fc2ブログ

勧修寺・氷室池と観音堂

2013.11.24(18:30)

勧修寺・池の向こうの観音堂131009

 醍醐の勧修寺(かじゅうじ)、「雨宿りのロマンス」の少女の父は宇治郡の大領(統治者)で宮道弥益(みやじいやまさ)と伝えられています。
 その屋敷跡に、少女(宮道列子)の孫にあたる醍醐天皇が、900年に創建しました、
 そのため、藤原高藤の流れを汲む家系は、寺名にちなんで勧修寺流というそうです。


勧修寺・池の向こうの観音堂縦131009


氷室池と中の島と千年杉131109

 池は「氷室池」といい、かつては広かったのですが、秀吉が伏見城建築をするとき道を通し、半分を埋め立ててしまったとか…。
 池を巡りながら写真を撮っていると、何やら大きな鳥が池から飛び立ったりしまして、水鳥がかなりいるようですが、いずれも池の中央より遠い側で、さらに睡蓮の葉が邪魔になり、写真を撮ることはできませんでした。
 寺の説明では、中央にある中の島は、夕方になると琵琶湖から帰ってくる水鳥の宿になっているそうです。


勧修寺・氷室池2131109

 雨上がりに寺を訪ねましたが、湿気でレンズが曇り、上の写真には一部見苦しい点があります。


勧修寺・氷室池3131009


勧修寺・氷室池5131009


勧修寺・観音堂2131009


勧修寺のウルシ131009

 写真の木はウルシです。
 わが家の近辺ではあまり見ないので、新鮮でした。木の陰の奥のほうに本堂がありました。

雨宿りのロマンス

2013.11.23(19:00)

【勧修寺の門】

勧修寺の門131009

 摂関家の藤原良門(よしかど)には高藤(たかふじ)という若君がいて、鷹狩りの好きな好青年でした。
 高藤はその日、家来を連れて南山科へ狩りに行きましたが突然雷雨に見舞われ、ある屋敷に駆け込んで雨宿りをさせてもらいます。
 酒と食事のもてなしを受けるのですが、給仕してくれたのは13、4歳くらいの少女でした。長い髪が美しくとても可愛い。夜になり、頼んで先ほどの少女を寄越してもらい、高藤は少女を抱き寄せました。
 共寝をした明くる朝、「親が嫁がせようとしてもそんなことはしないでくれ。これを約束の証に置いていく」と少女に太刀を与えて高藤は帰りました。


【勧修寺・宸殿】

勧修寺宸殿131109

 高藤が帰らないので心配していた父の良門は、息子の帰還を喜び、以降勝手な外出はいけない、と息子に禁じてしまいます。
 さて…。
 やがて良門は亡くなり、自由になった高藤はあらゆる縁談を断りつつ、あの少女を捜します。あの雨宿りの日から、もう五、六年がすぎていました。

【勧修寺・宸殿の額】

勧修寺宸殿額131109


【勧修寺・宸殿の前庭】

勧修寺宸殿前庭131109

 田舎から以前の家来が上京したので、高藤は「あの少女の屋敷を憶えているか」と尋ねました。
 「もちろん、憶えていますとも」
 というわけであの屋敷を訪ねてみると…。
 いっそう美しくなった娘の傍らには五つくらいの可愛い女の子が控えていました。枕元のほうに眼をやると、あのときの太刀があります。幼い女の子をよく見れば、自分にそっくりなのでした。


【勧修寺・書院】

勧修寺・書院131109

 高藤は母と子を自分の屋敷に引き取りました。女はさらにふたりの男の子を産み、高藤も、ふたりの男の子たちも出世しました。女の子は宇多天皇の女御に入内し、やがて皇子が生まれました。これが後に賢帝と言われた醍醐天皇です。
 あの少女は、とうとう天皇の祖母になったのです。

【勧修寺・書院前の這柏槇(ハイビャクシン)】

勧修寺書院前のハイビャクシン131109

 「雨宿りのロマンス」いかがでしたか。
 若き高藤が少女と出会った屋敷はその辺りの郡の長官の屋敷で、その屋敷を寺にしたのが、ここ醍醐の勧修寺(かじゅうじ)、雨宿りのロマンスの跡だと伝えられています。

