
撮 影 日:2014.10.15
撮影場所:大和郡山市内・紺屋「箱本屋」の藍染め体験施設
撮影機器:Canon EOS 5D Mark III
レ ン ズ:EF100mm f/2.8L Macro IS USM 下の写真同じ
上の2枚の写真は2014年10月15日に訪問した大和郡山の藍染め体験施設です。使われている染料はタデアイ(蓼藍)であり山藍ではありません。
ヤマアイ(山藍)について、いろいろ疑問点などコメントがありましたので、補足します。
Wikipedia の記述から抜粋してまとめました
《染料としてのヤマアイ(山藍)について》
ヤマアイは、トウダイグサ科の草本のひとつ。
古より染料として用いられた。ただし、ヤマアイでは普通は青には染まりません。
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ヤマアイは日本では最も古くから用いられた染料であるとされている。中国からタデアイやリュウキュウアイが伝わる以前から、本種は摺り染め用の染料として用いられた。
生の葉を布に摺り付けることで染色を行い、それによって出る色は青ではなくて緑である。ヤマアイにはインジゴが含まれておらず、青は出ない。
日本語の「あお」が現在その名で呼ばれる色を示すようになったのは室町以降ではないかとも言われ、それ以前には緑色をも含めてこの名で呼んでいたと考えられる。
ただし、それはやはり青色だったのではないかとの判断から、本種を使い、何らかの手法を加え、青にすることができたのではないかとの検討も行われている。(Wikipedia より)
《ヤマアイの雌花について補足》
花盤は2裂して、それぞれ先端が披針形の突起として突き出す。その間に子房があり、子房2室はこの突起2本に挟まれて左右に突き出る形になる。
柱頭は2個、子房の各室には胚珠1つのみを含む。蒴果は亜鈴型で径約5mm、表面に突起があり、熟すと2つの小球に分かれる。種子は球形。(以上 Wikipediaより)昨日の拡大写真(上)を見ながら読んでみてください。
「これがヤマアイの蒴果だ」というわかりやすい写真を提供できればよいのですが、私もいろいろとやらねばならないことが多く、現状とても手がまわりません。
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テレビで「青天を衝け」のドラマを見ながら、藍染めの過程など追いかけているうち、またまた「どこかで見たぞ」と古い記憶が甦ってきています。
最初の2枚は大和郡山市内の紺屋さん「箱本屋」付属の「藍染め体験施設」内で撮影したものです。
以下数枚の写真は、「箱本屋」さんの内部で撮影したもの。
上は藍甕。染料の藍汁を溜めておくための壺です。
紺屋「箱本屋」さんの表構え。
内部の様子です。上、下ともに和風のおしゃれを感じます。
写真はたくさんありますが、切りがないのでやめておきます。
調べてみると、奈良、京都などを散策した写真がたくさんありますが、ほとんどがブログでは未紹介です。中にはどこで撮影したのかはっきりとはしないものもあります。
こういうことをやっているから物忘れが多いのだ、と反省しております。
【昭和記念公園のコスモス】(2016.10.07)

撮影場所:東京都・昭和記念公園
撮影日:2016.10.07
今年は10月7日に昭和記念公園へ行きました。
コスモスの丘の景色を期待していましたが、花はまばらだったため、仕方なく園内周回列車カーとコスモスを合わせて撮影したくらいでした。
【昭和記念公園のコスモス】(2009.10.12)

撮影場所:東京都・昭和記念公園
撮影日:2009.10.12
撮影機器:Olympus E3 下の写真も同じ
コスモス狙いで昭和記念公園へ初めて出掛けたのは2009年10月12日でした。
それはもう一面見事なコスモスの原で感動しました。

この頃は Olympus のE3という古い一眼レフを使っていまして、解像度には不足がありましたが、何枚かはいまでもなんとか見られる程度に撮れていました。
【法起寺のコスモス】(2011.10.03)

撮影場所:奈良県斑鳩町・法起寺
撮影日:2011.10.03
撮影機器:Olympus E5 下の2枚も同じ
2011年には、退職後初めて奈良へ旅行をしました。
斑鳩の法隆寺から延々と法起寺まであるきました。法起寺のコスモスは美しい、と聞いていたからです。

当時は心房細動が悪化しつつあるときで、発作が起きないかと心配しつつ、法隆寺から行き帰り1時間半ほどかけて歩きました。
そのかいあって、法起寺の三重塔を背景にしたコスモスの写真を撮ることができました。

カメラは Olympus のE5という機種で。E3よりはかなりよく撮れるようになっていました。
【般若寺のコスモス】(2012.10.21)

