方もいらっしゃったでしょうが、ぼくの個人的な旅行記を兼ねた記事なので、ご了承ください。
興味のない題材の場合は読み飛ばしていただくしかありません。
シャンティイ城の絵画は今晩で終わりで、明日は植物関係の写真記事に戻ります。

世界史の「絶対王政の確立」のところでよく使われる図版に『ルイ14世の肖像』がある。
あれは1701年にイアサント・リゴー(Hyacinthe Rigaud)という画家が描いたもので、現物はルーブル美術館にある。
イアサント・リゴーはカタルーニャ人だが、ルイ14世時代の宮廷肖像画家として活躍した。
写真の絵もリゴーが描いたものだが、モデルは「ルイ15世」だ。
ほぼ同じ絵がヴェルサイユ宮殿にもあるらしい。この時代、スペインなどの王家に贈るとして同じ絵を描かせるなどしたというので、同じ画家の同じ絵があっても不思議ではないらしい。

女性の肖像画は『ポンパドゥール侯爵夫人』(画家は不明)だ。ルイ15世の愛妾だが、実力者でもあり、しばしば政治にも干渉した、と言われている。カンタン・ド・ラトゥールやフランソワ・ブーシェが描いた大きな肖像画が知られているが、この肖像画は小さい。
髪型などで当時のファッション界をリードした、とも言われている。
なにしろ、気が付いたときには「あと10分」を切っていたので、目に付いた絵を適当に撮っただけなのだが、絵画はわずか12枚ほどの写真しか撮っていないのに、その中からこんなふうに並べられるのだから、しっかりしたコレクションだと言えよう。
次回なんとか見られる写真を並べて、シャンティイ城の絵画コレクションの記事を終わりにしたい。
短い時間で画家やモデルのことをよくメモってきた、と思われるかも知れないが、「あと10分」というときにそんな暇があるはずがない。
今は Google の「画像検索」という手があるのだ。斜めに撮った写真でも、かなりの確率でヒットして、画家や、絵画の表題、モデルなどが判明する。
また、ぼくはフランスのブルボン王朝史が好きなので、かなりたくさんの本を読んでいる。この辺の歴史についてもともと詳しいのだ。
【鹿のギャラリー】

シャンティイ城の内部見学の記事を一番最初のところへ戻そう。
上の写真は、入り口を入ってすぐ右側の部屋「鹿のギャラリー」だ。
ぼくはこの部屋をちらっと覗いて、「なんだ、タピストリーの部屋か…」とろくによく見回しもしなかった、と書いた。ところが、この部屋の右奥に大ギャラリーが連なり、シャンティイ城の真の財宝はそこにあったのだ。
「礼拝堂」から出てきたとき、別行動のかみさんと出会い、「絵は見たか」と訊かれて、「そうだ、アングルの絵とか、たくさん名画があると聞いていた。肝心のそれをまだ見ていないではないか!」と忘れていたのに気が付いたのである。
この英仏旅行の中で、これこそが痛恨の失敗だ。
時計を見ると、集合時間まであと10分を切っているではないか!
【アングルの『ヴィーナスの誕生』】

というわけで、少し絵画の写真が続く。
まずはアングルだ。
正面の絵には『ヴィーナスの誕生』というタイトルが付けられているらしい。
じつは、ほぼ同じ構図の有名な作品がある。
天使とか余分なものがなく、裸婦だけを描いている。女性は髪に触っているのではなく、肩に大きな壺をかついで、その壺をひっくり返して水浴びをしている(実際には水は身体に掛かっていない)、という作品だ。
有名な『泉』という作品で、現物はオルセー美術館にある。
1981年に『アングル展』が開催され、作品が国立西洋美術館で展示されたのをぼくは観に行った。33年前だ。たいそう気に入って、ポスターも買った。
だから、『ヴィーナスの誕生』はぼくにとって「再会した」という思いが強い。
アングルという画家は「新古典派」の大家で、形(フォルム)、構図、線、輪郭を大切にする。ぼくの好みと合致している画家だ。
『ヴィーナスの誕生』は肖像画に囲まれているが、左はアングルの24歳のときの自画像だ。右は Madam Duvaucay(詳細不明)という女性。
【独特の展示方法】