 上の物語は『今昔物語』の中にあるのだそうで、それは田辺聖子さんの『田辺聖子の古典まんだら』(新潮社)に教えてもらいました。


【勧修寺・水戸光圀デザインの灯篭】

勧修寺水戸黄門デザインの灯篭131109


【書院前の老梅】

書院前の老梅131109

 勧修寺(かじゅうじ)は、京都市山科区にある門跡寺院で真言宗山階派大本山です。
 創建は醍醐天皇、本尊は千手観音です。物語にある通りですので、皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院ということになります。寺名は「かじゅうじ」を正式の呼称としていますが、地名は「かんしゅうじ」と読むようです。
 地下鉄東西線の小野駅で下りて徒歩十分弱ですが、駅前に案内板がなく、道は通りがかりの方に聞かないとわかりにくくなっています。


【勧修寺・宸殿と書院】

勧修寺・宸殿と書院131109

 境内東側には手前から宸殿、書院、五大堂、本堂などが建ち、境内西側は氷室池を中心とした庭園です。池に面して楼閣風の観音堂(昭和初期の建立)が建っています。それらを順番に紹介しています。

【勧修寺・宸殿の裏】

勧修寺・宸殿裏131109

 明日は、観音堂の紹介です。
 新しい建物ですが、池の前に建てられていてたいへん美しいのです。

 なお、この記事は予約投稿しています。
 本日はSan Po の会に参加していて、帰宅が遅くなる場合、みなさんのところへおうかがいするのは明日になるかも知れません。

東照宮(南禅寺塔頭・金地院 内)

2013.11.18(18:00)

【東照宮へ向かう小径】

東照宮へ向かう小径121009

 方丈内の障壁画など拝観した後、境内の小径を通り、「東照宮」へ向かいます。


【東照宮】

東照宮121009

 崇伝が徳川家康の遺言により、家康の遺髪と念持仏とを祀って寛永5年(1628年)に造営したそうです。つまりは家康をお祀りする社です。


東照宮正面121009

 金地院崇伝についてはいろいろと逸話がありますが、俗説として有名なのは「方広寺鐘銘事件」。崇伝ほかが画策して問題化させたという説が一般に知られ、なにやら悪徳政治家のようにその名が知られてしまいました。
 事件そのものは歴史的事実ですが、どのくらい崇伝がかかわっていたのかは、じつは判然とはしないようです。


東照公遺訓121009

 この家康の遺訓の書かれた板が、正面にありました。
 なかなか、読ませますね。


東照宮内部の装飾121009


東照宮正面の装飾121009

 控えめな装飾が目に付いたので、一枚撮ってきました。


 浴室の水漏れが発覚し、一週間の補修工事。水漏れが二度と起きないようにと、タカラのシステム・バスに換え、ミストサウナ・暖房・乾燥機能付き としました。
 ようやくできあがって三晩たちましたが、家族全員が長風呂になる傾向があります(笑)。
 風呂上がりに、台湾土産の高山茶をいただく。身体が温まり、豊かな気分になれます。ふう〜、満足〜ぅ。


追記: いずれ「金地院」を訪ねてみようと思われている方へ

 金地院は、三門をくぐった中ではなく、蹴上から裏道を通って南禅寺三門のほうへ向かう途中にあります。
 地図をよく調べてからお出かけ下さい。

黄檗宗・萬福寺(2)

2013.11.09(18:20)

【回廊から法堂を臨む】

回廊から法堂を臨む131011

 この画像は前にも出しました。右側の回廊から法堂(はっとう)を見ています。
 下は上とは逆に、左側の回廊から法堂を見ています。


左側の回廊から法堂を臨む131011

 前回も書きましたが、法堂の「卍くずし」の勾欄が、萬福寺独特の意匠でおもしろく感じます。

 「ぼやけていて、何のことだかわからない」とおっしゃるかも知れません。
 近くのものはくっきりと、遠くのものほどボケて当たり前、というのはぼくの美的センスです。
 逆に、本来はっきり見えて当然の距離の近めのものが前ボケだったりすると、ぼくはとてもうるさく感じ、不自然に思うので、ぼくの写真では前ボケは間近のもののみ、ごく限定的にしかありません。