撮影場所:奈良市・般若寺
撮影日:2012.10.21 下の写真も同じ
撮影機器:CANON EOS 5D MarkⅢ
2回目の奈良旅行は2012年10月中旬。近鉄奈良駅からバスに乗って般若寺を訪ねました。
ここもコスモスでよく知られた寺院です。
カメラを Olympus のフォーサイズ仕様から CANON のフルサイズ一眼レフに乗り換えて日が浅く、使い勝手の違いに悩んでいました。シチュエーションに応じてどのくらい絞ったらよいか、フォーサイズ仕様よりもはるかに浅い被写界深度に慣れないまま旅行へ出てしまいました。
よく撮れた写真は少ないのですが、その中から上と下の2枚を選びました。

【藤原京跡のコスモス】(2014.10.19)

撮影場所:
撮影日:2014.10.19
撮影機器:CANON EOS 5D MarkⅢ 以下同じ
最後は2014年の10月19日、大和三山の見える藤原京跡のコスモスです。
コスモスは最盛期、私もCANON の一眼レフに慣れており、じっくりと時間をかけて撮影しました。
どちらを向いて撮影したかがわかりませんが、見えている山は耳成山か天香久山か畝傍山のどれか、ということになります。



これらの写真を撮影した頃と比べれば、まあセンスも少しは洗練されて、撮影技術は幾分か向上し、現像仕上げの腕も磨かれて、いまはかなり上質の写真を撮ることができるようになっているはずなのです。
しかし、こちらで紹介したような最盛期の美しい花々と、天候などの抜群のコンディションが、びたりと揃ったシチュエーションには、なかなか遭遇できるわけではありません。
そればかりは時の運。コスモスについては、今年はちょっと残念な結果なので、思い出の写真を捜してみよう、と思いました。中には未発表の写真もありますし、現像仕上げはすべて現在時点で最新の Photoshopを使い、最初からやり直しています。

10月18日、初瀬山・長谷寺の本堂を少し下った境内の一画に、フジバカマがたくさん咲いていて、ぼくが初めて見るアゲハチョウが数匹、その辺りを舞っていました。
フジバカマ(葉をしっかり確認しました)は数が激減しており、準絶滅危惧種に指定され、横浜ではまず見ることができません。観賞用として園芸店で販売されているそうです。
これはよい機会に恵まれたと喜んで、フジバカマとチョウに囲まれるようにして二十分余りを過ごしました。

本堂から降りてくる観光客の会話が耳に入ります。
「お、きれいだ! なんの花かな」
「ああ、あれはシモツケよ。間違いないわ」
ぼくは花と蝶の撮影に専念して、顔すら上げませんでした。
《追記》(10:22 PM17:07)
旅行中の新聞を点検していたら、18日(土)の日経新聞の夕刊にアサギマダラの記事が掲載されていました。
夏に東北地方の山地まで北上したアサギマダラは、9月に入ると南下の旅を始め、10月には紀伊半島付近を南下していくとのこと。
ちょうど奈良県南部の初瀬山でアサギマダラに出会うとは、まさにどんぴしゃのタイミングだったのだ、と自分の運のよさに気が付きました。
【日常の記録】
10月14日、荷造り、旅行準備。『虎と月』(柳広司)読了。
10月15日、のぞみ101号にて、京都経由、橿原神宮前駅へ。ホテルへ荷物を預け、郡山散策。近鉄郡山駅→箱本館「紺屋」→洞泉寺→郡山八幡神社→養魚池地域→郡山金魚資料館→永慶寺→柳澤神社→郡山城跡→近鉄郡山駅。
10月16日、橿原神宮前駅→吉野→吉野ロープウェイ→吉野山→バスで奥千本へ。以降徒歩。金峯神社→西行庵→金峯神社→義経隠れ塔→吉野水分神社→花矢倉展望台→竹林院→吉水神社→金峯山寺・蔵王堂。以上徒歩。近鉄ロープウェイにて吉野駅→橿原神宮前駅へ戻る。
10月17日、橿原神宮前駅より徒歩。石川池(孝元天皇陵)→水落遺跡→飛鳥寺→奈良県立万葉文化館(安野光雅『御所の花』展)→藤原鎌足誕生地→飛鳥坐神社→飛鳥資料館。帰路は最終バスにて飛鳥駅まで。飛鳥駅→橿原神宮前駅→ホテル。
10月18日、橿原神宮前駅から長谷寺駅へ。長谷寺境内等散策。近鉄にて長谷寺駅→桜井駅→三輪駅。以降徒歩。大神神社→狭井神社→展望台→若宮神社→三輪駅。三輪駅より大和八木経由で橿原神宮前駅へ戻る。『永遠のディーバ』(垣根涼介)読了
10月19日、橿原神宮前駅から近鉄にて畝傍御陵前駅へ。徒歩にて藤原宮跡のコスモス畠へ。じっくり撮影など楽しんで、昼食をはさみ、徒歩で神武天皇陵→橿原神宮裏の森を通り、橿原神宮へ。橿原神宮前のホテルへ戻り荷物ピックアップ後、京都駅経由帰宅。
10月20日、料理教室(肉じゃが、なすとピーマンのみそ炒め、かきたま汁)。午後、写真バックアップ、MACメインテナンス。『マスカレード・イブ』(東野圭吾)読了。日本生命担当者面談。
10月21日、洗濯物アイロンかけ、片付け。スキップの散歩。MACメインテナンス。原稿書き。
【安部寺跡】

