【横川中堂への道】

西塔のバス亭兼駐車場で、横川(よかわ)行きのバスを約30分待った。
朝食後何も食べていないのだが、ここはただバス亭があるだけだった。
横浜から来たという同世代の夫婦と、情報交換し、話をした。
バスは濃霧の中、ろくに前方が見えないのにかなりのスピードで飛ばす。それでも横川にはなかなか着かない。当初西塔から横川まで歩くという計画があったのだが、バスが走っている距離を考えると、それはあまりにも無謀に思えた。

バス亭を下りて、横川中堂めざして歩いて行く。
雨と霧は相変わらずだ。
【横川中堂】

さてはこれが横川中堂か、と見上げる。
こういう姿勢で写真を撮ろうとすると、レンズに雨が降り注いでくる。すばやくささっと撮らねばならない。あれこれ調整している余裕などない。

横川中堂の全体像を撮ろうとしたが、無粋なベンチだの立て札だの、入れたくないものが多い。
離れれば雨と霧、細部が見えなくなってしまう。
比叡山のホームページによると、舞台造りで全体的に見て船が浮かんでいる姿に見えるのが特徴だという。お堂の中央部が2メートル程下がっていて、そこに本尊として慈覚大師円仁(えんにん)作と伝えられる聖観音菩薩が祀られている。
現在の建物は昭和46年に再興された建物だ。

中堂の廊下で一枚撮影した。雨のないところへ入るとほっと息をつける。
【恵心堂】

横川中堂を離れ、約10分ほど歩いた。
恵心堂は 源信の旧跡であり、阿弥陀如来を祀り、念仏三昧の道場だ、という。源信はこの恵心堂において『往生要集』などを著わし、後の浄土宗や浄土真宗などの源となる日本浄土教の基礎を築いた。

この恵心堂付近、木々と霧とが織り成す光景がじつに美しい。
すでに雨と霧で上半身はびっしょりと湿っているのだが、こういう得難い光景を見つけると、雨と霧の日でよかった、と思うのだった。

【元三大師堂】

元三大師堂(がんざんだいし)は、良源(元三大師)の住居跡と伝えられる。967年、村上天皇の勅命によって四季に法華経が論議されたことから四季講堂とも呼ばれているそうだ。
現代のおみくじの形は、良源が考え出したと言われており、この元三大師堂はおみくじ発祥の地だ、という。
【帰り路の横川中堂】

帰り路、横川中堂の崖の下を通る。ここから見上げるのが一番美しいような気がした。
【根本如法塔への道】

この上に根本如法塔(こんぽんにょほうとう)という塔があるという。階段を見上げ、帰りのバスの時間に間に合わないことを恐れ、断念せざるを得なかった。
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9月9日、きょうは朝の気温があまり上がらず、清々しい一日となりそうな予感がして、東京都立川市の昭和記念公園まで出かけました。片道約2時間弱のドライヴです。
主として大きな木々の林と、その下の藪の辺りをうろうろと、約四時間の散策でした。
替えレンズ二本とアングル・ファインダーを携えてのフル装備。さすがに少し疲れましたが、久しぶりに満足できました。一番重い望遠レンズは、結局は使わなかったのですけれど…(笑)
比叡山の記録も終わりましたので、本日の成果は近日中に発表できるでしょう。
【弁慶の「にない堂」】


上の写真は、2枚が並ぶように、ブラウザのサイズを調整していただければ幸いです。
さて、西塔の中心「釈迦堂」へと下る階段の前に、ふたつのお堂が立ちはだかっている。
左が「常行堂」、右が「法華堂」であり、このそっくり対称形の建物を結ぶように廊下が渡されている。
この廊下のところを、弁慶がえいやと担ぎ上げたという、伝説があるのだそうだ。どんなに弁慶が力持ちでも、廊下のほうが重荷に耐えられず折れてしまうと思うのだが、そういう突っ込みが入ったという話は聞かない。
この廊下の下をくぐり、正面の階段を下りていったところに「釈迦堂」があるが、階段の途中で左側にお堂が見えてくる。
【恵亮堂】

「恵亮堂」というお堂だ。
立て札しか手掛かりはない。
「恵亮和尚(800〜859)を本尊として祀る。この和尚を大楽大師と称し、当時お山の中では修力霊験にもっとも優れた和尚であり、京都の妙法院を創建した人である」とのこと。
【釈迦堂】