 というわけですから、「卍くずし」の勾欄というのが何のことだかわかるように、別の写真を出します。


【法堂から大雄寶殿(だいおうほうでん)を振り返る】

法堂の勾欄内側から大雄寳殿を臨む131011

 勾欄のデザインがなかなかのものだ、とわかっていただけたでしょうか。
 下の写真は、もう少し端のほうから撮りました。


法堂勾欄内側から大雄寳殿を横向きに臨む131011

 こんなふうに、中心の大きな建物と建物のあいだは、しっかりと長方形に区切られていて、両端を回廊が囲っており、回廊の外側にまたさまざまな小さい建物が建てられています。


【屋根付き廊下の魅力】

建物をつなぐ屋根付き廊下の魅力131011

 建物と、周囲を囲む回廊のあいだも、このような屋根付き廊下で繋がっています。
 この存在が、いろいろな角度から建物を眺める楽しみを与えてくれまして、とても魅力的です。


【廊下と松】

廊下と松131011

 回廊と建物をつなぐ屋根付き廊下で区切られた長方形の中庭には松が植えられるなどしていまして、変化に富んだ眺めを提供してくれています。


【天王殿前の廊下を見通す】

天王殿前の廊下見通し右131011

 布袋像のある「天王殿」ですが、「弥勒菩薩(布袋)のほか、四天王、韋駄天が祀られている」とのことですから、「天王」とは、持国天、増長天、広目天、多聞天などのことかも知れません。
 中国寺院では一般的に玄関として見られるお堂だそうです。


【禅堂】

禅堂131011

 座禅をするところです。


【鐘楼】

鐘楼131011


【齋堂前の廊下】

斎堂前の廊下131011

 廊下を通って「齋堂」へ向かっています。齋堂というのは食堂のことです。
 奥に魚の形をしたものがぶら下がっています。これを叩いて、寺院内のさまざまな儀式や食事などの時刻を知らせたようです。木魚の原型なのだそうです。


【魚板】

魚板131011

 繰り返し叩かれた箇所がわかりますね。


魚板アップ131011

 FREUDE さんのコメントでも触れられていました。
 たいへん印象的で、人気の被写体になっているようです。

黄檗宗・萬福寺

2013.11.05(17:50)

【萬福寺・総門】

萬福寺総門131011

 黄檗宗(おうばくしゅう)萬福寺のある黄檗駅は、京阪宇治線の宇治駅のふたつ手前にあります。
 宇治といえば平等院鳳凰堂ですが、そちらを見に行かずに萬福寺を訪ねたのは、鳳凰堂が改修中ということもありますが、萬福寺という寺の特殊性に惹かれたからでもありました。
 日本で禅宗として知られているのは、臨済宗と曹洞宗のほかは、黄檗宗しかありません。
 臨済宗と曹洞宗の寺院は過去に数多く訪問していますし、それぞれの宗派の特徴もよく承知していますが、黄檗宗の寺院というと、San Poの会の途中にちょっと立ち寄った程度でしたから、その大本山の萬福寺はぜひ一度訪ねてみたい、と思っていたのでした。


【萬福寺・三門】

萬福寺三門131011

 栄西が宋から帰国して臨済禅を日本に伝えたのは鎌倉時代の直前、道元が伝えた曹洞宗は鎌倉時代に入ってからですが、いずれにせよ広まったのは鎌倉時代です。
 黄檗宗は唐から日本へやってきた僧・隠元が江戸時代に萬福寺を開きました。


【萬福寺・天王殿正面】

萬福寺天王殿正面121011

 しかし、臨黄ネットという公式サイトがあるように、隠元は中国臨済宗の僧であり、黄檗宗は臨済宗の一派に属するとしてもよいようです。それが日本では独立した黄檗宗としてみなされてきたのは、黄檗宗の寺院や衣装や経典の読み方などが、明風をずっと守ってきたからだ、と言われています。
 臨済宗の妙心寺が隠元を迎えようとしたのに、僧たちの反対で実現せず、徳川家綱と酒井忠勝の支援で萬福寺が開かれた、という歴史があるらしい。臨済宗と名乗りたかったけれど、臨済宗側の反対で黄檗宗と称したとも言われています。
 「普茶」と言われる精進料理などでも知られているようですが、今回は普茶はいただきませんでした。
 京都旅行の最終日、腰痛を堪えつつの訪問でした。