安倍文殊院は元安部寺といい、現在の安倍文殊院の約300m 南西にあった、と昨日書いた。
安倍文殊院を訪ねる前に、じつは安部寺の跡地を捜しに行った。


安部寺跡として整備され、礎石が残っている。
昨日の記事に、安倍晋三首相はどうなのか、とコメントがあった。
調べてみると、陸奥国の豪族安倍宗任(あべのむねとう)の子孫らしい。前九年の役で兄の貞任らとともに源氏と戦ったことで知られている。奥州の安倍氏のルーツは定かではないらしい。
また、FREUDE さんからは「大阪の阿倍野区に晴明通りなどの地名がある」とコメントをいただいた。
同区のホームページによると、「豪族『阿倍氏』説が最も有力」とのことなので、当記事で言及している阿部氏(のちに安倍と表記を変えた)が阿倍野という地名の由来らしい。「晴明通り」は「安倍晴明を祀る安倍晴明神社が、当町と隣接する現在の阿倍野元町に所在していることに由来する」そうだ。
【安倍文殊院の山門】

上の写真は安倍文殊院の山門だが、ここを訪ねた時間はもう日没間近で、寺の灯篭には灯が灯り、お堂などの建物は夕陽に照らされていた。
【安倍文殊院内の東西の古墳】

境内には東と西の二つの古墳がある。
上は「文殊院東古墳」。

上の写真「文殊院西古墳」は安部寺を創建した阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の墓と伝えられているそうだ。
【夕暮れの境内】


【安倍晴明堂】

境内の高台に安倍晴明堂がある。この展望台のような高台で、ぼくは昨晩掲載した夕陽の写真を撮ったのだが、安倍晴明はここで天文観測を行い、吉凶を占ったと古来より伝えられているそうだ。

昨年10月は、この奈良方面の旅行の直前に、ぼくは京都で一条戻り橋と晴明神社を訪れているが、その写真記事はすでにお読みいただいた。ぽつん、ぽつんとした訪問でも、このようにつながってくると、なかなかおもしろいものだ。
(下線部をクリックすると「一条戻り橋と晴明神社」の記事にジャンプします)

阿部氏は飛鳥時代から奈良時代に大臣級の高官を輩出した一族で、平安時代以後は「安倍」と称して、安倍晴明以後は陰陽師の家系として知られるようになった。
遣唐使で留学生として唐に渡った仲麻呂もこの一族の一人だ。百人一首の「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」で知られている。このときはまだ、姓は「阿部」表記だった。奈良時代の話だ。
安倍晴明が出てくるのは平安中期のことだ。
安倍文殊院は奈良の南方、JRまたは近鉄の桜井駅の近くにある。昨年(2012年)10月16日當麻寺などを訪れた帰りに、ぼくはこの安倍寺へ立ち寄った。
安倍文殊院は文殊菩薩をお祀りしていて、大化改新とのときに左大臣となった安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が安倍一族の氏寺として建立したものである。当時はこの地の約300m南西にあったらしいが、江戸時代に移されたらしい。

この寺は安倍晴明が陰陽道の修行した場所と言われている、という。
しかし、今般はただ、たまには秋らしい景色を出したい、というだけで昨年の写真を掘り出してきた。
近年はコスモスの美しい寺として知られているらしい。
安倍仲麻呂や安倍晴明など安倍一族をお祭りするために「金閣浮御堂」が池の中に建てられ(昭和60年竣工)、その屋根がコスモスの向こうに見えているのが一枚目の画像だ。
上の写真は、めずらしく前ボケが大きいが、西日に輝くお堂を強調したかったのだろう。

