【凱旋門 シャンゼリゼ大通り側】

シャルル・ド・ゴール広場にある凱旋門は、ふつうエトワール凱旋門と呼ばれています。Etoire とは「星」のことで、ここから道路が放射状に広がっていることから名付けられたようです。
「凱旋門」というのは、塩野七生さん「ローマ人の物語」を読めばわかるのですが、ローマ時代からある風習で、外敵を倒して凱旋した皇帝がこれを建てることが許されていました。
つまり、エトワール凱旋門を建てさせたのはナポレオン・ボナパルトであり、前年のアウステルリッツの戦いに勝利した記念に1806年に建築を命じ、完成した1836年にはもうナポレオンは亡くなっていたそうです。
凱旋門には、シャンゼリゼ大通りとグランダルメ大通りに面した柱のそれぞれに大きなレリーフがありますが、西日が射してよく見えるグランダルメ大通り側のものしか撮りませんでした。
シャンゼリゼ通り側にあるというリュード作「出陣(ラ・マルセイエーズ)」と、コクトー作「勝利」は有名ですが、全体を撮ったこの写真しかありません。左が「勝利」、右が「ラ・マルセイエーズ」です。
【凱旋門 グランダルメ大通り側】

グランダルメ大通り側にあるのはエテックス作「平和」と「抵抗」だそうですが、どちらがどれでしょうね。
レリーフの様子から見ると、左側が「平和」、右側が「抵抗」のように感じます。
【レリーフ「平和」】


【レリーフ「抵抗」】


【凱旋門を下から】

時間があれば凱旋門に登ってみるつもりでしたが、この時間でも長蛇の列。周囲の写真を撮り終えた頃には、チケットの最終販売が終わっていました。
【無名戦士の墓】

凱旋門の下、花で囲まれているのは、第一次大戦の無名戦士の墓だそうです。

凱旋門の下、無名戦士の墓のあたりから、シャンゼリゼ大通りを見ています。
このあと、広場の下の地下鉄駅「Charles de Gaulle - Étoile」からメトロでホテルまで帰ることにしました。
ホームはかなりの混雑ですが、その中で調子のよいサックスの音色が聞こえてきます。かなり年輩のアフリカ系の方が吹いていて、周囲のメトロ待ちの人たちはノリノリで身体を動かしていました。
地下鉄は5駅目の Bir-Hakeim(橋の名前)で降りて7分ほど歩きました。10時近くなっているのですが、この時間でも店先の野外で食事をしたりお酒を飲んだり、パリジャンは元気です。
ホテルに着くと、かみさんがギャラリー・ラファイエットで買った Laduree のマカロンを食べさせてくれました。
【環状交差点(ラウンドアバウト)について】
昨晩コメントの多かった「環状交差点」ですが、フランス、イギリスでは有効に機能していました。
交差点が連続する大都市の内部では不向きなような気がしますが、郊外では、事故の減少、渋滞の減少に大いに寄与すると思われます。
日本がこれを認め始めたのはよいことだと思われます。

6月16日19時半くらいだったろうか、ぼくはコンコルド広場から凱旋門まで、シャンゼリゼ大通りを歩いて行こう、としていた。

地下鉄の駅を3駅もはさむが、ふつうに歩いて30分弱、途中どこかのカフェで夕食を食べるつもりでいた。
距離にしてほぼまん中のフランクリン・D・ルーズヴェルト駅くらいまでは緑豊かな並木の中を歩き、そこからがいわゆる目抜き通りだ、ということは承知していた。

フランクリン・ルーズヴェルト駅まであと少し、左側にグラン・バレ(Gland Palais)が見えてきた。
1900年のパリ万博万国博覧会のために建てられた、大規模な展覧会場・美術館だ。シャンゼリゼ通りからは建物を横から眺めるかたちになり、正面からのすばらしい眺めは得られない。