階段を下りきって、広場の向こう、霧の中に横たわる「釈迦堂」が見える。釈迦堂は通称であり、「転法輪堂」というのが正式名称らしい。
比叡山・延暦寺に現存する建物のうち最古のもので、もとは三井寺(園城寺)の金堂だったのを秀吉が移築させたものだという。
上の写真ではなんだかわけがわからないので、近寄って撮ると朱塗りであることがわかる。
建物は古く、塗りが傷んでいる。

【釈迦堂での雨宿り】

相変わらず雨と霧がひどく、雨宿りしながら釈迦堂前の広場を眺め、空を見上げて天候を覗う。

【階段を登ってにない堂へ戻る】

諦めて、下りてきた長い階段をもう一度登る。
上の方に見えているのが「にない堂」のつなぎ廊下の部分だ。

【聖光院跡付近】

さきほど親鸞聖人修行の地などがあった辺りへ、道を戻っていくと、はっとするほど美しい光景が目に入ったりする。木々と霧が創り出すハーモニーのおもしろさ。

この灯篭の立っている辺り、「聖光院跡」との碑がある。定かではないが「親鸞聖人が修行したお堂が聖光院なのではないか、と思われたが、確信はない。
【椿堂】

谷を下り「椿堂」までおりてみることにした。この建物には伝説がある。
聖徳太子が比叡山に登られた時に使われた椿の杖を此の地にさして置かれたところ、その椿が芽を出して大きく育ったという因縁から、此のお堂が椿堂と名づけられた、というのだが、唐突に聖徳太子が出てくるのがなんとなく妙な感じがする。
これで「西塔」エリアのめぼしいところはほぼ見終えた。
「西塔バス亭」を目指して道を右に曲がり、また長い階段を登っていった。「西塔バス亭」から横川まで、バスで移動しようと考えていた。
確か時刻は13時頃であり、空腹で疲れていた。バス亭に何か食べ物を売っていないかと期待したのだった。
午前中、坂本駅を出たのは9時頃であり、滋賀院門跡、慈眼堂と歩いて坂本ケーブルの駅まできたが、どこにも食べ物を販売している店がなく、弁当を買い損ねていたのである。
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9月6日、久しぶりに三菱一号館美術館を訪れた。浮世絵の美術展を観るためだ。
東京駅を下りてびっくりした。
KITTE (旧東京中央郵便局の局舎)のある辺り、見え方が一変している。アトリウム(ホールという言葉では十分表現したことにならない)を抜ける頃、ガラス張りの屋根を見上げると向こうに高層ビルが二棟。
正面が三菱東京UFJ銀行だということは知っている。すぐ左は TOKIA。TOKIA って何だろう?
日本で初めて特例容積率適用区域制度が適用され、JR東京駅丸の内駅舎の未利用容積率の移転を受けたことと、隣接する東京三菱銀行本店の敷地も同一区画として認定を受けたために建設可能となったオフィス・商業ビルだそうだ。
この場所は旧東京ビルヂング。新ビルは、三菱地所、JR東日本、三菱東京UFJ銀行の共同デベロッパーということらしい。地上3階までは商業施設、その上は、三菱電機、JPモルガン、田中貴金属工業ほかが入居しているらしい。
【山王院堂】

さて、「西塔」区域へ行くにはバスへ乗るか歩いていくかの選択があるが、さほど距離があるようではなく、十分歩いて行ける、と考えた。
西塔へいくにはそこの「山王院堂」の横を通って行くように…、と言われていた。
山王院堂は、第六祖智証大師圓珍の住房だった、という。
圓珍滅後さらに百年。圓珍派と慈覚大師圓仁派とのあいだに紛争が起こった。圓珍派はこの山王院堂から圓珍の木像を背負い、三井寺(園城寺)へ移住した、と言われている。
何の変哲もないお堂だが、このように歴史的には重要なお堂なのだ。
【西塔へと下る道】

山王院堂を出ると、道がかなりの下り坂である。立て札でもあって、「この先西塔」とでも出ていれば心配しないが、このような急な下り坂をどんどん下りていってよいものか、と不安になるのだった。