なんだかごちゃごちゃと変な展示の仕方だ! と感じられる方もあるかも知れない。
このシャンティイ城・コンデ美術館に展示されている絵画は、オマール家からフランス学士院に寄贈されたときに条件があった。
「伝統的な展示法をいっさい変更してはならない」という遺言だった。
部屋の中、壁全体にところ狭しと絵画が並べられていて、「美術館らしくない」「もったいない」「ひとつひとつ近いところでじっくりみたい」「日本の国立美術館から要請があるので貸し出ししたい」などといっても絶対に不可である。
だからぼくは「大失敗だった」と後悔している。日本から13時間、パリから1時間以上かけて、このシャンティイ城を訪れない限り、これらの美術品とは対面できないのである。

大コンデ公の「戦績ギャラリー」などの居室群を堪能した後、大急ぎでエントランスのほうに戻りました。
エントランスをくぐってすぐ左に、大きな階段のあるホールがあったと書きながら、その様子を撮影していませんでした。

階段を少し下りてから、上のような彫像を眺めつつ、階段ホールの反対側へ出て、長い廊下を行った先に、下の写真のような礼拝堂がありました。


天井の装飾など、たいへん優美です。

礼拝堂の全景写真の下のほうに見えている祭壇の奥にアルコーブが見えています。
記憶がはっきりしませんが、その左側のほうの天井を見上げて撮ったようです。

アルコーブの天井を撮影した写真の下のほう、つまり祭壇の奥のスペースは、内陣になっていて、上の写真はその内陣を撮影したのだと思います。
ここはどういうわけか、フランス語のホームページでは無視されていて、その代わり、薄っぺらな日本語パンフレットをもらってきているのですが、これらの彫刻を制作したのはジャック・サラザンという人。
正面の壺の中に、コンデ家親王の心臓が納められている、とあるのですが、コンデ家親王というのが具体的に誰のことなのかわかりません。
【大コンデ公の戦績ギャラリー】

昨日の「シャンティイ城」の記事の続きです。
シャンティイ城のオーナーとしては、「モンモランシー家」に続く「コンデ家」で一番有名な「大コンデ公」の戦績ギャラリーです。


奥のほうから方向を変えて撮影しています。


【窓から外を】

次の部屋へ移る前に、窓から外を覗いて撮影しています。
遠くに見えているのはイギリス式庭園のようです。
【音楽室】

【衛兵の間】

上の写真は2回目ですが、この部屋は L'antichambre et la salle des Gardes、 「衛兵の間と控え室」といったところでしょうか。
赤い壁の中央の肖像画は、このシャンティイ城をモンモランシー家から引き継いだコンデ家の「大コンデ公」(1621-1686) と呼ばれる人物です。1653年にDavid Teniers という画家が描いたもの。
さて、その大コンデ公という人物は軍人として大活躍をしたことで有名です。時代がアレクサンドル・デュマの『ダルタニャン物語』(その第1話が有名な『三銃士』)と重なっています。
21歳で宰相のリシュリューからフランドル方面司令官に任命されネーデルラントへ進軍、2万6千のスペイン軍を劣勢の兵力で包囲・撃破。全ヨーロッパにその名を轟かせます。さらに舞台を神聖ローマ帝国に移してドイツ軍を撃退しました。
フランス宰相のリシュリュー枢機卿は、御存知のように『三銃士』では悪役で、ルイ十三世下で権力をほしいままにした人物。三銃士らと対決します。
『ダルタニャン物語』ではやがて時代はルイ十四世の幼少期に移り、イタリアから招かれた宰相マザランが政治の実権を握り、ダルタニャンはマザランの指揮下で働くのですが、フロンドの乱が起きて三銃士は反乱側に付き、ダルタニャンとは対立する勢力になります。
大コンデ公は強すぎたためルイ十四世の宮廷からは謀反を疑われ、いろいろあってとうとう謀反人扱い。それでも最後は王室側に戻って戦い、結局シャンティイ城に隠居したのだそうです。
シャンティイ城は最初は大将軍アンヌ・ド・モンモランシーの城。やがてコンデ家の城となり、そしてオマール公アンリがそれを引き継いだのです。
くどくどと書くのは、ある程度の歴史がわかっていれば、この城の各部屋部屋の意味も理解できるからです。
上の写真で肖像画の下に大きなキャビネットがありますが、ここには大コンデ公の戦争土産(戦利品とした小物類)が納められていました。
【グランド・キャビネット】

上の写真の部屋は Le Grand Cabinet d'Angle と呼ばれ、18世紀の Jean-Baptiste Sené という人物が制作した家具調度が並べられています。
それがあまりにも見事なので、集中的に何枚かの写真を撮っています。家具の説明プレートも撮影してあるのですが、翻訳解読していると時間が掛かりすぎるのでご容赦ください。