いよいよ目抜き通りが見えてきた。

写真はルイ・ヴィトンのシャンゼリゼ本店だ。有名な店だが、夜間一人歩きのぼくにはとくに用はない。
路上に座席を出したカフェがたくさんある。
格式が高いところへ入ってみたいけれど、テーブルでワインとパイプ、服装も洒落たおじさんたちが多いところはどうも気後れする。
安そうなところで飲み物とサンドイッチを注文したが、フランスパンだから堅い。食べるのがけっこうたいへんだ。
闖入者があった。民族衣装のような服装で肌の色がやや濃いおばさん、席まで来て「金を恵んでくれ」という。
断固として断ったがかなり執拗だった。
インド系の顔立ちとか服装とか、あとで記憶を辿ると、いわゆるロマないしロマを装っていた物乞いかと思われた。(日本ではよく知られている用語が差別用語とされているらしいので、最近読んだデンマーク・ミステリに倣い、「ロマ」としておく)
二十分ほどの休息の後、いよいよ凱旋門へ向かう。

上は有名なキャバレー「Le Lido」だ。日本的な感覚でいうキャバレーで理解しようとすると間違う。高級なディナー・ショウみたいなものらしい。
いつかは Lido で一晩楽しんでみたい、と思うけれど、どくらいの価格なのだろうか。

凱旋門まであと少し。
強い西日の逆光で見えてきて、やっと到着だ。

【日常の記録】
9月4日、証券会社担当者と打ち合わせ。草むしり。映画『X-Men』。
9月5日、横浜トリエンナーレ2014/新港埠頭会場。『ウッドストック行最終バス』(コリン・デクスター)読了。映画『死霊のはらわた』。
9月6日、家事、写真整理。夕刻、スポーツ・ジムでストレッチ&筋力トレーニング。
「ディックの本棚」を更新しました。
SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと/チャールズ・ユウ
窓から逃げた100歳の老人/ヨナス・ヨナソン
【地下鉄を降りてコンコルド広場へ】

『刑事ジョー・パリ犯罪捜査班』というジャン・レノ主演のフランスTV映画シリーズがありまして、その第三話、「コンコルド広場にそびえるオベリスクの下で、ベルナールというクライマーの死体が発見されます。一見して、塔からの落下事故だと思われましたが、検死の結果、殺人と判明。刑事ジョーは、被害者はオベリスクの向かい側ホテルの部屋の要人を盗撮するためにオベリスクにカメラを設置していたところ、殺害されてしまったのだ、と見抜きます」
こういう海外TVシリーズをよく見ているものですから、シャンゼリゼ通りを抜けて凱旋門へと抜け、そこから地下鉄でホテルへ帰る予定のところ、コンコルド広場で下りてみよう、と思いました。

写真はフランスの8大都市を象徴する女神像で、コンコルド広場に8体あるうちのひとつです。
写真の女神がどこの都市なのか、わかりません。

広場が広すぎて、オベリスクまでどうわたったらよいのか、と迷いました。
パリジャンの様子を見ながら、フランスで初めての信号無視をやりました。信号1回ではオベリスクまで行けない仕組みでした。
【オベリスク】

オベリスクというのは、古代エジプト(特に新王国時代)期に製作され、神殿などに立てられた記念碑(モニュメント)の一種でして、ワシントン塔とこのコンコルド広場の塔がとくに有名であるように思います。

「船の建造の仕方」でしょうか。

まあ、こんなものを見上げてみてもたいしておもしろくもないですし、コンコルド広場は彫刻と噴水とオベリスクがあるだけ。ブルボン朝の歴史好きにとっては、ルイ16世とマリー・アントワネットがギロチンにかけられた広場だと感慨に耽る程度のところです。
【コンコルド広場の周辺】

結果的に立ち寄ってみてよかった、と思うのは、ここはパリの観光地図を理解するのにとても便利な場所だということ。
噴水の背景の建物はたぶんフランス海軍省だろう、と思うのですが、その左側は北へ向かう広い通りです。
北側へ伸びた通りを行くと正面がマドレーヌ寺院で、その北東にさきほどのオペラ座があります。