仕方なくどんどん下りていくと、何か門のようなものが見えてきた。
「西塔への途中に浄土院という寺がひとつある」と言われていた。その浄土院らしい。
【浄土院】

比叡山のホームページによると、浄土院には伝教大師最澄の御廟がある。56歳で入寂された大師の遺骸を、慈覚大師圓仁がここに移して安置した場所だとのこと。 東塔地域と西塔地域の境目に位置し、所属としては東塔地域になるそうだ。
【浄土院から釈迦堂への道】

浄土院を出て、いよいよ西塔の中心である「釈迦堂」目指して歩いて行く。
その道は写真のような雰囲気で、途中には「親鸞聖人ご修行の地」などの碑が建っている区画もあった。

【親鸞聖人ご修行の地】

【にない堂のうち「法華堂」】

いきなり目の前に現れたこの建物は、まだ「釈迦堂」ではない。「釈迦堂」へ下る階段の前に、「常行堂」と「法華堂」が並んで建ち、廊下と楼門がふたつの建物を繋いでいる。これは法華堂のほうだ。
「弁慶が両堂をつなぐ廊下に肩を入れて担った」との言い伝えがあり、ふたつ合わせて「にない堂」とも呼ばれているらしいが、この先は次回の記事といたしたい。
さて、ハンドルネームとか、ペットの名前とか、名前を話題にしてきたので少し続けたい。
ぼくがハンドルネームを借りている英国作家ディック・フランシスの本名は、Richard Stanley Francis だ。Dick というのは Richard の愛称だが、作家名はあくまで Dick Francis である。
鈴木一郎が本名でも、選手名は イチロウ というのと同じだ。
愛称というのはおもしろくて、リッチー(Richie)なんていう呼び名も Richard の愛称である。
歌手のリッキー・ネルソン(Ricky Nelson)もそうなのかと思ったら、こちらの本名は Eric Hillard Nelson であり、Eric → Rick → Ricky らしい。
ちなみに Dick という言葉は、スラングとしてはとても嫌な使われ方をすることがある。my とか、前に所有格がついたりすると、直訳は憚られる。米国の小説を読んでいると、この隠語はかなりよく使われているようだ。
【ここを登れば阿弥陀堂】

比叡山を観光しようとすると、ほとんどの方は訳がわからぬ思いをするだろう。
まず区域が三つに分かれている。「東塔エリア」「西塔エリア」「横川エリア」の三カ所で、だいたい読み方がよくわからない。
それぞれ「東塔(とうどう)」「西塔(さいとう)」「横川(よかわ)」と読むのであって、知らずに妙な読み方で道を尋ねると恥ずかしい思いをする。
「東塔」は「延暦寺発祥の地であり、本堂にあたる根本中堂を中心とする区域」だそうだが、それではなぜ「東塔」というのか、説明がない。
阿弥陀堂の隣りに「法華総持院東塔」というのがあり、これが名前の由来かとも思うが、この建物は東塔エリアの中心的な建物ではないのだ。
【阿弥陀堂前から法華総持院東塔を望む】

ついでだから、続ける。
「西塔」は「本堂にあたる釈迦堂を中心とする区域です」とある。西塔区域の本堂ということであって、比叡山全体の中心はやはり「根本中堂」らしい。このエリアには「西塔」とよぶべき塔は見当たらず、単に「東塔」と区別するために「西塔」と呼んでいるとしか理解できない。
「横川」は「本堂にあたる横川中堂を中心とする区域です」とあり、この本堂も横川区域の本堂という意味だ。西塔から北へ4キロほども行ったところにあり、深い山の中なので、東塔から西塔へは歩いても横川へはうかつには歩けない。
この辺りを「横川」と呼ぶのは、何か地名の理由があったと記憶しているが、詳細は忘れてしまった。
【法華総持院東塔全景】

三地域の中では「東塔」が一番観光客が多く、「東塔」→「西塔」→「横川」の順に、さらに奥深いところへきたぞ、という気分が味わえる。
それで、今回は東塔の語源であろうかと思われる「法華総持院東塔」と隣の「阿弥陀堂」の紹介だ。
上の写真は「法華総持院東塔」の全景だ。
【阿弥陀堂と法華総持院東塔を結ぶ廊下と楼門】

上の写真は、左が「法華総持院東塔」、右が「阿弥陀堂」で、このふたつはご覧のように楼門と廊下で結ばれている。
「阿弥陀堂」は昭和12年に建立された、壇信徒の先祖回向の道場だそうだ。
【東塔下で雨宿り】