コスモスを迷路仕立てに植えた区画もあり、一段と高い位置の「晴明堂」から見下ろすとこんな感じだ。

撮影はすでに日没直前のことで、ぼくにしてはめずらしく日没写真も残っている。
昨日から、浴室の補修工事をしていて、どうも落ち着きません。
今年はガス機器の更新、居間の床下暖房敷設、浴室の補修工事と、ずいぶんいろいろとやりました。
追記(23:02): 申し訳ありません。誤変換がありまして、安部 → 安倍 と訂正いたしました。

735年聖武天皇が平城京の鬼門を守るため「大般若経」を基壇に納めて塔を建てられたのが般若寺の始めだ、ということです。平安京時代は学問寺として栄えたが平家が焼き討ちしました。そのご何度も兵火に遭いつつ、現在は真言律宗の寺だそうです。
集まる客は(ぼくも含めて)寺の縁起にはあまり関心がありません。ただひたすら、このコスモスを楽しみにここを訪れているようです。
奈良駅から北へバスで10〜15分、徒歩数分のところでした。






京都や奈良の旅行の記録というよりは、これは「季節の花」の記事として掲載しました。
旅行記にこだわっていると、コスモスが終わってしまいそうに思いますので…。
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大和八木に宿を確保して、最終日だけ興福寺の近くのホテルに予約していました。
ところが、二日間も雨に降られて明日香村の散策が困難になり、雨の日に東大寺博物館などを見てしまいましたので、最終日には仕方なく奈良の中心部でおもしろそうなところを捜したのです。
結果的には、雨天のせいでこのコスモスを楽しむことができたわけです。

「こんにちは」と入っていくとお客さんが誰もいません。
広がる庭園の遠景には、え~?! とびっくり。少額の拝観料を払うと、「ご自由に庭に出ていただいて結構です」と言われてまたびっくり。

興福寺の門跡寺院だった大乗院は明治に廃絶し、室町時代の善阿弥が作庭した寺院だけが残ったのだそうです。
発掘調査を経て、整備は昨年に完了したそうです。
ホテルの近くにこんなところが残っていました。来てよかった。








奈良旅行の最後は「奈良市写真美術館」まで歩きました。
最初に美術館の喫茶店でサンドイッチの腹拵えです。入江泰吉さんも杉本健吉さんも、奈良・大和路の風物にこだわった方たち。写真家と画家、お二人の大作をじっくりと見てきました。
明日香村サイクリングの記事で書きましたが、小学館文庫に中西進さんが文章を書き、写真家の入江泰吉さんの写真を配した『万葉花さんぽ』という文庫があり、数年前にこの文庫を読んだ上での憧れが、今回の奈良旅行の原点でした。
ぼくとしては、これでやっと数年越しの片思いが実った、ということになります。
旅行記録を兼ねていますので、途中「お寺ばかりでもう飽きた」という方もいらっしゃった、と思います。最後までお付き合い、ありがとうございました。
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明日は「San Po の会」の記録記事で、甲州街道の銀杏並木、昭和天皇陵などをご覧いただく予定です。

さて、奈良旅行の記録記事は、今晩を含めてあと2回です。本日は元興寺(がんごうじ)。下のぼやきを読んでください。
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元興寺(がんごうじ)は、その前身は法興寺であり、元の地名によって「飛鳥寺」のことである、というからややこしい。「飛鳥寺」改め「元興寺」は明日香村で見てきた蘇我馬子が創建した寺なのだ、という。
あとで出てくるが、元興寺の瓦には、日本最初の寺の建立のために百済が派遣した瓦博士の造った「日本最初の瓦」というのが使われている。つまりは、少なくとも部材は古いお寺なのだ。
平城遷都によって飛鳥寺(法興寺)を元興寺に改め、奈良町へ移築したということらしい。
では明日香村の飛鳥寺は何なのだ?
しかたなく、もう一度「飛鳥寺」のパンフレットを確かめよう。
飛鳥寺のパンフレットには、飛鳥寺は蘇我馬子が造った最古の寺だと書いてあり、別名法興寺、元興寺ともいう、と書いてある。ああ、もうややこしい。
明日香村の飛鳥寺は一度焼失して江戸時代には仮堂しかなかった。
一方、元興寺も平家の焼き討ちに遭うなど何度も消失していて、その後もかなりややこしい経緯を経て現在に至っている。そうはいっても、元興寺にとっては奈良町の存在が大きかったのか、かつてよりは小さくなってしまったとはいえ、いまでは立派に再建されて、極楽堂、禅室など国宝も揃っていて、世界文化遺産に指定されているのは、この奈良町の元興寺のほうだ。
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という、元興寺の様子をご紹介します。上と下の写真は、元興寺極楽堂です。