海軍省の並びの建物群。
例のセーヌ県知事ジョルジュ・オスマンのパリ改造計画で、建物の高さを一定とし、建物の外壁の様子や石材を統一した話を思い出してください。

西側へ延びた道路はシャンゼリゼ通りで、かなり先のほうに巨大な凱旋門が見えます。

東側はテュイルリー公園を経てルーブル美術館。

南側はセーヌ川の橋(コンコルド橋)を渡った先にブルボン宮殿(国会議事堂)が見えます。

ぼくにとっては東側にとくに惹かれますが、時刻はそろそろ20時、シャンゼリゼ通りのどこかのカフェで食事を済ませ、凱旋門を見てからホテルへ帰らねばなりません。
というわけで、広場をシャンゼリゼ通り側までわたったところです。
この頃から、ちょっと生意気な考えが芽生えてきます。
付近のホテルへ泊まっていれば、地下鉄と徒歩でどこへでも歩いて行ける。食事はカフェで済ませるつもりなら安い。美術館もルーブルだけでなく数多いし、近いところに名所がたくさん集まっている。これならパリ7日間とか、ホテルと航空券だけの安いツァーでパリまできて、それで十分遊べるではないか、と。
それに、郊外もヴェルサイユくらいだったら日帰りツァーがたくさんあるし、日本であらかじめ予約して、バスに乗る場所など教えてもらっておけばよい、と。
パリの利便性は東京23区内ととてもよく似ているので、言葉は片言の英語だけでもなんとかなりそうな気がしてきました。

「オペラ座」というのは、ブルボン朝時代に創設されたフランスの国立オペラ団体の公演のための施設です。
ユゴーの『レ・ミゼラブル』を読まれた方はおわかりと思いますが、19世紀半ば以前のパリというのは、狭い通りに建物が建ち並び、通りに張り出した屋根からの排水が道の中央の排水溝に流れ落ちるようになっている、というたいへん不潔な都市でした。パリでさえ、豚が放し飼いにされていたということさえあったようです。
住民は生ゴミや汚物を通りに投げ捨て、道の窪みや溝にはそれらがたまり、河川には動物の糞・廃棄物・汚物などが流れ込む。市民はそれらの川の水を飲料水などに使用する。そういう生活環境でした。

この状況を改善したい、と力を振るったのが、セーヌ県知事のジョルジュ・オスマンです、
幅員の広い大通りをつくり、狭小な建物は取り壊して建て直す。上下水道施設を整備し、学校や病院などの公共施設の拡充を図る。
パリという都市の改造を行ったのです。街路に面する建造物の高さを定め、軒高が連続するようにしたほか、屋根の形態や外壁の石材についても指定したそうです。さらに著名な建築家を登用し、ルーブル宮やオペラ座(1874年竣工)などの文化施設の建設も進めました。
現在観光客が眺めているのは、ジョルジュ・オスマンのパリ改造事業の結果として整備されたパリを眺めている、ということになるのです。
上2枚の写真はオペラ座の南側の正面です。
観光用の案内写真は、ほとんどこの位置から撮影されています。

さて、オスマンの都市整備事業の最中に建てられたオペラ座ですが、外観および内装には、たくさんの彫刻を飾り、華美な装飾が施されました。建材には鉄が使われ、巨大な空間を確保することに成功しました。
建築案はシャルル・ガルニエという人の案を採用したので、オペラ座は「ガルニエ宮」とも呼ばれています。

