【小原古邨展のポスター】

撮影場所:茅ヶ崎市美術館 & 高砂緑地
撮影日:2018.10.03
撮影機器:iPhone6以下同じ
都内の大きな美術館とは異なり、地方にはそれぞれの地方の風土を生かした美術館があり、そうした美術館を訪ねるのもなかなか楽しいものだ。
小原古邨(おはらこそん)展が茅ヶ崎市美術館で開催されているとの記事を日経新聞で読んで、見にいってみようという気になった。
美術展の内容や、この小原古邨という画家について書きたいことはたくさんあるけれど。今回の記事はそれとはまた別だ。
【高砂緑地】

茅ヶ崎駅から徒歩5分ほどで美術館に着いてしまうが、美術館は松などの巨木の多い緑地の中にある。「高砂(たかすな)緑地」というそうだ。

【川上音二郎・貞奴の別荘跡】

明治30年代に「オッペケペー節」で知られる明治の俳優、川上音二郎が愛妾の貞奴と暮らした別荘がこの高砂緑地にあった、という。緑地の中には、二人の住居跡といわれる井戸枠が松の木立の中に残っている。
【原安三郎氏邸(松籟荘)の跡】

さらに、この緑地は大正8年、原安三郎氏(元日本火薬・会長)の別荘となった。
昭和59年に茅ヶ崎市が購入し、日本庭園を構えた高砂緑地として開園した。
美術館へのアプローチは緑地内にあるので、どうしても周辺の松林、梅林、日本庭園を散策したくなる。これがなかなか変化に富んでいて楽しい。美術館は原安二郎邸を取り壊して建設されたが、その邸宅の一部がそのまま残されていて見学できるようにもなっている。

【美術館へのアプローチ】

写真のこの道を通って、やや高い位置にある美術館へと向かう。

【茅ヶ崎市美術館の建物】

【日本庭園と茶室の様子など】







iPhoneでの撮影が続いたが、常に携帯しているので便利であることは確かだ。
だからスマホで撮せる写真の質が向上していくことはやはり望ましいことだと思う。
一方で、通常のブログ記事の写真を iPhoneで代替することはとても考えられない。
「写真の質」と「持ち運びの便」を天秤に掛けつつ、シチュエーションに応じてどちらを選ぶかということだろう。


6月3日の日経新聞夕刊に、中世のテンペラと油彩の混合技法を追求してきた日本の画家 川口起美雄 さんの個展が平塚市美術館で開催されている、とのコラム記事が載った。
昨年秋に東京都美術館で開催された「ウフィツィ美術館展」を契機にぼくはルネサンス美術に傾倒しているが、当時のボッティチェリなどの代表作はまだ油彩ではなくテンペラの技法で描かれていることから、上の記事に強く惹かれ、6月11日に平塚美術館に出かけた。

平塚市は、首都圏外の方には七夕祭りなどで知られた湘南地方の地方都市に過ぎないかも知れないが、平塚市美術館周辺を歩いてみると、文化の振興にも力が入っていると感じる。
上の写真は平塚市博物館の横を通って美術館に向かう小径だ。隣の工場の敷地と小道との境界の塀に、市内中学校の美術部の生徒たちが競って絵を描いているのが目を惹く。
当日は絵を観るのが目的だったから、写真はすべて iPhone による撮影だ。


上は平塚市博物館の庭園にあるD52。
【平塚市美術館】

平塚市美術館の2階だ。
壁に「川口起美雄 ー 絵画の錬金術師」と表示がある。

美術館の内部は広々として美しい。

ロビー脇の棚には画集ほか美術関係の本が並べられていて、自由に読むことができる。
もう少し広いデスク・スペースがほしい。

2階から出て、美術館の外庭を眺めたところ。
【横浜ゴム平塚製造所記念館】

平塚市というと、戦前から海軍火薬廠があったところ。その敷地は戦後、横浜ゴム平塚製造所に払い下げられ、戦後の同市の発展に寄与した。
写真は横浜ゴム平塚製造所記念館だ。
駅から北へ数分で平塚八幡宮があるが、その西隣に位置する。美術館へいくには八幡宮と横浜ゴム平塚製造所記念館のあいだに挟まれた細い道を北へ行くのが徒歩での近道だ。
写真の西洋館は、1912年頃に無煙火薬を製造していた「日本火薬製造」によって建造されたもので、英国から招いた支配人が居住していたらしい。戦後米軍に接収され、払い下げを受けた横浜ゴムが応接や会議に使用していたという。