【天王殿から三門を臨む】

萬福寺天王殿から三門を臨む131011

 特異な寺院構造をしていまして、日本の寺のように地形を生かして建物があるのではなく、僧門をくぐったあとは、前のほうから整然と、三門、天王殿(てんのうでん)、大雄寶殿(だいおうほうでん)、法堂が並び、各区画は長方形に整然と仕切られ、その仕切り部分は屋根付きの廊下になって、建物がつながれています。
 まずは前のほうから、順番に拝観していき、法堂まで行ったら、その左右、回廊にそって自由に左右の建物群をぶらぶらと眺めながら三門までもどってくることにしよう、と思いました。

 上の写真は「天王殿」から「三門」を振り返って見ています。
 主要な大きい建物は、このように一直線に整然と並んでいます。


【天王殿の横の廊下】

天王殿の横の廊下131011

 天王殿の右横です。
 このような屋根付きの廊下が、左右の囲いのところの廊下と、建物をつなげています。
 上の写真の廊下の右側は三門のある側、写真の廊下の左側は、これから向かう大雄寶殿のある側になります。
 天王殿の左側も、上の写真と同様に同じような廊下があります。


【天王殿の布袋像】

天王殿の布袋像131011

 たしか、布袋さんはじつは弥勒菩薩なんだ、という理屈だったと思います。
 「臨済宗のように他宗派の影響を受けていない禅宗だったのではないのか」と訊かれそうですが、まあ、その質問に答えられるほど、ぼくは詳しくありません。


【大雄寶殿】(だいおうほうでん)

大雄寳殿131011

 天王殿の中を通り抜けたところから大雄寶殿を撮影しています。
 繰り返しになりますが、このように、大きい建物は一直線に並んでいます。


大雄寳殿横から131011

 ようやく大雄寶殿まできました。本堂の扱いになります。本尊は釈迦如来です。


大雄寳殿左横から131011

 こういうところ、揮毫は誰の手によるものかとか、重要視されますが、素人がそれを追いかけていっても、とても憶えきれないし、区別も付きません。
 大きい額は隠元禅師の筆によるものだそうです。


大雄寳殿内部131011

 大雄寳殿の内部です。写真撮影等とくに禁止の札はありませんが、本尊の直接的な撮影は礼儀として控えています。


【法堂】(はっとう)

萬福寺法堂131011

 大雄寳殿を抜けて最後の区画です。
 一番奥に法堂(はっとう)があります。説法が行われる場所です。
 住職が居住している甘露堂は、法堂右側の東方丈の裏側にある、と書かれていました。非公開です。


法堂から振り返る131011

 法堂から振り返って、大雄寳殿を眺めています。
 
 さて、ここから左右の回廊など自由に通りながら、左右の建物群を眺めつつ帰っていくわけですが、写真としてはここからがおもしろいのです。
 屋根付きの回廊と建物がつながっているため、多彩な構図が可能となりまして、ほかの寺院ではなかなか見られない画像が出てきます。
 次回をお楽しみ下さい。


回廊から法堂を臨む131011

 この角度からだと、隠元禅師の揮毫も見えるし、屋根付き廊下に釣り灯籠とか、おもしろいでしょう?
 法堂の前、「卍くずし」の勾欄(別の言い方なら欄干でしょうか)が中国風を醸し出しているところも見つけていただきたいです。
 次回に続きます。

ヤブカラシの結実

2013.11.02(10:06)

踏切前のヤブカラシ131011

 京都から宇治へ行くには、鴨川に沿って南下する京阪電車に乗り、支線の京阪宇治線へと乗り継げば30分くらいでしょうか。とても近く感じます。
 宇治駅の二つ手前に黄檗(おうばく)という駅があります。
 中国から来た禅僧隠元(いんげん)が開いた禅宗・黄檗宗の大本山・萬福寺です。
 前日10月10日に腰を傷めた私は、一晩休養してそのまま横浜へ帰るのも残念なので、ホテルから電車一本で行ける萬福寺なら一個所だけよってみてもよいだろう、と午前中萬福寺へ行きました。
 駅から10分程度の距離でした。


