
撮影場所:伊勢自動車道・奥伊勢PA
撮影日:2017.08.05
撮影機器:Canon EOS 5D Mark III
レンズ:EF24-105mm f/4L IS USM 2枚目も同じ
白一色のムクゲがめずらしく感じたので撮影しました。
私はいままでほとんど見かけたことがない、と思います。

最初の2枚は8月5日の伊勢自動車道の奥伊勢PA(下り)で撮影しました。
雨が降っていても、パーキングエリアで休憩しようとすると晴れてくれます。写真撮影も十分にできます。
微妙な天候状態であることが、写真でもわかります。
以下後半の3枚は、8月9日の小石川植物園の林の中での撮影です。

撮影場所:小石川植物園
撮影日:2017.08.09
撮影機器:Canon EOS 5D Mark III
レンズ:EF100mm f/2.8L Macro IS USM 下2枚も同じ
小石川植物園のムクゲはかなり大きな木で、八重咲きなのですが、上の写真はたまたま八重になり損ねた花を撮影したもので、花柱といっていいんでしょうか、ずいぶんと太い、変わったムクゲであることがわかります。
下の2枚はふつうに八重化した花を撮りましたが、その八重化の段階がいろいろなものがあって、おもしろい木でした。


ちなみに8月9日の小石川植物園は天気予報で熱中症の危険ありと騒ぎ立てていたせいか、お客さんがほとんどいなくて、園内の各所でいつ見回してみても私以外にお客さんは2、3人しか見えませんでした。そんな中で私は4時間ほど頑張っていました。
帰宅後にブログを更新する体力は残っていませんでした(笑)。

撮影場所:三重県熊野市井戸町
撮影日:2017.08.05
撮影機器:Canon EOS 5D Mark III
レンズ:EF24-105mm f/4L IS USM
とりあえず ハマユウにフォーカスを当てて1枚。
「ハマユウは温暖な地方の海岸の花」と前にも紹介しましたが、紀伊半島は三重県熊野市井戸町の七里御浜沿いで撮影しました。
背景の獅子岩は、2004年7月、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部として登録されています。
幼児二人を伴った長女夫妻に連れられて、3日間の自動車旅行でした。現地では津市に赴任している長男が案内役。帰路は夏休みの帰省を兼ねて長男も一緒に帰ってきました。
雨に多少は降られましたが、真っ先に伊勢神宮の天照坐皇大御神にお願いしたのがよかったか、外を歩くときに限って晴れており、1日の差で台風にも遭わず、帰宅できました。

獅子岩は、Wikipedia によりますと、「高さ約25メートル、周囲約210メートル。砂浜を挟んだ東隣に位置する鬼ヶ城の海蝕洞などと同様、波の侵食によって形成されたもの」。井戸町にある「大馬神社の狛犬になぞらえられており、そのため大馬神社には狛犬が置かれないでいる」そうです。

三重県食べ歩き旅行記の最終回になります。
本居宣長邸の拝観や御城番屋敷の見学等が月曜休みということでできなかったため、時間があまってきて、松阪市内をぶらぶらと歩いていました。
松阪へ来たらここだけは見ておきたいというひとつに、変なものがありまして、それは上の写真のビル。左下がその店頭です。
事情があってわが家ではこれまで毎年1回ここのステーキ肉を食べる機会がありまして、それはもう、おいしいことこの上なし。ここが知る人ぞ知る「和田金」です。
ちなみに店頭でステーキ肉を買うと100g 2200円、お店でステーキ定食をいただくと一人前14960円です。
写真が出てこないのは今回は諦めたから(笑)


上右の写真は松阪木綿手織りセンターです。松阪木綿は藍染めの縞模様が特色で、この地の名産品となっています。
手織りの織機が並んでいたり、下の写真のように商品が展示・販売されていて、なかなかよい雰囲気でした。


手織りセンターの近くに「三井家発祥の地」があります。1622年三井高利がここに生まれ、幼少より刻苦勉励して当地の商人として成功し、1673年江戸へ出て越後屋呉服店を開店したのが商人としての三井家のはじまりだそうです。

大通りから一本内側の通りを歩いていますと、このように古い街並みが見られます。
松阪城に移築された本居宣長旧邸跡の写真を以前紹介しましたが、あれもこの通りで撮りました。
「和田金」と並んで有名な「牛銀」の本店もこの通りにあります。写真は撮りましたが「本日休店」の札が目立ちすぎて今回の掲載はやめました。