東塔下で雨宿りをしている。
「法華総持寺東塔」は昭和55年に阿弥陀堂の横に再興された。
比叡山のホームページの説明によると、伝教大師最澄は日本全国に6か所の宝塔を建て、日本を護る計画をされたが、その中心の役割をするのがこの東塔になる、とのことだ。
伝教大師との言葉が出たが、昨日の記事で「大師」の意味を書いてある。
【東塔前から阿弥陀堂を臨む】

二枚目の写真とは逆に、「法華総持院東塔」前から「阿弥陀堂」を見て撮影している。
ご覧のように、この日は雨と霧で、全体が見渡せるようなまともな写真はほとんど撮れていない。
なお「根本中堂」「戒壇」「大講堂」はすでに記事にしたので、これで「東塔」区域の写真紹介はすべて終えた。次回は「西塔」エリアまで歩いて行く。
さて、二晩つづけてSFのことを書いてきたので少し続けたい。
まだ暑いので、季節もちょうどよい。というのは、SF小説のベスト・テンというと必ず1位に食い込んでくるのが、ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』という作品だ。アイデアが豊富で、かつロマンティックなストーリーが人気だが、猫好きの方にも愛されている。主人公の飼い猫にピートという猫が出てくるのだ。
犬好きの方にはディーン・R・クーンズのSF小説『ウォッチャーズ』を奨める。
アインシュタインという名の賢い犬が出てくる。
わが家の先代のボーダー・コリーは、最初アインシュタインと名付けようかと思ったが、呼びにくいのでやめ、スパンキーは『ちびっこギャング』の男の子の名前からいただいた。
現在の愛犬スキップは、映画『マイ・ドッグ・スキップ』からもらって命名した。したがって、スキップは呼び名であり、正式な名前ではない。スキップは動詞で、正式名は「はねる」ではなく「はねる者」のほうだ。
【ここを登れば慈眼堂】

「○○大師」という名称は、中国や日本において、高徳な僧に朝廷から勅賜の形で贈られる尊称の一種で、多くは諡号であるそうだ。
「慈眼大師(じげんだいし)」というのは、徳川家康の側近として力のあった「南光坊天海」のことだ、とブログ「花と滝とつれづれ日記」の紗真紗 さんから教えてもらった。
「慈眼堂(じげんどう)」というのは天海の廟所のことで、そのひとつが川越市喜多院にあり、紗真紗さんがたびたび紹介されている。
「慈眼堂」はほかにも日光市の輪王寺と大津市坂本にあり、この記事で紹介するのは大津市坂本の慈眼堂だ。
【慈眼堂と前庭】

なお「廟所」というのは、ここでは天海の霊を祭った場所ということで、墓所ではない。天海の墓所は日光市にあるそうだ。
さて、大津市坂本に「慈眼堂」があるのは、天海が天台宗の僧侶であり、比叡山の中興の祖と言われているからだ。現在の比叡山の中心となっている根本中堂は、織田信長の焼き討ちの後に、慈眼大師天海の進言により、徳川家光によって再建されたものだそうである。

さて、以上まとめると、坂本の慈眼堂は、比叡山南光坊に住んでいた天台宗の僧 天海の廟所だ。
江戸時代初期の建物で、裏へ回っていくと、歴代天台座主の墓、桓武天皇の御骨塔などいろいろと建っている。
静かな廟所である。
2013年5月29日、ぼくはここを訪問してから坂本ケーブルで比叡山へと登っていった。


【慈眼堂の裏手】

ところで、今はニックネームという呼び方が流行っているが、インターネットになる前のパソコン通信の時代には「ハンドル」または「ハンドルネーム」といった。
「ディックの花通信」のようなブログで「ディック」というハンドルは違和感を感じられる方も多いと思うが、ぼくはこれで約18年間「ディック」をハンドルネームとして使っており、「ディックの本棚」のほうでは、古くからのお付き合いの方には「デイック」と言えば通じるくらいになっているので、いまさら変えるわけにはいかない。
こちらでは昨日カミング・アウトしたが、SFが好きだ、とずいぶん語ったので、映画『トータル・リコール』の原案となる小説を書いた作家「フィリップ・K・ディックのディックですか?」とよく尋ねられる。そうではなくて、英国の作家ディック・フランシスの名前を借用したものだ。
SF的なアイデアは大好きだが、SF作家は人物造型が下手くそなことが多く、小説としてはどうも…、という作品も多い。ディック・フランシスはミステリ・冒険小説の分野の作家である。