ちなみに、ガストン・ルルーというミステリ・タッチの小説を書く作家がいまして、オペラ座があまりに大きく、地下には広大な奈落があったので、そのどこか奥深いところに怪人が潜んでいたら…、というようなアイデアを小説にしました。『オペラ座の怪人』です。
ミステリ好きの人は創元推理文庫で『黄色い部屋の謎』という小説を読まれた方がいらっしゃるかも知れません。(ぼくは読みました) 密室トリックを扱った小説で、ガストン・ルルーが書いたものです。
上の写真はオペラ座の東側の様子です。
百貨店ギャラリー・ラファイエットを出てオペラ座の一般的に知られている正面から写真を撮りたい、思ったものの、建物があまりに大きすぎて、うろうろと周囲を回ったのです。
このオペラ座東側の向かいに、アップル・ストアがありました。

ぼくは MACを愛用している Apple のファンですから、トップの写真を撮る前に、ちょっと店内を覗いてみました。リンゴ・マークの黒いTシャツを着たスタッフが、お客さんと楽しそうにしゃべっていました。
原宿や銀座のアップル・ストアが未体験なのに、真っ先にオペラ座の店へ入ってしまったのでした。

周辺の街路の様子です。
さきほど、セーヌ県知事のパリ改造事業の描写で、「街路に面する建造物の高さを定め、軒高が連続するようにしたほか、屋根の形態や外壁の石材についても指定した」と書きましたが、ここでもういちど街路の様子をじっくりご覧いただきたい、と思います。
なお、上の写真には時計が写り込んでいまして、撮影時刻は19時35分過ぎのようです。
まだかなり明るいです。

「コンコルド広場」へ行くのに、地下鉄へ乗っていこう、と思いました。
「路線図」をじっくりとよく見て、「行き先(終点の駅)」を間違えないようにしさえすれば、市内は1.7ユーロで地下鉄に乗ることができます。
大きな駅ではほかに乗降客がいるので問題ありませんが、ドアにはかぎ爪型のストッパーが自動的に掛かっているので、待っていてもドアは開きません。ストッパーを外すとドアは自動的に開きます。
知らないで待っていると、列車はまた発車してしまいます。
上の情報はあらかじめ添乗員のTさんからしっかり教わっておりました。
注: フランス語の発音は要注意です。日本語の駅名がフランス語のスペルではどうなるか、発音の基礎を知らないと、駅名を目で見ても、目的の駅かどうかがわからない可能性があります。英語のスペリングの常識は通用しません。(第二外国語がフランス語でよかった!)
【吹き抜け部分天井の全体図】

ギャラリー・ラファイエット本店の吹き抜け部分天井全体を撮影した写真を、きちんとブログに載せるよう、かみさんから指示がありましたので、まず最初に掲載いたします。
【オペラ座を臨む】

ギャラリー・ラファイエットは7階建ての建物なのですが、屋上へ出るには何回もエスカレーターを乗り継いで昇らなければなりません。
古い建物ですから、屋上へ近づくほど狭くなりまして、かなり窮屈なスペースの中、最後は階段を昇ることになります。
上の写真、左側に見えている大きな建造物がオペラ座です。

今晩の写真は、有名なオペラ座とその付近の建物を、ギャラリー・ラファイエットの屋上から撮影したものです。
ネットでオペラ座の写真を検索しますと、南側から豪華な正面をまっすぐに撮影したものばかり。
ここで並べたような写真は、個人のブログならではのものです。


【ギャラリー・ラファイエット屋上からのエッフェル塔】

かみさんとは、3階で別れています。
これからの「パリの夜」はまったくの個人行動になります。
この景色をかみさんは見たのか、見なかったのか…。

こういう写真、とてもよいところにシャツ姿の男性が立っていてくれまして、それで臨場感が生まれます。
嬉しくなります。

6月16日のパリの夜は自由時間でしたが、帰りのバスの中で添乗員のTさんが「買い物をするなら百貨店の”ギャラリー・ラファイエット本店”が最も商品が充実ししていて便利です」と力説。
ぼくは「パリに来てまで百貨店なんて…」と思っていましたが、その気持ちを見透かしたように「建物は歴史的建造物で一見の価値があり、さらに屋上からのオペラ座ほかの眺めがよい」とギャラリー・ラファイエットを薦めます。