この通りを抜けた魚町橋でカモメに餌をやっているおじさんがいました。

寒くなってきたので、ここで斜めに折り返して松阪城の駐車場へ戻ります。その途中で見たのが上の写真。東京近郊でも、1月には数回このような剪定を見ています。クロガネモチの実がなったあとに剪定して、葉を落としたのだと思われますが、人工的に過ぎてどうも落ち着きません。

自動車で移動して捜したのが「小津安二郎青春館」です。
小津安二郎は東京生まれでしたが、大正2年小津一家が父の郷里である松阪に移ったため、安二郎は松阪町立第二尋常小学校に編入したのだそうです。当時の日記など読むと、ハリウッドスターと文通したりとんでもないことをやっていまして、やはりふつうではありません。
お客さんが少ないので、ここのおばさんがとてもていねいに説明してくださいました。わが家では「座頭市」シリーズ全作品に続いて「寅さんシリーズ」全作品に挑戦中。日本映画再発見の気運が盛り上がっているところで、よいタイミングでした。

三重県食べ歩き旅行の締めくくりは名古屋駅での遅い昼食です。
長女の案内で「矢場とん」のみそかつ定食でした。
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昨日は横浜バロック室内合奏団第61回定期演奏会へかみさんと出かけました。テレマンから始まって、エマヌエル・バッハのチェンバロ協奏曲、最後がモーツァルトのフルート協奏曲K314。やはり最後がいいですね。「ドイツバロックから古典派へ」という流れで選曲したようですが、はやりモーツァルトが圧倒的でした。

三重県「食べ歩き」旅行の最終日、松阪城を出たところからの記録です。
松阪城の正面を下りていくと、目の前に上の写真のような光景が広がっています。
左側の屋敷、ずいぶんと長く繋がっていると見えませんか?

左側のひとつ手前にはこのような建物があり、これは「御城番屋敷」の土蔵で、当時は城内に建てられていた米倉で、ここへ移築されたとのこと。つまりこれが事実なら、松阪城の建物としてはこれが唯一現存しているもの、だそうです。
トップの写真の長い建物の手前を左側に曲がったところにあります。

しかし、おもしろいのはこの景色。オートバイは何かの配達のようで、個人の家に配達しているわけですが、たとえば一軒の家をちょっと覗き込んでみると、こんな感じになっています。

家と家の間隔は皆無で、「組屋敷」といい、昔の松阪城警護のための紀州藩士と家族のための「組屋敷」がそのまま残され、建物は左右それぞれ、向こうまで長く繋がっているのです。
表札があり、いまでも人が住まわれているのですが、みなさん紀州藩士の子孫の方々なのでしょうか。
一軒(西棟北端)が復元整備され公開されているそうですが、月曜日はお休みで見学できませんでした。

この南北に長い通りを抜けて右側を見ますと、「松阪神社」があり、そのままぐるっと背後のほうを眺めれば、丘の上へ松阪城の石垣が広がっています。写真をよくご覧になれば、家が途切れなくずっと繋がっていることがおわかりでしょう。

とりたててどうこういうほどのことはないのでしょうが、このようなお城の警護の武家屋敷が残っていて、いまも一般住居として使われている、ということが、とてもものめずらしく感じました。
石畳の道がすばらしい。お城の景色もいい。
でも土日のたびに観光客にぞろぞろと歩かれては、お住まいになられている方はかなわないでしょう。
それならば、天守閣の復興再建とかしないで、このままのほうがよいのかも知れません。
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昨日は丸一日快調で、スポーツクラブにまで出かけたのですが、きょうは起床と同時に心房細動の発作。ちょっとしたことで一日のスタートが変わります。きょうは発作停止まで約7時間。先日の13時間よりはマシですが、一日が半分になってしまいました。
かみさんは11時半頃に帰宅しました。長男は「まだ腹が痛い、少し腹具合が悪い」とはいいながら、出勤したようです。結婚の話なども出ているのですが、嫁さんになる(予定の)女性にしてみると、未経験の土地で友人もなく、月曜日から金曜日まで夫のいない生活が二、三年は続くことになり、それもまた、たいへんなことです。