現在は横浜ゴム社から平塚市に無償譲渡され、平塚市の管理下にある。

観光客は七夕祭りや砂浜での海水浴などに目が行きがちだが、こんなところもあります、という紹介だ。

今年は尾形光琳300年忌ということで、熱海の美術館で『記念特別展「燕子花と紅白梅」 光琳アート -光琳と現代美術-』が開かれています。
3月3日までなので残りわずか。昨日2月27日に観にいってきました。

エレベーターのトンネルのカラー・アートはMOA美術館の名物です。


黄金の茶室の復元展示もこの美術館の名物となっています。
3回目の挑戦で、ようやく見られる写真になりました。金の輝きをとらえるのは、簡単ではないと感じます。


以下、美術館の庭園の様子が続きます。


松、竹、梅と並べてみました。

やはり紅白揃えましょう。


熱海駅前平和通り商店街の「海蔵」で遅い昼食をいただいて、海岸の方へと下っていきました。
これは「坂町の寺桜」です。明治の初めにはここに医王寺という寺があり、境内に植えられた桜のうちの一本だ、と言われているそうです。

大寒桜(おおかんざくら)という品種で樹齢130年だそうです。


糸川遊歩道まで下っていき、アタミザクラが少しは残っていないか、と期待したのでしたが、ご覧の通り。

咲き残りの花の様子は、妙に妖艶な感じがしました。

5月9日、東海道線藤沢駅から北へ徒歩約15分、時宗の総本山清浄光寺(せいじょうこうじ)を訪ねた。
3年ほど前から奈良、京都、鎌倉などの古都を訪ねるうち、著名な寺院にも立ち寄ることが多く、気が付いてみれば日本の主要仏教13宗派のうち、かなりの数の総本山を訪れている。
お参りしていないのは金剛峯寺、久遠寺、大念仏寺、永平寺のほかは、この清浄光寺だった。遠方ならともかく、同じ神奈川県内だから、一度は訪ねてみたいと思っていた。

清浄光寺は「遊行寺」という名のほうがよく知られている。宗祖・一遍以来、代々の遊行上人が法主として、念仏を広める布教の旅に従事したのだそうだ。
浄土真宗の信者数が約1250万人、浄土宗が600万人、日蓮宗が385万人などと言われるのに対し、時宗は5万9千人程度だそうだから、奈良の古い仏教、法相宗、華厳宗、律宗などと同様に、日常生活ではあまり馴染みはない。

図式的なものの見方をすれば、法然、親鸞、一遍の三上人がひとくくりで、現世において阿弥陀仏を念じ、浄土への往生を願う、ということであるらしい。それぞれ信心や悟りについての考え方に相違があって、一遍上人の考え方は「南無阿弥陀仏」という名号そのものに絶対的な力があって救われるのだ、としたらしい。



堂内には阿弥陀如来座像が安置されていたと記憶しているが、「本尊は?」と尋ねられたら、阿弥陀如来と答えるのではなく、「南無阿弥陀仏の名号である」と答えるのが正しいらしい。


境内は広く、本堂の裏から西側へと放生池、社務所、社務所の庭園などが広がっている。
今回の記事ではそこまで紹介しているとたいへんなので、本堂回りだけで終わらせていただく。
ぐるりとまわって、社務所前の中雀門の横を出てくると、目の前にまたオオイチョウが出てくる。

イチョウは樹高21m、幹回り 7.1m。かつては高さ31m あったが昭和57年の台風で幹が折れてしまったという。それが復活して現在に至っている。樹齢は不明だそうだ。

イチョウの下から中雀門のほうを見ている。
最後にもう一度本堂の姿を眺め、この日は清浄光寺を後にし、藤沢本町駅へと向かった。


昨日の二宮・吾妻山の花々のつづきです。
登ってきたので身体が暑いくらいなのに、陽射しが降り注いで、しばらくは上着も脱いで、美しい景色を眺めていました。

縦の構図にすると、近くから遠くまでの菜の花にフォーカスを合わせるのに、いったいどうすべきかと迷います。
一番手前は諦めました。三脚を持ってここまで登ってくる体力があれば、まだやりようはあるように思いますけど。

位置関係からすると、見えているのは真鶴半島なのかな、と思うのですが、こういう広域の遠近感が自分にはできていないので、自信がありません。

20分ほどここにいたら、急に風が出てきて、今度は寒いくらいになりました。
風はどんどん強くなって、寒いからダウンジャケットを着ようとするのに、吹き飛ばされそうになります。
やがて、立っている脚がぐらつくくらいになってきました。

平塚のひとつ先が大磯、そのもうひとつ先が二宮。駅前に吾妻山の登り口があり、一気に登るその途中です。
言葉よりも写真が雄弁でしょう。


八重化している花もちらほら見られます。

鎌倉の光則寺ではソシンロウバイしか見られませんでしたが、これがロウバイなのでしょうか。