ふたたび5月29日の朝の坂本の町へ、時間を巻き戻したい。
写真は「滋賀院門跡」(しがいんもんぜき)の門前だ。ここの石垣が、坂本にある穴太(あのう)積みの石垣の中でももっとも有名らしい。大小の不定形の石がしっかりと積まれているのだ。

さて「門跡(もんせき、もんぜき)」は、皇族・貴族が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。
「滋賀院門跡」と書いてあったら、「うちはそんじょそこらの寺とは違う、寺格が高いんだぞ」と言っているのだ。
京都へ行ったとき、お寺の塀に横に線が入っているのをよく見かける。筋塀(すじべい)といい、塀に筋が入っているのは御所や門跡寺院であり、五本が最高だそうだ。
これを教えてくださったのは「滋賀院門跡」の受付の方で、おかげでずいぶんといろいろ勉強させていただいた。
というわけで、写真では、塀の筋の本数を数えてみていただきたい。

滋賀院門跡は比叡山の「里房」である。「黒衣の宰相」とも称された天台宗の僧天海が、後陽成天皇から京都法勝寺を下賜されてこの地に建立した。(その後火事にあって再建)
さて、それでは「里房」とは、滋賀県観光情報のオフィシャルサイトによると、
「里坊」とは、比叡山延暦寺の三塔(東塔・西塔・横川)十六谷といわれた山上の「山坊」に対する言い方で、山麓にある各堂宇のこと。
里坊は、比叡山の山上で修行していた老僧が座主から賜って住んだのが始まりで、山坊とは違って、普通の住居のように庭園が造られた。当初、里坊は、いくつあったのか不明だが、現在は50数力所が数えられる、そうである。
というわけで、上と下の写真は「滋賀院門跡」の庭園だ。

以上をまとめると、滋賀院門跡は天海が天皇から賜って移築した寺院(里房)だが、代々の天台座主がここに住んで御座所とした。天台座主は親王が勤めた例が多く、だから「滋賀院」は「門跡」なのである。

滋賀院門跡の建物を出て、建物を右側に見ながら、隣接の「慈眼堂」へ行こうとしている。
「慈眼堂」は天海和尚の廟所だ。

この階段を登れば「慈眼堂」だ。
【比叡山・戒壇院】(5月29日)

戒壇院だ。根本中堂および大講堂から歩いて数分である。

仏教史を読むと、わが国は唐からわざわざ鑑真を呼んで754年に東大寺に戒壇をつくり、日本で始めて授戒の儀式ができるようになった、とある。授戒を受けて戒律を守るものだけが僧として認められるようになったのだ。
だから唐招提寺も東大寺も、そして新しく戒壇を設けて東大寺に代わって日本の近代仏教の中心となった比叡山にとっても、戒壇院とか戒壇堂とかはたいへん重要な建物のはずだ。
しかし上のどの寺院にいっても、そのような説明はほとんどなく、戒壇院はひっそりと佇んでいる。
雰囲気重視の観光客は地味な建物はおもしろくないのだろう。

806年、比叡山に戒壇が設けられたことによって、比叡山は大乗仏教の中心として、数多くの学僧が修行をする場となった、とぼくはそう理解しているのだが…。
比叡山は日本の仏教の中心地として、大勢の学僧がここで学んだ。
後の各宗派の宗祖たちも、比叡山で修行したのである。
比叡山で修行した著名な僧。
源信: 『往生要集』の著者
法然: 浄土宗の開祖
栄西: 臨済宗の開祖
道元: 曹洞宗の開祖
親鸞: 浄土真宗の開祖
日蓮: 日蓮宗の開祖
【東大寺・戒壇堂】(2012.10.21 撮影)

上は昨年10月に撮影した東大寺の戒壇堂である。
ここは堂内の「広目天」などの仏像が人気だ。
【唐招提寺・戒壇】(2011.10.02 撮影)