ヤブカラシの結実2131011

 ここはJR奈良線というのも京阪線と並走して通っていまして、その奈良線の踏切を渡ろうとして、はっと足を止めました。
 「これは何の実?」葉と花の咲いた跡の花序を見れば、「ヤブカラシ」としか見えません。
 しかし、横浜ではヤブカラシが結実した様子を見たことはまだ一度もなく、横浜の方のブログでも年に一回程度、「結実しためずらしいヤブカラシを見つけた」と、一粒二粒の実が写真として載る程度。これほどたくさんの実がなっているのは見たことがありません。


ヤブカラシの結実131011

 まだ自分の目を疑っていました。
 花弁が散ったあと蜂や蟻などが蜜を吸いに来る花盤が小さい。つまり花がとても小さい。横浜で見るヤブカラシの花はひとつひとつがもっと大きく堂々としているので、小さすぎて「よく似た別の種類があるんじゃああるまいな」と疑っていました。


ヤブカラシの結実横長アップ2131011

 滅多にないチャンスと写真を撮りましたが、腰痛はかなりひどく、無理に中腰や前屈みになろうとすると、痛みで身体が安定しません。そんな中でなんとか撮ってきた写真です。
 「結実するヤブカラシは2倍体、ふつうのヤブカラシは3倍体」という程度の知識はありましたが、そもそも意味がよくわかっていなかったので、この記事を書くに当たり調べました。


ヤブカラシの結実縦131011

 ネットなどで調べると、
 ・ヤブカラシには2倍体と3倍体がある。
 ・対になった染色体数のことを言い、有性生殖をする動物の多くは、両親から配偶子を通してそれぞれ 1 セットのゲノムを受け取り、計 2 セットのゲノムを持つ2倍体(ヒト, 2n = 46 など)であるが、植物には様々な倍数体が存在している。
 ・結実するヤブガラシは西日本を中心に分布する2倍体で、より広い範囲にふつうに見られる三倍体は結実しない。
 ・横浜のヤブカラシはふつう3倍体で小葉が5枚。結実する2倍体のヤブカラシには、3枚や4枚のものが混じる。


ヤブカラシの結実アップ131011

 なるほど、この日に撮影したヤブカラシには、どことなくヤブカラシらしくない小葉3枚のものが画面に見えています。ぼくが直感的に感じた違和感には、葉の様子もあったのでしょう。庭の草むしりなどのときには、まだ小さくても、ヤブカラシ独特の鳥足状複葉を見つけては、目の敵にして抜いているのです。

 目の具合はかなりよくなってきました。多少痛みますが、ちゃんと見えています。
 疲れ目を抑えるよう、一昨日には眼鏡屋さんであたらしいメガネを注文してありますが6日頃にできあがる予定になっていて、まだ多少用心しつつ、記事を書いております。
 「老眼の進み具合は大したことはない」のだそうで、ブルーカット・コーティングのほうが効果があるようです。つまりは加齢により、光のちらつきがかなり目の負担になっているようでした。
 昨日はベッドサイドの照明を変えて工夫したりしました。

高台寺。茶室と圓徳院庭園

2013.10.31(17:51)

【茶室・遺芳庵】

茶室遺芳庵121008


【時雨亭前から傘亭を臨む】

高台寺・時雨亭前から傘亭を臨む121008

 高台寺の東の山際の高台には、時雨亭と傘亭という、ふたつの茶室があります。
 時雨亭前から傘亭のほうを見ています。


時雨亭と傘亭121008


【傘亭内部】

傘亭内部121008

 傘の内側のように見える天井を撮るべきらしいのですが、撮ってありません。


【シュウメイギク】

高台寺・シュウメイギク121008

 帰り際にシュウメイギクをもう一枚。


【圓徳院】(高台寺別院)

圓徳院を訪ねる121008

 北政所ねねが77歳で没するまでの19年間の余生をここで過ごした、として知られています。


圓徳院方丈片庭121008

 上・下とも圓徳院方丈北庭です。
 伏見城化粧御殿の前庭を移したものだそうです。
 迫力ある石組などが桃山時代の庭の特色だそうです。
 

圓徳院方丈北庭2121008


圓徳院の外国人観光客121008

 上は南庭だったか…。
 西欧人の観光客を入れて撮ってみたかったのでした。

 本日午後から目の具合が悪く、準備済みの写真を並べたものの、コメントをタイプしてもほとんど読めません。
 詳細な注釈はできません。タイプミスなどありましたら、明朝直します。
 今晩はみなさんのところへもおうかがいできそうにありません。ごめんなさい。