本居宣長というと、「源氏物語」を評価して、「もののあはれ」が日本の文学の特質だ、と提唱したことで知られ、ぼくも古典だか日本史だかの時間にそんなことを習い、なんとなく「文学者」のイメージが強いのですが、新潮OH!文庫の『日本がわかる思想入門』を読んでいたら、どうもそういう人ではないようです。

本居宣長は文学者である以前に、思想家であり、国学者だったということらしい。仏教とか儒教とか、そういう「外国文化の影響で日本文化はダメになった」と言いたいのが基本にあって、古代日本人の美意識こそが気高く、日本人が取り戻すべきもの、ということで「古事記」をしっかりと研究したり、「源氏物語」を持ち上げたりしたようです。
その本居宣長邸の門を、松阪城の石垣の上から見下ろしたのが、上の写真です。
この屋敷は本来公開されているのですが、旅行の帰りの日1月16日は月曜日なのでお休み。外から覗くだけでした。残念です。

本居宣長は松阪の木綿商の次男として生まれたということで、彼の屋敷は松阪市魚町1645番地に上写真の屋敷跡のようにあったのですが、明治42年に松阪城趾へ移築されました。

松阪城は名将蒲生氏郷が築城した城で、秀吉が伊達政宗の抑えとして後に会津へ転封したことはよく知られています。
蒲生氏郷の築いた城としてもう少し上手な宣伝すれば、観光に役立つのではないかと思いますが、残念ながら櫓が何も残っていない。

しかし、石垣はよく残されていて、これはかなりの魅力です。蒲生氏郷は自分の出身地でもある穴太衆を中心に地元の農民をかり出し石垣を組み上げたそうで、広大な松阪城趾は「石垣の公園」といったふうに見えます。伊賀上野城と同様、石垣の端まで行って下を覗き込むことが可能です。落ちたら自己責任です。(「穴田衆」についてはぼくが贔屓にしている佐々木譲さんの小説『天下城』で取り上げられています)

全般に地方財政の資金不足でしょうか、それとも「自然な状態を大切にしたい」ということなのか、広大な城内の松などの樹木は、やや手入れ不足の感がありました。


平山城というのでしょうか、小高い丘に築城されていて、上は城の真ん中のあたりから松阪の町を見ています。
全般に雲が厚く寒い日でした。三重県食べ歩き旅行の最終日、レンタカーを松阪で返却することになっていまして、午前中は取りあえず松阪城へ行ってみようか、という程度の発想でした。月曜日は市などが運営する施設はお休みというのは、かみさんと長女の勘定に入っていなくて、ぼくは「休みではないかな」とは思っていましたが、城などだったら自由に見られるはずなので、あまり気にしていませんでした。
それでもやはり、本居宣長邸は残念なことをしました。
なお、以上は申し訳ありませんが1月16日の記録です。旅行記として書きとめておくのが本来の目的ですが、ご覧いただく以上、本居宣長とか少しでも興味深い情報を盛り込んでおこう、と心掛けております。
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かみさんが長男のところへ行ってまして、当方は本日からやや不自由な状態となっています。
月曜から金曜まで外食だけのビジネスホテル生活。夜に仕事が終わる頃には食事できる店は開いてなくて、毎日コンビニ弁当。そんな生活で先週は土日に従兄弟の結婚式のために横浜へ戻ってくるなどというのは、やはりちょっとハードに過ぎたのか、木曜日に和歌山で具合が悪くなり、翌金曜日先輩が助けにいっても、津から和歌山まで3時間、戻ってくるのに3時間、上司が入院を手配していた病院の診療時間には間に合わなかったようです。
昨日はいったんよくなったものの夜間に苦しくなり、救急車を呼んだとか…。社宅はコンビニまで行くだけでも30分は歩かねばならないようなところで、本人がほんとうにへばると誰か手助けがいないかぎりどうにもならない。今回は仕方ありません。