唐招提寺の戒壇だ。一昨年11月2日の撮影。
【阿弥陀堂への階段】

小高いところにある戒壇堂を下りると、今度は長い階段を登らなければならない。
雨はかなり降っているし、霧も深い。
【阿弥陀堂と法華総持院東塔】

階段を登り切ったところだ。位置が高いので、少し明るく感じる。
右が阿弥陀堂、左が法華総持院東塔という。
詳しくはまた次回に。

比叡山には三つのエリアがある。
東塔、西塔、横川(よかわ)の三地域に多数のお堂があり、それぞれに中心となる仏堂があって、それを「中堂」と呼んでいる。他の宗派でいう「本堂」だ。
京都からバスで行っても、坂本からケーブルカーで登っても、最初に行き着くのは東塔エリアであり、その中心が「根本中堂」(こんぽんちゅうどう)だ。
最澄が788年に、一乗止観院という草庵を建てた。年号でいうと延暦7年であり、後に年号を使用して延暦寺と称することを許されたので、「延暦寺」と言われるようになった。
一乗止観院のお堂が、その後幾度もの火災で焼けるなどして、最後は徳川家光の命によって現在の根本中堂のとして整備された。

回廊が周囲を囲んでいて、外部からは屋根しか見えない。
たしか内側は撮影禁止となっていたと思う。ネットや雑誌を捜しても、屋根と軒以外の部分が見える根本中堂の写真はまず見つからない。
これでは何が何だかわからない、と言われそうな写真だが、この日の霧はほんとうに深く、遠くが見通せないから「たぶんこちらだろう」と見当を付けて、山の中をうろうろしていたような状態だった。

根本中堂の正面に「文殊楼」へ登る階段があり、ここを登って振り返れば、もう少し全体がわかる写真が撮れるらしい。しかし、階段は濡れて危なそうであり、雨と霧がひどいので、登ってもまともに建物が見えるとも思えず、撮影は断念した。

回廊の門をくぐると、狭い中庭を隔ててすぐに中堂の建物の中だった、と記憶している。
他の寺院では見ることのできない、体験のできない、不思議な光景が眼前にある。
自分が立っている建物の奥の内陣は、暗い穴蔵のようになっていて、それを覗き込むと灯火に照らされた土間がうっすらと見えているのだ。
Wikipedia の言葉を借りると「堂内は外陣・中陣・内陣に分かれ、本尊を安置している内陣は中陣や外陣より3m も低い石敷きの土間となっており、内陣は僧侶が読経・修法する場所であることから別名『修業の谷間』といわれる」そうだ。
本尊の薬師如来と中陣の参詣者(自分)の高さが同じレベルにある。これを天台造と呼ぶのだそうだ。
最澄の教えによれば、生きとし生けるものは誰もが仏になれる(一乗の教え)のであり、本尊の仏が参詣者より上ということではない。参詣者と本尊の薬師如来は平等の立場にある。天台造りはそのことを表しているのだそうだ。
灯火は「不滅の法灯」と呼ばれ、特別な釣り灯籠に入れられている。
じつはこの日、天台座主(比叡山の住職、つまり天台宗を束ねる役職の僧)が坂本の「滋賀院門跡」まで下山して、確か僧職の任命か何かの儀式をされることになっており、「滋賀院門跡」にはその釣り灯籠のひとつが下ろされていた。ほかに観光客はいないので、ぼくはたった一人で説明を受け、灯篭と灯火をすぐ眼前に見ることができた。
説明して下さった「滋賀院門跡」の方によると、じつは信長の焼き討ちの際に一度消えたことがあるのだが、別の寺に分灯されていたので、その灯火を戻したのだそうだ。
一人だったので、灯火の芯を触らせてもらったりするなど、坂本の「滋賀院門跡」ではいろいろと教えてもらっていた。
この内陣の暗がりの様子を覗うのには、貴重な事前体験だった。
天台座主は現在第256代だそうだ。歴代の天台座主は親王が勤めたことも多くあって、必ずしも比叡山に住んでいるとは限らないそうだが、滋賀院門跡で聞き違えていなければ、当日に山から下りてこられる、とぼくは聞いた。比叡山のどこに住まわれているのか、調べてみたがわからない。

根本中堂の近くのお堂をいくつか紹介する。
大講堂は昭和39年に坂本の讃仏堂を移築したもの。本尊は大日如来で、その左右には比叡山で修行した各宗派の宗祖の木像が祭られているそうだ。
そのことはまた、次回にでも触れたい。