ご無沙汰いたしました! プログ再開です

2013.10.26(19:03)

【鞍馬山・鞍馬寺奥の院魔王殿】(7日)

鞍馬寺奥の院魔王殿131007

 10月7日から11日まで、京都を散策してきました。
 7日は鞍馬寺。ケーブルを使わず徒歩で登り、貴船神社まで歩いて下りました。
 8日は嵯峨野。天龍寺、常寂光寺、祇王寺、落柿舎、二尊院、清涼寺と歩いて回りました。
 9日は醍醐勧修寺、随心院、醍醐三宝院、醍醐寺と歩きました。
 10日は知恩院、青蓮院門跡、金戒光明寺、真如堂と回りました。
 11日は黄檗宗・萬福寺のみ。


【嵯峨野・祇王寺】(8日)

祇王寺131008

 ブログは12日に再開の予定でしたが、じつは10日の朝、京都の知恩院で腰を痛めました。歩くことはできたので、10日の午後はそのまま歩き回ってしまいましたが、夜になってから痛み始めました。
 11日は荷物を軽くして午前中黄檗宗・萬福寺だけを見学し、午後は帰路につきました。
 翌12日に横浜美術館で横山大観についての講演会に参加の予定だったのでこれを強行。
 San Poの会は夜の懇親会のみ参加したのですが、どうも12日の動き(とくに講演会場の椅子)が腰を悪化させたようで、13日になるとPCの前に座るのもきつい状態でした。
 本日の写真は、じつは12日の午前中に準備したものです。それも原因のひとつでしょう。やはり無理は禁物だと反省しております。


【醍醐・醍醐寺弁天堂】(9日)

醍醐寺弁天堂131009

 さて、20日からは4日間、家族ぐるみのお付き合いのS家と台湾旅行を予定していたので、なんとか行けるように腰を治さなければならないと、PCの電源すら入れず腰痛のやわらぐのを待ちました。
 横浜美術館の「横山大観展」では16日に展示終了の作品がいくつかありまして、それはどうしても見ておかなくてはならないと、15日には2時間ほど外出しました。


【東山・青蓮院門跡華頂殿】(10日)

青蓮院門跡131010

 というわけで、台北とその近郊の写真、いろいろの土産話も今後ご披露したい、と思います。
 10日に傷めた腰の筋肉はほぼ治りましたが、負担が腰の別の部分に掛かっているらしく、左の腰から足にかけてまだかなり痛みます。歩いているほうが楽で、座っていると痛むという状態です。台北の旅行はツァーなので、飛行機とバスでの移動のあいだ、座っていなければならないのが少し負担になったようです。
 24日と25日は平塚共済病院と慶應病院の検査・診療があり、その往復が軽いリハビリになりました。
 25日夜は横浜バロック室内合奏団のコンサートがありました。
 横浜美術館の「横山大観展」は10月末に前期展示が終了し、11月1日から後期展示に入るので、本日26日、前期展示分を集中的に鑑賞してきました。


【宇治・黄檗宗萬福寺】(11日)

黄檗宗萬福寺131011

 およそ上のような状況のため、ブログは長期のお休みとせざるを得なくなってしまいました。
 腰痛は専門医の治療を受けていて、あと少しで治るだろうと思いますが、痛みの軽減具合をみながらゆるりと再開したいと思います。 

琵琶湖疎水(その2)

2013.06.24(15:00)

舟溜まりから台車に乗った舟121009

 前回は京都市の蹴上(けあげ)のインクライン(傾斜鉄道)を紹介し、舟を引き上げる台車の写真で幕を引きました。
 ちなみにこの「蹴上」という地名の由来ですが、二説あるようです。

 もっとも一般的に言われているのは、源義経が奥州へ向かう途中にこの地で平家武者の一行とすれ違い、そのとき、武者の乗っていた馬が泥水を蹴り上げて義経の衣服を汚したので、腹を立てた義経はその武者と従者計十人を斬り殺してしまった、という事件があった。そこが「蹴上」だというものです。