三重県「食べ歩き」旅行の2日目の夜は、松阪牛の焼き肉です。
三重県長島市の「なばなの里」からレンタカーを飛ばして「津」市へ。宿泊は14日の豪勢な宿「戸田家」(あの伊勢エビ丸呑みの写真のあった宿)とは打って変わって「ドーミーイン」。とても安いビジネス・ホテルです。そこから歩いて長男が奢ってくれるという松阪牛の焼き肉屋さんへ。
焼き肉なんですが、牛肉はすべて松阪牛だということで。写真は松阪牛の特上カルビだったかな…。
その網で最後にバナナを焼きまして、特製手袋でこのバナナを剥き、それにアイスクリームをかけて食べるのがデザート。
この日はこれで終わりというわけではなく、長男の社宅(ワンルームマンション)を見に行きます。
ワンルームマンションとはいえ、東京とは違い、ゆったりと広かった。
可哀想なのは、長男の基本的な生活は、月曜日に駅前の営業所へ出社して、それから後は取引先の病院・医院回り。
医薬情報担当者(MR)とは、医薬品の適正使用のため医療従事者を訪問することなどにより、医薬品の品質、有効性、安全性などに関する情報の提供、収集、伝達を主な業務として行う仕事です。
担当先は和歌山県までずっと広がっていて、その日ごとに津の営業所へ帰ってきていては仕事になりません。月曜日に出かけたら、帰ってくるのは金曜日。この社宅にいられるのは土日だけなのです。そしてその土日にどこかへ買い物へ出ようにも、自動車がなければどうにもならない土地柄です。
ハードな仕事だし、MRの認定試験に受かっていないと都合が悪い。そんな仕事だから新入社員でもある程度給与は高いのです。贅沢な自動車を買いたい、という気持ちもまあ、理解できなくはない。
というわけで、彼の社宅マンションを家族全員で「そうか、こんなところに住んでいるのか」と見た上で、「きょうはご馳走さまでした」とホテルへ引き上げました。

先日桑名市長島町の「なばなの里」のイルミネーション・ショウについて、予告をしました。
「なばなの里」は植物園であり、入場料は春と秋が1500円、夏が1000円なのに対して、花などはほとんど何もない真冬の入場料が実質2000円(入場料1000円+施設内レストラン等利用クーポン1000円)という、不思議な料金になっています。
その理由は冬季のウインター・イルミネーションにあります。
お客さんは夜に自動車で駐車場へ集まってきて大混雑となります。これを嫌って早めに入場すると、今度は寒い。イルミネーションショウの場所取りで頑張ろうとすると、早い時間から寒さに震えつつ待つことになるのですが、近隣の方たちはどうも慣れていて、それなりに防寒に準備怠りなくやってくるようです。

出発点は「光のトンネル」でして。これをくぐり始めたときは「まあ、イルミネーションといったって、ぜいぜいこんなものだよね」という感想でした。

これを潜り抜けたところに2011年度630万球の花畑とテーマ「日本の四季」のショウがありました。遊び半分どころではなく、だれかしっかりしたディレクターの指導の下に本格的に創られた大イヴェントです。
平面に広がる広場、右奥くの丘、正面奥の大樹という構成の場面で、全体が日本の四季をテーマにイルミネーションの色を変えて輝くのです。きちんと動きがありまして、次にどう変化するか、観客はそたびに「おおっ」と歓声をあげて喜びます。

白いのは当然「雪」をイメージしているのでしょう。横に長い画像は長女が撮影したものを使っています。

色がこうなったら、それは「桜」でしょうね。

そして新緑。

このあと、木が花火のように光ります。これは真夏の花火だと思います。
これは動画でないとおもしろくないので、中途半端に光った花火は省略いたします。

これはたぶん「紅葉」でしょう。

最後にもう一度、洞窟を抜けて「日本の四季」の会場を抜けます。
大混雑です。スマートフォンを自動車に置きっばなしで、「日本の四季」の会場では2回はぐれかけまして、怖い想いをしました。