大講堂も晴れた日に撮られた写真を見ると、優美な建物だ。この写真では細部が見えないが仕方がない。
近くに鐘楼があり、その屋根の下へ入るなどして、雨を避けながら撮影した。

上は鐘楼を撮影した。

5月29日水曜日、霧深い比叡山から少し時間を巻き戻してみたい。
大津市の観光の中心はJRの大津駅よりも、むしろ京阪石山坂本線(石山寺と坂本間を結ぶ)の「浜大津」駅にある。浜大津駅前のビジネスホテルを朝8時前後に出たぼくは、京阪石山坂本線で坂本へと向かった。
上と下の写真は、浜大津駅から撮影した大津港と琵琶湖だ。

比叡山の山頂では食事をするような場所はないだろうと予想していたので、おにぎりなど調達する予定でいたが、浜大津では駅前にも駅中にも、おにぎりや弁当を販売しているコンビニなど一軒も見つからない。

とにかく京阪電車に乗って坂本へ向かうと、駅名がいろいろとおもしろい。
坂本の二つ前は「松の馬場」駅。坂本城趾があるそうだ。
坂本城は1571年比叡山焼き討ちの後、明智光秀が築城した城で、ルイス・フロイスは安土城に次ぐ名城という認識でいた。
その次が「穴太駅」。坂本駅のひとつ前の駅だが、坂本駅まで歩いても近い。
「そうか、ここが穴太(あのう)か…」という感慨に耽る。
上と下の写真は、京阪坂本駅前を東西に貫く、「日吉馬場」と呼ばれる県道沿いの石垣である。

戦国時代の城造りと「穴太衆(あのうしゅう)の石積み」というのは、切っても切り離せない関係にある。
直木賞作家佐々木譲さんが『天下城』という穴太衆の親方を主人公に描いた小説がある。
武田の黒川金山で働いていた穴太衆の若者が、武田の戸石崩れをきっかけに村上義清の配下となり、戦地を転々とするうちについに織田信長と出会う。穴太衆の若者が成長して、安土城の城造りに参画するという物語だ。

上と下の写真は、「滋賀院門跡」へ向かう途中の石垣で、穴太の石積みのようだ。
「穴太衆の石積み」というのは、戦国時代の歴史好きにとっては、伝説的な響きを伴う言葉なのだが、坂本ではこのように、町の随所に穴太の石積みを見ることができる。

坂本から比叡山へ登るなら、比叡山の僧の「里房」として知られる「滋賀院門跡」と、それに天台宗の中興の祖といわれる慈眼大師(天海和尚)の廟所「慈願堂」が隣り合っているので、この二つを見学しつつ、周辺にある「穴太の石積み」を眺めて、それからいよいよ比叡山へ登るというのが、もっとも適当なのではないかと思い、ぼくはそれを実践した。

上が「滋賀院門跡」の石垣の様子だ。
ところで、京阪坂本駅付近にコンビニはなく、「滋賀院門跡」や「慈願堂」の周辺はお堂と石垣ばかり。ケーブル坂本駅にも、ケーブル延暦寺駅でも昼食の調達はできなかった。
そこで仕方なく、比叡山を下りてから、夕刻の16時頃に坂本のとあるカフェへぼくは入る。ここまでがじつは伏線である。
口うるさそうなオヤジさんがオーナーのカフェだ。
店内に展示されていたバラの写真と、ぼくが持ち運んでいた CANON の大型カメラ というところから、結局はいろいろとアルバムを見せてもらったりしたのだが、それはともかく、店のマガジンラックに「穴太の石積み」(平野隆彰著、¥2,300- )という立派な本を見つけた。出版元はなんと官報などを出版している株式会社かんぽうだ。
ぼくはここで30分あまりこの本を読み耽った。

堅苦しい学者たちと民間の調査研究家のぶつかり合いなど、本を読んでいるとさまざまな構図が見えてくる。
「穴太の石積みというが、そこらの石を適当に積み上げた『野面(のづら)積み』とたいして区別はつかない」などの対立意見も出てくる。
ぼくがこの記事で出している石垣の写真だが、「石垣の石と石の堺にある横の線が真っ直ぐに通っていない」
それが穴太積みの特徴だというのだから見た目はよくない。「野面積みと区別が付かない」などと悪口を言われるのもうなずける。
もっとも、「横へずれて崩れる心配がない」とも言えるのだが…。
上の写真は里房の庭園の名勝と言われる「旧竹林院」付近の石垣だ。
以降の写真は「旧竹林院」から県道「日吉の馬場」へ出るまでの狭い通りで撮影した。