 上の写真、前回記事の最後の写真を、舟溜まり側から撮影しています。舟のかたちがはっきりと見えています。


舟溜まりの水門等施設121009

 この付近、京都市上下水道局の浄水場など施設がたくさんありまして、水門だの、導水管だの、古くて由緒ありそうな建物の写真とか、何枚か撮りましたがどれが何なのかよくわかりません。


いずこかへ繋がる導水管121009

 10月8日(月)が体育の日だったため翌9日は「琵琶湖疎水記念館」が休みということで、見学できなかったのが響きました。
 次回また京都へ出かけたときは、この「琵琶湖疎水記念館」と、会津藩が本陣を置いていた「金戒光明寺」の見学は第一優先だ、と考えております。


水路閣1121009

 さて、何枚か写真をご覧いただいたので、いきなり「南禅寺」へとジャンプいたします。
 蹴上と南禅寺とは隣り合っているのですが、歩いていくと、金地院崇伝の金地院とか南禅寺派の寺院が並んでいて脱線してしまうので、なかなか目標の「水路閣」まで辿り着きません。琵琶湖疎水の流れをもう一度目にするのは、南禅寺の一番東の奥まで行ってようやくなのでした。

 上の写真以降、「水路閣」の写真が続きます。


水路閣2121009

 「りんどうのつぶやき」の mico さんが何回も紹介されてまして、ぼくはずっと前から自分の目で見たいと思っていましたが、ようやく昨年10月9日になって実現しました。
 前回の記事では琵琶湖からの第1疎水を紹介しましたが、第1疎水はインクラインの南禅寺舟溜まりまで。そこから先は鴨東運河が引き継ぎます。
 一方そこから北へ枝分かれした疎水の分線が流れています。その基点の辺りに、この水道橋があるのです。「水路閣」と名付けられています。インクラインからここまでの距離は約500m だそうです。


水路閣3121009


水路閣4121009


水路閣の真下121009

 上の写真は水路閣の真下で撮影しています。


水路閣横から見下ろす121009

 水路閣を上から見てみようと坂を登っています。


水路閣の上の水路121009

 水路閣の水路は、閉ざされた柵の向こう側。上へ出て行くと危険なので、柵で閉じられています。


水路閣の水路の行き先121009

 では、水路が流れていく先はどうかというと、このようにトンネル内へ消えていきます。
 その先はというと、ずっと北へ歩いて行くと、どこからかまた通常の水路に戻っていまして、その水路に沿って散歩道があります。


哲学の道121009

 上の写真は南禅寺から北上していく「哲学の道」です。
 西田幾太郎さんが思索に耽りつつ歩いた道なのでそう呼ばれるようになったとのこと。
 上の写真の右側に水路が流れています。それが南禅寺の水路閣から流れてきた「疎水分線」です。


哲学の道脇の疎水分線1121009

 名前に惹かれてこの「哲学の道」を銀閣寺まで歩き通しましたが、適当にしておいて金戒光明寺のほうへ下りるべきだったか…、などと、いま思えばそんな気もするのです。


哲学の道脇の疎水分線2121009

 さて、ふつう京都の川は北から南へ流れるのですが、疎水分線は小高いところを南から北へと流れています。
 どこまでも歩き続けるわけにはいかないので、銀閣寺で疎水分線を辿るのを止めましたが、鴨川の合流するところを越えた辺りで分線は西へ向かい、最後は堀川へつながっていた、ということのようです。

 二日間にわたり「琵琶湖疎水」の記事を読んでいただいて、ありがとうございました。

方広寺・豊国神社から耳塚へ/京都旅行記

2013.02.27(18:00)

方広寺釣り鐘拡大121010

 昨年10月10日、午前中に清水寺、河井寛次郎記念館などを見てまわったぼくは、そのまま歩いて「方広寺」へ向かった。
 あの有名な釣り鐘の文字を、自分の目で見てみたい、と思っていた。