会場は、「日本の四季」以外にも美しく彩られています。
これは「鏡池」。

こちらはクリスマス・ツリーのイメージかな。

「なばなの里」全体の夜景です。
すごいショウでした。2000円でこれだけ楽しませてくれるなら十分でしょう。寒いですけれどね。
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この後は津市のビジネス・ホテルへ向かいますが、長男から松阪牛の焼き肉をご馳走してもらい、そのあと彼の社宅マンションを見に行く、という予定になっていました。
長男の「ドイツ車」購入計画云々の話ですが、「将来のことをよく考えて贅沢は慎んだほうがよい」とか、いくらでもアドバイスしたいことはあるわけですが、彼の仕事の実情を勘案するとなかなかそうも言い切れません。アドバイスではなくて、「なんと贅沢な! 」という当方の感想は耳に入れるようにはしています。
とはいえ、過去40年間、自分や日本及び世界の経済状況、環境などに関しての自分の予想、その他大勢の方々の予想は、ことごとく外れて、むしろ自分には「ああしておけばよかった」「こうしておけばよかった」などの後悔のほうが多いというのに、「こうしたアドバイスや感想がほんとうに的確かどうか」ぼくはまったく自信がないのです。
「どうせ先々どうなるか世の中の変化を読み切れない」のであれば、「好きなようにしていればよい。そのほうが後悔しないで済むかも知れない」としか言いようがありません。
「刹那的」な考え方のような気もしますが、「刹那的」なのかどうなのか、「先が読めない」のだからわからない。とりあえずは、かなりの額の買い物を実行しようかと計画できるまでに子どもが成長したことを、喜んでおくしかない、という心境です。
本人にしてみれば、「身を削って稼ぐ」ような生活振りをしています。ぼく自身よりははるかに頑健にできているようなので、まあなんとか続けていかれるだろうか、とは思っていますが…。
三重県食べ歩き旅行の記事の続きだ。伊賀上野城で遊んだ1月15日の夕刻を紹介したい。
なばなの里(なばなのさと)は、三重県桑名市長島町駒江にある植物園で、長島観光開発株式会社の運営するナガシマリゾートの一施設だという。
かみさんと長女がここへ行くことにとてもこだわり、そのために計画の中にレンタカーまで組み入れた。
しかもわざわざ夕刻にここへ 行くというのだ。
理由は、じつはテレビの紹介番組で見たらしい。「イルミネーションがとてもきれい」というのだ。
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「空飛ぶ円盤」ではない。これは「フライングアイランド」というアトラクションで、 高さ45メートルまで上昇し、最頂部で展望台が1回転し360度の景色を堪能できるらしい。
理解しにくいのは、上に乗っている看板だ。

この施設は通称「アイランド富士」といい、上に乗っているのは富士山らしい。「いったいどういうセンスなんだか…」とぼくはこれから始まるというイルミネーション・ショウへの期待を少し減じてしまったのだが、暗くなる頃が近くなるにつれて、場内はどんどん混んでくるのである。
しかし時季は1月の半ばであり、夕刻になるにつれて冷え込んでくる。
ほとんど花のない植物園内を奥へ進み、長男のすすめで桑名名物の「安永餅」を食べながら暗くなるのを待つのだった。

桑名で隠居していた松平定信(楽翁公)が非常時の食糧として安永餅を考案したという伝承があるそうだ。
つぶ餡(あん)の入った細長く平らな焼餅で、桑名市の名物。「ともち」とか「牛の舌もち」とも言われたらしい。
このあと、すばらしいイルミネーション・ショウが展開されるのだが、Olympus のカメラは感度に大きなハンディがある。質の良い写真はあまり期待しないでいただきたい。満員電車の中のような大混雑の中、なんとか見られる程度まで手ぶれを抑え込めた写真だけを、後日また紹介したい。
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えー、ひと休みしようと、「つなぎ記事」で申し訳ありません。
毎日テンションを上げて書いていると疲れますし、明日はまた甥の結婚式などで忙しい。
でも安永餅はおいしかったですよ。桑名方面へお出掛けのときには是非どうぞ !
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【根岸森林公園の梅 開花情報】
本日午前中ひとまわりしてきたがまったくダメでした。
紅冬至だけが咲き進み、たとえば冬至が一輪、八重野梅が二輪、田子ノ浦が二輪、一歳が数輪。水心鏡が一輪開花していましたが、これで「梅が咲いていました」とは、ぼくも言う訳には行きません。「馬の博物館」庭園で、八重寒紅もしくは八重唐梅と思われる紅梅が数輪開花していました。
この週末の梅見は無理だと思います。

「三重県食べ歩き旅行」の続きです。
伊賀上野城の公園内には、伊賀の土豪屋敷を上野公園内に移築した「忍者屋敷」があります。外観は何の変哲もないごく普通の茅葺きの農家ですが、屋敷のあちこちに、防衛のためのしかけがほどこされています。
「どんでん返し」「抜け道」「隠し戸」「刀隠し」など、さまざまなからくりがあるのですが、あっという間にすばやくからくりが動くので、撮影はほとんど不可能です。
その代わり、受付のお姉さんがサービスしてくれました。
以降、長女とぼくの撮影が混ざっています。