奈良町の中にあるというのに、境内は案外と広く、静かで、美しいお寺です。


百済が派遣した博士が造った「日本最初の瓦」というのは、上や下の写真で見れば「ああ、このことか」とわかります。そこだけ艶や色が違って見えます。


境内にはたくさんの石仏や石塔があり、これがなかなかよい景色となっています。
西大寺という字が見えますが、元興寺は一時堂宇ごとに分裂して、西大寺の末寺なったり、東大寺の末寺になったり、ややこしくて説明しきれません。



上のヒガンバナは、奈良旅行の記録記事の最初に一度ご覧に入れました。
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奈良旅行の記録記事は、いよいよ次回(明晩)が最終回となります。

前回の記事で、木格子の目立つ街並みを紹介してきました。
「ならまち格子の家」は、この奈良町の中のモデル・ハウスのようにして、公開されています。入場料金は無料です。
奈良町は「元興寺」(がんごうじ)を中心に成立した門前町として、江戸時代から明治にかけて栄えたそうです。町家は町人の住まい、商いの場として継承され、伝統的な街並みが形成されました。住人不在となったり売りに出されたりする中で、地域の資産として保存に努力している様子です。

たぶんぼくが朝一番の客。初めは勝手に見てまわっていましたが、いろいろと質問するとていねいに教えてくださいます。
手前から、「みせの間」「中の間」「奥の間」と並んでいます。

「みせの間」に座って、明るい表を格子越しにのぞいています。

「みせの間」の様子を明るく撮りました。

中庭があり、渡り廊下を経て、離れへ行けます。

「離れ」から振り返って撮影しています。

「中の間」に「箱階段」を見つけました。階段の下が箪笥になっていて、いろいろと収納が可能です。ここから実際に二階へ昇れます。

二階から、吹き抜けの土間(台所)を見下ろしています。

二階の部屋の様子です。窓に近い部分は天井が低く、ぼくが立っている位置は十分な高さがあります。

「ならまち格子の家」の方がわざわざ表まで出てこられて、隣の家(個人宅)の「縁台」について説明してくださいました。上の写真は、「折りたたみ式縁台」がわかるように、少し明るめに撮りました。
脚部を前へ引きだし、パタンと倒すと縁台になって座ることができように作られています。ここで将棋をやったり、お茶を飲んだり、昔からそんなふうに使われたのでしょう。
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本日は「San Po の会」に参加していますので、これは予約投稿です。
みなさんのところへは明日おうかがいいたします。

10月6日、いよいよ横浜へ帰る当日の午前中、ホテルに近い「奈良町」界隈を歩いてみるつもりで、チェックアウトだけして荷物は預け、8時半頃ホテルを出ました。
奈良町付近には、写真のような木格子の外壁が見える家々が並んでいます。これは「奈良町格子」と言われているもののようです。
軒下に何か妙なものがぶらさがっています。

拡大すると、こんなようなものでして、猿を模って人形にした「身代わり申(さる)」です。

ほくが当ブログで何回か説明してきた「道教」が、日本へ入って変形していった一例です。
奈良町には青面金剛立像(なぜ、青面金剛立像なのかさっぱりわかりませんが)を祀る庚申堂があり、ここの「身代わり申(猿)」は人間の災難や病気、不幸を代わりに引き受けてくれることになっているのです。なぜ「猿」かといえば、それは道教が「猿田彦」信仰と結びついたからで、その経緯はとても理屈で納得できるようなものではありませんから、今回は省略します。
興味のある方は下記をご参照ください。
クリックしてください → 道教の世界から日本文化への浸透

庚申堂の写真です。朝早すぎて閉まっています。
おおよそ八割くらいの家の軒先に、この「身代わり申」がぶらさがっていました。


蚊帳とふきんを製造販売しているお店を見つけました。奈良町の名物です。こちらでふきんを土産に買いました。

「朝早くからやっているんですねぇ」「家と工場が隣り合わせで昔からずっとここでやっていますから…」とお婆さんが答えます。母屋のほうはこちらも奈良町格子でした。

外へ出ても、このような街並みばかりです。

このあと「元興寺」へ行く前に「ならまち格子の家」へ入ってみることにしました。(次回記事)
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最近読んだ本 : 雑誌 Newton12月号・特集「光速C」
↑ クリックすると感想記事にジャンプします。
・9月23日、CERNなどの国際研究チームが、「加速器で加速したニュートリノの速度が光速を0.0025%上回ったことを観測した」と発表した件について、詳しい解説が出ています。
本日は、国立新美術館の「モダン・アート、アメリカン」展を見てきました。ジョージア・オキーフ、エドワード・ホッパーなど、アメリカらしさ一杯! の展示でした。
明日は「San Po の会」があります。