西欧のこのようなインテリアでは、「シャンデリア」と「鏡」による演出がとても効果的です。
【大コンデ公の戦績ギャラリー】

Le Grand Cabinet d'Angle を出ると、次は La Galerie des Actions de M. le Prince (ou Galerie des batailles)、つまりは大コンデ公の戦績ギャラリーです。
大コンデ公はこんな風に戦いましたよ、と大きな絵画が並べられている部屋です。
M. le Prince というのは、ムッシュ・プリンス(Monsieur-le-Prince)で、若い頃の大コンデ公の呼び名であったようです。パリにはムッシュ・プリンスという通りがあったりホテルがあったりします。
大コンデ公はそれだけ有名な人なのです。
戦績ギャラリーの様子はまた次回。
余談ですが、学生時代にフランス語を第二外国語として選択していました。
ですから、フランス語の解説と Google翻訳、フランス語辞書があれば、デュマや佐藤賢一さんの歴史小説をたくさん読んでいたおかげで、ある程度のことはわかります。Google翻訳の結果はかなりいい加減ですが、フランス語文法はわかっていますから、どこをどう訳したのか、どういう間違いをしているか、という見当が付くわけです。
今回の旅行がドイツ旅行だったら、こういうことはとてもできません。
なお、昨晩(20日)は落雷が激しく、パソコンで作業することはできないため、ブログの更新は延期せざるを得ませんでした。
【日常の記録】(1週間のまとめ)
7月14日、「お料理はじめての会」第3回に参加。メニューは「ナスとトマトのスパゲッティ」「ポーチドエッグのサラダ」「オレンジアイスティー」
7月15日、スポーツジムでストレッチと筋力トレーニング。PHP新書『後白河上皇〜「絵巻物」の力で武士に勝った帝』(小林泰三・著)を読了。
7月16日、横浜美術館の美術情報センターで読書。「アサヒカメラ」「芸術新潮」「美術手帖」などの雑誌を読み耽りました。
7月17日、「ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展」(世田谷美術館)観に行きました。
7月18日、慶應病院で定期診療。『神去なあなあ日常』(三浦しをん・著)を読了。
午後草むしり。この日から4日連続です。日ごとに時間が長くなり、草むしりが藪の中での草刈りへと変わっていきました(笑)
この一週間で、映画「スタートレック」シリーズを6作観ました。第1作「スタートレック」から「同Ⅱ カーンの逆襲」「同Ⅲ ミスター・スポックを探せ!」「同Ⅳ 故郷への長い道」「同Ⅴ 新たなる未知へ」「同Ⅵ 未知の世界」まで。
また、iPad で電子コミック『幽霊塔』(乃木坂太郎)を第7作まで読みました。

アンリ・ドルレアン(オマール公アンリ)というフランスの王族の方がいまして、彼がまだ8歳の時、名付け親だったコンデ公ルイ6世アンリが嫡子がないまま亡くなったため、シャンティイ城を含む膨大な遺産を相続しました。
フランスはその後1848年に2月革命が起きて、オマール公アンリはイギリスへ亡命しました。18歳の頃です。やがてフランスへ帰国し、1870年代にシャンティイ城を再建。
そして1884年、シャンティイ城を含むシャンティイの所領及び収集した美術品などをことごとくフランス学士院へ寄贈しました。
シャンティイ城は、だから最初モンモランシー家のために建てられたプチ・シャトーがあって、それが革命で破壊され、最後にオマール公アンリが修理・増築・再建した、ということになります。
フランスへ行く前に簡単な調査はしたわけですが、上のような複雑なことは到底憶えきれませんし、現地でひとめシャンティイ城を見たときに、事前調査したことなどは頭の中からどこかへ吹っ飛んでしまっていました。
上の写真は中庭から入り口を入ったところの左側にある大ホールです。
下へ階段が続いているのですが、このときはそれを撮っていません。
正面の奥へ入って行くと礼拝堂があるのですが、このときはそれを知りませんでした。

大ホールの天井画です。
さて、行く手は右と、左と、正面に別れています。
左はこのように大階段のあるホールになっているので、そこは後回しと決めて、次に右。

ここは「鹿のギャラリー」といって、狩猟場面を描写したタピストリーが掛かっています。オマール公のディナー・ルームだったそうですが、そういう情報は、後から調べてわかったのでして、「なんだ、タピストリーか…」と、数枚写真を撮って奥のほうをはどうなっているかと調べなかった。
じつは右奥へとたいへんな部屋が続くのですが、そのときは気が付かなかったのでした。