ここの博物館の開設によりますと「江戸時代、藤堂藩の治世になると、忍びと呼ばれた人々の子孫は「伊賀者」として、参勤交代 の際の藩主の護衛役や国内の情報収集にあたったり、または『無足人』という農兵として帯刀 を許され、各村の自治を任されたりしました。これらのことから、伊賀の忍者は誇り高き武士 であったと言える」とのことです。
「忍者屋敷」と「忍者博物館」の見学の後は、お待ちかねの忍者ショウです。
くのいち(女性の忍者) のお姉さんが格好よくて人気でした。

とてもいい位置で構えてくれました。

決着がついたようです。

この人が座長のようです。見事にスパッと切りました。真剣を使っているようです。そうとしか見えません。許可を取ったりたいへんではないかと思いますが…。

忍者ショウですから、手裏剣を投げないと誰も満足しません。写真は忍者屋敷の地下の博物館で撮ってきたものですが、この真ん中の手裏剣はかなりの重さのようです。
これを投げるのは座長のおじさんですが、立てかけた板へ向かって投げると、ぶうんと飛んで、ドスッという感じに、突き刺さるというよりめり込みます。これが当たったらただの怪我では済まないでしょう。ほかの手裏剣は軽いらしく、パン、パンっと刺さります。

伊賀の組紐というのは武具として使われたり茶道具として使われたり、有名だったようです。
伊賀忍者は組紐の術で相手の武器を搦め捕ることができたとか…。

実際の場面は素速すぎてとても撮れません。
手裏剣投げとかも撮影できたらよいですが、とても無理というものです。
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さて、伊賀上野を出たあとは、高速道路に乗りまして、伊勢長島方面へ向かいます。
午後の二時頃だったでしょうか。途中のパーキングエリアで食事をしました。
「亀山名物みそ焼きうどん定食」を注文してみました。残念ながら写真は取り忘れました。
味噌焼きうどんは野菜や肉がたくさん入っていて、定食はそれをおかずに白いご飯を食べるというものです。スープと漬け物がついてきます。
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新宿御苑の「スズカケの並木」については、いろいろなご意見をいただきました。
ちなみに、わが家近隣の根岸森林公園の前の通りは、ユリノキの並木でして、これも巨木を無理矢理剪定したため妙な形になっていまして、ひとことでいえば「可哀想」です。
巨木に成長する木を無理矢理に並木にするというのは、ぼくとしては本来あまり好きではありません。
いっぽうで、新宿御苑の庭園は真冬の真っ青な空を背景に白く剥けた樹の肌が映えて、不思議な美しさを演出していておもしろいな、という気持ちもあります。めったに見られない光景でもあります。
あまり「可哀想」なことをしないで、こういう美しさを創り出して欲しいものだなあ、としか言いようがなく、自分としてはとても複雑な心境です。

伊賀上野城の最大の魅力はこの高い石垣です。石の大きさなどは大したことはありませんが、堀の水面からの高さが半端ではありません。

トップの写真の直前です。犬を連れた人が先のほうへ行っていまして、ご主人ができるだけ端のほうへ連れて行き、離れたところから奥さんが写真を撮ろうとしているのです。ダルメシアン君はあきらかに怯えて嫌がっていました。

こういう写真は、とても立った体勢では撮る気になれません。

東京だったら柵を巡らして端のほうへは行けないようにするのではないか、と思われますが、ご覧のようにどこもそのままストンと落ちていける状態で、落ちたら完全に自己責任です。事故を一番起こしそうなのはカメラマンだろうな、と思います。

こうして石垣の下のほうから見ると、さほど傾斜が切り立っているわけでもないのですが、上から覗き込んだら足がすくみます。


出会った忍者装束の親子。楽しそうでした。顔がはっきり判別できない程度に縮小した画像で紹介します。お子さんがしっかりポーズをとっています。
右上の建物は俳聖殿。伊賀生まれの芭蕉を顕彰する施設で、これも伊賀上野城を再建した川崎克氏が私費で建築されたそうです。
伊賀上野の観光集客に川崎氏が果たした功績はこの城があっていまだに続いていることになります。衆議院議員当選11回、従四位勲二等に叙されたそうです。