方広寺釣り鐘全体像121010

 「方広寺」というのは、そもそもは秀吉が発願した大仏造立のための寺院だった。開山は大徳寺の古渓宗陳を招聘した。 
 地震で倒れた方広寺の大仏殿を豊臣秀頼が再建することとなり、その鐘楼の梵鐘に銘が入れられたとき、家康はその文言に重大な言いがかりをつけた、というのが「方広寺鐘銘事件」として知られている。
 「国家安康」という句は家康の名をふたつに切ったものであり、「君臣豊楽、子孫殷昌」は豊臣を君として子孫の殷昌(繁栄)を楽しむ、と解釈されるので、徳川を呪詛して豊臣の繁栄を願うものだ、としたのだ。


方広寺鐘楼121010

 大仏殿はほぼ完成し、1614年4月には梵鐘が完成したが、7月下旬、「梵鐘の銘文の内容に問題がある」などとして開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期が命じられた、という。


方広寺鐘楼部分121010

 鐘楼はふだんは内部へ観光客を入れていないようだが、「どうぞ、かまいません」と気軽にぼくを入れてくれた。
 細かい文字がたくさんある中で、よくぞこの2カ所に文句を付けたものだ、と感心する。
 はたして家康や崇伝の謀略であったかどうかはわからないが、少なくともこちらの梵鐘を守っておられるご婦人や、あるいは大徳寺の各塔頭でお話しした方々など、「京都の人たちはおおよそ秀吉びいきで家康嫌い」という印象をぼくは抱いた。
 こうした人気・不人気が「物語」を作り、やがてそれが事実であるかのように一般にも信じ込まれる。歴史とはそのようなものと、歴史学者ではないぼくはそんな印象を抱いている。


豊国神社正面121010

 豊国神社は、もともとの方広寺の敷地内にあるということで、現在も方広寺の釣り鐘を見たその足で隣の豊国神社を見てまわることができる。
 後陽成天皇から豊国大明神の神号を賜ったとのことで、豊臣秀吉が祀られている。


豊国神社正面2121210


豊国神社の千生り瓢箪121010

 上と下の写真のように、千成瓢箪や太閤出世ぞうりの飾り物がいかにも豊国神社らしくてよい。


太閤出世ぞうり121010


耳塚130210

 豊国神社から歩いて数分のところに、この供養塔(五輪塔)がある。
 耳塚として知られている。豊臣秀吉の朝鮮出兵のうち、慶長の役で戦功の証として討ち取った朝鮮・明国人の耳や鼻を削いで持ち帰ったものを葬った塚だそうだ。
 当初は「鼻塚」と呼ばれていたらしい。しかし林羅山が鼻そぎでは野蛮だからと著書の中で「耳塚」と書いて以降、耳塚という呼称が広まった、とされている。二万人分の耳と鼻が埋められているそうだ。
 戦功の証というが、ぼくには戦争のむごさの証のように目に映る。


 ----------------------------

 ところで、ぼくは先月 Amazon の Kindle PaperWhite という読書用タブレットを買いました。
 すでに「吾輩は猫である」、「風の又三郎」、「高野聖」(泉鏡花)、「武蔵野」(国木田独歩)、「生まれ出づる悩み」(有島武郎)、「人間失格」(太宰治)、「五重塔」(幸田露伴)などを Kindle で読みました。
 古い作家の本は無料でダウンロードさせてくれて、字の大きさを自分が読みやすい大きさに調整でき、古くさい漢字熟語などはその場で辞書を検索できます。明治時代の作家の小説などを読むのに楽であり、期待が外れても無料だから損をした気分にならないで済むのです。(現在の著作権法では、作家の死後50年で著作権が切れるので、1963年1月以前に亡くなった作家であればタダで読めることになります)
 価格はWi-fi 接続のみの安価なほうが 7980円です。

京都

  1. 勧修寺・氷室池と観音堂(11/24)
  2. 雨宿りのロマンス(11/23)
  3. 東照宮(南禅寺塔頭・金地院 内)(11/18)
  4. 黄檗宗・萬福寺(2)(11/09)
  5. 黄檗宗・萬福寺(11/05)
  6. ヤブカラシの結実(11/02)
  7. 高台寺。茶室と圓徳院庭園(10/31)
  8. ご無沙汰いたしました! プログ再開です(10/26)
  9. 琵琶湖疎水(その2)(06/24)
  10. 方広寺・豊国神社から耳塚へ/京都旅行記(02/27)
次のページ