いずれにせよ、観光バスの駐停車制限があるので降車場所はオペラ座付近になることから、ぼくはとりあえずギャラリー・ラファイエットへ買い物に行くグループのあとについていくことにしました。
たしか3階にあったチョコレート売り場まで同行し、あとは「自由に買い物」ということで解散となったのですが、「ギャラリー・ラファイエット」内の各販売店の様子というのは、たいへん贅沢で、お洒落で、日本のデパートのイメージとはずいぶん異なるのでした。

そして驚かされたのはこの吹き抜けです。
「一見の価値あり」とはこのことか…、と唖然。

ギャラリー・ラファイエットはフランスの最大百貨店チェーンの一つで、本社は、1893年にランジェリーショップとして創業。現在は5階建てで1万8千平方メートルの売り場面積がああるそうです。
写真の吹き抜けドーム天井の照明はエッフェル塔のライトアップも手掛けたフランスのアーティスト Yann Kersale 氏によるもので、約3500のLED照明が華やかなガラスモザイクの背後に取り付けられているそうです。


上の写真の吹き抜け天井部分、中央が小さいドーム状となっています。
後刻屋上に昇り、このドーム部分の外がどうなっているかに気が付きました。

舞台裏は見なかったほうが夢があったような気もするのでした。
【6月14日 18時〜19時頃】

パリで滞在した Hôtel Novotel Paris Tour Eiffel の前で撮影しました。
赤い色の高層ビルが Hôtel Novotel Paris Tour Eiffel です。tour というのは英語の tower で、Tour Eiffel = エッフェル塔です。

添乗員のSさんの説明では、このホテルは元は日航ホテルであり、いまも日本航空の乗務員の宿泊所として使われているとのこと。日本語は通じませんが、英語はまずまず通じます。
このホテルに14日夕刻に到着・宿泊して、15日は「フランスの最も美しい村々」のひとつジェルブロワとジヴェルニーの「モネの家と庭園」に出かけました。16日は「シャーリー修道院」「サンリスの町で昼食」「シャンティイ城」「バガテル公園の庭園」を見て、夜は自由行動。
17日朝にイギリスへ移動という日程でした。

ホテル前で咲いていたアジサイです。色が濃い!
以上の写真は到着した14日の午後7時頃に撮影しました。
青空が出ています。夜9時頃になってようやく夕刻となり薄暗くなり始めるので、日本の時間感覚でいるとかなり戸惑いを感じます。
【6月15日 朝8時頃】

ホテルと周辺の施設は2階屋上で繋がっています。
屋上へ出て撮影しました。御存知と思いますが、ニューヨークの「自由の女神」はフランスが米国に贈ったもので、発祥の地はフランスです。

朝8時頃の撮影です。曇っているように感じますが、バスに乗車して郊外へ出た頃には晴れ上がる。英仏通してそんな天候でした。「ヨーロッパの天候は1日のうちでころころと変わるので要注意、パスを出るときは折りたたみ傘や何か羽織るものを…」と言い続けていた添乗員のSさんでした。旅行中は、その天候が常によいほうへ変化したのでした。
ぼくも最初のうちは用心していましたが、歩き回ると汗をかくので、そのうちTシャツに半袖シャツを羽織っただけで済ますようになりました。

ホテル前の写真。セーヌ川クルーズの発着所が近くにあり、クルーズ船が見えています。

セーヌ川の対岸は旧市街。石造りの建物がたくさん並んで見えています。

ホテル前の大木はトチノキでしょうか。実がなっているのがわかります。
【日常の記録】
7月2日、晴れたので、地下鉄舞岡駅から山の中を歩く道を舞岡公園まで歩いてみました。
帰路は平地を歩きました。
舞岡神社付近の田んぼを歩いているアオサギを発見。よい写真が撮れました。