とりあえず正面へ進むと、そこは控えの間。左へ曲がるとすぐにこの「オマール公の図書室」がありました。
この光景にはびっくりしてしまいました。1万3千冊の本があるのだそうです。



そのあと「衛兵の間」「殿下の寝室」などと続いていくのですが、部屋の家具調度品があまりに豪奢なのに目を奪われ、先ほどの「鹿のギャラリー」のことなどはすっかり忘れてしまっていました。
〈追記〉
「室内なのにきれいな画」とコメントをいただいています。
たとえば「オマール公の図書室」は実際にはかなり暗いのです。ストロボなしで室内灯の明かりを頼りでの撮影ですが、みなさんにはある程度明るい画像を見ていただかないと、何が何だかわからない写真になってしまうので調整しています。
そんな暗い部屋でも撮影できるカメラなので、多少なりとも窓からの明かりがあれば、かなりきれいに撮ることが可能です。

目敏い方は気が付かれたかと思いますが、上の写真はバスの窓の反射光がレンズに入って映っています。
バスがスピードを緩め、「この景色はいましか撮れません」というのですから、仕方ありません。
長い車道をバスで走り、ずいぶん歩いてからやっとシャンティイ城の城館に達するのですから、ここまで徒歩で走って戻ってきて城館の様子を撮影するなどというのは、確かにとても無理なことだ、と後で納得がいきました。

「シャンティイ城」はフランスの首都パリの近郊、電車で約30分ほどのところに位置するシャンティイ(Chantilly)にある宮殿です。
案内には、「城館はグランシャトー(城館)とプチシャトー(小城館)の2つからなる」と書かれていますが、この写真を撮っているときは、そんな区別のあることまでは知りませんでした。
最初1560年頃、数々の戦功をあげた将軍アンヌ・ド・モンモランシー(Anne de Montmorency、男性)のためにプチシャトーが建てられ、そしてやがてこの城館は後にブルボン朝の支流のコンデ家のものとなり、19世紀頃にグランシャトーが建てられて、現在の城館の姿ができあがった、ということのようです。
『三銃士』など読んでいるとコンデ公の名はたびたび登場するので馴染みがあり、ああ王家の1人で軍人として登場したなあ、などと思い出します。
いまはこれ以上書いてもややこしくなるだけなので、とりあえずは城館の様子をご覧ください。
上の写真、駐車スペースでバスを降りて、歩いて城館(Château de Chantilly)に近づきながら撮影しています。見え方がどんどん変わります。なるほど、バスの車内で撮影したシャンティイ城がもっとも優美に見える位置だ、ということに、ぼくも納得がいきました。
城館を大きく撮ってしまうと、周囲の広さが伝わりませんので、下に別の写真を掲載します。

広い敷地なのです。城館の右奥にまでずっと広がっています。庭園は115ヘクタール(約35万坪)、池は25ヘクタールあるそうです。

城館から、カメラを左側のほうへ振っています。
写真の右側のほうの車道を、私たちのバスは見えている門をくぐって、城館のほうへと進んできました。
その門に続いて左側のほうへ大きな建物が繋がっているのは、「馬の博物館」です。
博物館の左側には広い競馬場があります。シャンティイは1830年代から競馬でも有名なところです。

これから右側にあるスロープを上っていきます。
どうやら城館への入り口はその上にあるらしい。写真を撮るのに忙しくて、グループから遅れがちになるので、追いかけるのがたいへんです。

スロープ前の犬の像と城館の尖塔。

スロープを上りきったところにあるスフィンクス。

スロープ上の全景。
後で調べたところによると、ここは中世の要塞の基盤部分であるようです。
これから城館の中へ入るのですが、建物の2階が玄関になっている、と考えればよいようです。

城館の入り口です。
あまりの規模にカメラマンは動転して大きく撮りすぎています。
わかりにくい写真ですが、写真右下部分は石造りの橋で、下を覗けば水面が回り込んだ堀になっています。

入り口の門へ向かうその石橋の上から、右側のほうを向いて撮っています。

入り口の門の左側にある彫刻です。
グループがどんどん先へ行くので、落ち着いて撮っていられません。
門をくぐった先は中庭なのですが、すぐに城館に入ったので、中庭の様子は出てきてから撮りました。
今回の記事では、とにかく見た順番、撮影した順番で写真を並べています。
なお、ここはなんと城館内部の撮影が許されています。「フラッシュ不可」の厳しい条件ですが、こういうときのために、ぼくは高感度で撮影できる CANON EOS5D MarkⅢ を使っているのです。