Wikipedia でも確認できるが、穴太の石垣職人として知られた家が現在にも伝わり、後藤家と粟田家という。
この粟田家の14、5代目がテレビに出たり、安土城の修復に参加したりされたらしく、この辺りから世間的にも「穴太の石積み」が有名になったらしい。

整然と石垣が積まれた近代的な城は、石を切り割りする技術が発達して以降のもので、それまでは「野面積み」とならざるを得なかったのだろうが、ただの野面積みでは城の石垣を支えられないだろう。そこに「穴太衆の石積み技術」があったのだということのようだ。
石積みの技術について、もう少し詳しく書くこともできるが、それではブログの記事として退屈だろう。
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見た目がぱっとしないので、写真としておもしろくないし、細かな文章を読むのが面倒だ、と思われる方もいらっしゃるだろう。
しかし、歴史好きの方は「穴太の石積み」という言葉よくご存じのはずで、それでも、「実態はよく知らない」という方がほとんどではないだろうか。
一人旅だと、おもしろそうな本を見つけたら、その場で納得いくまで読んでしまうこともできる。
ぼくはなんとか「穴太の石積み」の技術的なところまで理解しようとしてカフェで時間を過ごした。
ぼくにとって「坂本」は、町全体が美しい「穴太の石積み」の町であり、比叡山の里房が立ち並ぶ町であった。

一般の観光客が比叡山に入るにはふつう二つのルートがある。
1. 京都方面からバスなどを利用するルート
2. 坂本からケーブルカーで登るルート
ぼくは坂本からのルートにこだわった。
なぜなら、叡山で修行を終えた老僧が里房を構えて隠居生活を送るのは坂本の町だからだ。

ケーブル坂本駅とケーブル延暦寺駅の区間を30分に1本の間隔で、比叡山坂本ケーブルが運行されている。
小雨降る5月29日水曜日の朝、乗客はせいぜい数人のみだ。

ケーブルカーの車窓から登ってきた線路沿いの景色を撮影すると、実感ではかなりの斜面でも、撮れた写真はほとんど高低差が感じられない。
だから、少し横を向いて、電車の内部と、線路と、横から下方にかけての景色を同時に写し込むのがよさそうだ。

ケーブルカーの路線からして、坂本の町は右下方に見えるはずなので、見えているのは琵琶湖と坂本の町ということで間違いないと思われる。

ケーブルカーがすれ違うのは、全線のちょうどまん中ということになる。
毎時0分と30分に、坂本駅からの上りと、延暦寺駅からの下りが、同時に発車しているのだ。
背景の町と琵琶湖も写し込んである。

いまはケーブルカーで一気に登ることができるが、昔の修行僧は歩いて登ったはずだ、と思いをめぐらす。
高度が上がるにつれて、霧が少しずつ濃くなってくる。
残念だが、この日は比叡山からの景色は望めないと諦めた。その代わり、霧の比叡山という被写体がぼくを待ち受けていた。

延暦寺駅へ到着すると、何度も来ているらしい数人の女性客はさっさとケーブルカーを下りて歩き始める。
ぼくは乗務員に声をかける。ケーブルカーの傾斜角度を尋ねてみる。
最大18度くらい、だそうだ。実感ではもっとずっと急角度に感じていた。
小雨に備え、撮影のしやすい身拵えを整えてから歩き出す。

このような林の中、ほかに誰もいなくなった道を、とぼとぼと一人で歩いて行く。雨の平日は、こんなに観光客が少ないのだろうか。
歩いていくと、霧はますます深くなるように感じられる。

これはたいへんな日になりそうだ、という予感がする。
傘を差していても、ウインドブレーカーがじっとりと湿っぽくなる。

延暦寺の文字が見えて、ここで500円を支払うが、寺域は3エリアに分かれているので、チケットはなくさないよう気をつけなければいけない。
坂本の慈眼堂で受けた説明によると、延暦寺という名前の寺はないのだ、そうだ。比叡山にたくさんのお堂があって、総称して延暦寺と呼ばれているだけだ、という。
憧れの比叡山は、深い霧の中でのお堂巡り、ということになった。